instagram

永訣の巻 第五章

  一

 土壁がひととあやかしを分け隔ててから、はや一日が経とうとしている。正年は焦りを感じていた。自分は一体どうすれば良いのだろう。戦をやめてこのままおめおめと都に帰れば、口さがない公卿たちに何と言われるかわからぬ。ひとの生き死にを間近に感じたことなどない殿上人たちは、戦とは一体どういうものなのか、その実態を知らない。正年が戦を忌諱するようになった気持ちも、きっと理解しないに違いない。命を懸けてもあやかしを打ち破るべきであったものを――きっとそのように言い、彼を臆病者扱いするだろう。それだけは我慢ならなかった。
 とはいえひとが真正面からあやかしに戦いを挑んで、勝てるはずもない。今まで辛くも勝利をおさめてきたのは、様々な奇策を弄してきたからだ。今回、ただ数をたのんでここまできた彼らに、策のひとつもあろうはずがない。勝利を携えて都に帰るのは、不可能なことだった。もし、可能性があるとするならば――。
「『封印』……か」
 その単語が実際のところ何を意味するのか、理解しているわけではない。それがどうやら途方もない力を指しているのだと――そして、それを解くことができるのはあの御門紫苑だけなのだと、彼はそう思い込んでいた。御門紫苑が決意してくれれば……あやかしを滅ぼすと、その意思でもって「封印」を解き放ってくれさえすれば、全てはうまくいくはずなのに。彼はそれを拒絶した。
「何故だ」
 正年は苛立ちもあらわに宙を睨む。
「何故なんだ」
 彼にはわからない。あやかしは軍を興し、ひとを殺した。それならば殺されまいして先手を打つことの、何が間違っているのだろうか。
「間違ってなどいない……!」
 ――もし間違っているとしたら。ここにひととあやかしが並び立っていること、それそのものが間違いなのだ。出会わなければ、争わずに済んだのだから。正年は土壁を見上げ、唇を噛む。――この土壁が天空高くそびえたち、ひととあやかしを二度と交わせぬようにしたならば、きっと戦は終わるだろうに。
「正年さま!」
 名を呼ばれ、彼ははっと視線を地に投げた。駆け寄ってくる兵士の表情は、明るい。
「藤原蓮さまが、ご帰還されました!!」
「……なんと」
 正年はほっと息をついた。御門紫苑が救出したと言ったのは、口からの出まかせではなかったらしい。しかし、ゆっくりと歩み寄ってくる蓮の顔は、ひどくこわばっている。何故だろう――正年の胸が、騒いだ。

  二

 蓮をひとの陣へと送り出した後、紫苑は振り返って桔梗を見た。
「あやかしの陣には――お前が行くのが良いだろう」
「私が……?」
 桔梗は鸚鵡返しにつぶやいた。
「ああ。お前は水龍の御子だ。夜雲と対等にやりあえるのは、お前のほかにない」
 紫苑はひどく落ち着き払っていて、それが逆に桔梗を苛立たせた。彼は桔梗を見ていない。彼女の気持ちを、置き去りにしている――。
「どうして……、」
「何?」
 紫苑が首を傾げるのと同時に、桔梗は爆発していた。
「どうして、勝手に何もかも決めてしまうんですか?!」
 「世界」を分ける、と紫苑は言った。それは、桔梗にとっても数多くの辛い別れを意味する。昴にも、透流にも、燐にも、日向にも、加乃にも、もう会えなくなってしまうのだから。他に方法はないのだと――癸の死を無駄にしないためにも、これ以上の命が失われてはならないのだと、十分理解はしていても、それでもやはり受け入れがたい決断だった。しかも紫苑はそれをひとりで――もしくは朔とふたりで、決めてしまった。桔梗にはひとことも、相談がなかった。そのことが悔しくて、悲しくて、情けない。
「それじゃあ私が紫苑の側にいる意味なんて、ないじゃないですか……」
 俯く桔梗の頭上から、紫苑の困惑を含んだ声が降ってくる。
「桔梗……?」
「そうね」
 昴の声に、桔梗は顔をあげた。彼女は険しい顔で紫苑を見ている。
「桔梗にもだけど、私たちにももうちょっと相談があっても良かったんじゃないかしら? 『封印』は何も貴方の手にあるわけじゃない。私たちが揃わなきゃ、どうにもならないんだから」
 紫苑は困ったように眉を寄せた。何を言ったらいいのか、考えあぐねているようでもある。
「紫苑さんひとりが、背負う必要なんてないんですよ」
 口を開いたのは、透流だった。その片手は、昴の肩の上にある。
「それは昔――おれたちが間違えたことですから」
「……透流」
 昴が小さくつぶやいた。透流が何のことを言っているのか、彼女は一番良くわかっていた。かつてあった出雲の邑、そこでは邑の運命のすべてが巫女の双肩にかかっていた。あれは間違いだったのだと、透流はそう言うのだ。
「紫苑」
 桔梗は大きく息をついた。紫苑の手を取り、そっと胸に抱きしめる。
「大声を出して、ごめんなさい」
 これは、紫苑にとっても苦渋の選択なのだ。そんなことは桔梗には良くわかっている。だからこそ、寄り添っていられなかったことが辛かった。それでも――。
「でも」
 顔をあげ、桔梗はじっと紫苑を見つめる。
「私も、自分で決めたことですから」
「桔梗……」
「紫苑がどんな道を選んでも、側にいると――共に生きると、私は私自身で決めましたから……」
 紫苑が目を見開き、やがて小さく微笑んだ。
「仕方がないわね」
 昴は寂しそうにつぶやいた。
「悔しいけど……、私にも、紫苑と同じ決断しかできない。戦を止める他の方法なんて、浮かばないわ」
「いや」
 紫苑は声をあげた。
「選んだのは私ではない。もし私に選ぶ権利が与えられるのなら、こんな結末は望まない」
「……どういうことですか?」
「選んだのは――ひとであり、あやかしであり、その両者の歴史だ」
 互いに相容れず、殺し合うことを選んだのは、紫苑ではない。先人たちの選択の結果が積み重なり――そして今なお、戦を続けている。それは、ひととあやかしが選んできた結果だ。
「私はただ、望んだだけ」
 紫苑はつぶやく。
「もう誰の命も奪われて欲しくはないと――憎しみの連鎖を断ち切りたいと、望んだだけ」
「……紫苑」
 桔梗に抱かれた紫苑の手が、きつく彼女の指を握った。
「だからこそ、桔梗。お前にあやかしの陣へと向かって欲しい」
 紫苑は真っ直ぐに彼女を見つめる。
「選択するのは私ではない。あの陣にいる、ひとりひとりのあやかし――彼らが選ぶべきだ」
 蓮にも同じことを言った。ひとに、選択して欲しいのだと――。
「先ほど、透流が言った通りだな」
 紫苑は微笑んだ。それはまるで透き通るような、儚げな笑みだった。
「私は、自分以外の誰かの運命を背負うことなどできない。誰かに背負わせるつもりもない。歴史は、少数のものたちで選び取っていくような、そんなものではない。無数の形なき意思によって、少しずつ形作られていくものだ。私の意思や望みも、その中のほんの一部に過ぎない……」
 ――だからこそ、世界を分かつしかないと紫苑は思った。ひととあやかしが互いに交わらぬことを望むというのなら、仕方がないのだと。
「桔梗」
 紫苑に名を呼ばれ、俯いていた彼女は顔をあげた。その視界の中で、紫苑はただ微笑んでいる。優しくて暖かな、桔梗の大好きな紫苑の笑顔。だが、今はそれがどうしようもなくかなしい。
「お前はお前の道を――選んだのか?」
「……はい」
 桔梗は頷いた。涙が零れそうになるのを堪え、水龍の御子としての自分を取り戻す。
「じゃあ――行ってきます」
 紫苑もまた、頷いた。

  三

 水龍の御子が来た――その知らせは、すぐに夜雲の元に届いた。彼は緊張した面持ちで、桔梗に相対する。彼は彼女の一族の者を殺したのだ。それを、彼女は何と言うだろうか……。
 桔梗は静かな表情で、夜雲をまっすぐに見据えた。紅唇が開く。そこから流れ出したのは罵声でも呪詛でもなく、ただやわらかな言葉だった。
「真雪さまのこと――こころからお悔やみ申し上げます」
「…………!」
 夜雲はぴくりと震える。まさか、彼女が真雪を悼むとは……。
「か……かたじけない」
「貴方も」
 桔梗は続けた。
「癸を想ってやって下さい」
「…………」
「彼だけではなく、この戦で命を落としたあやかし――そしてひと。全ての命に、祈りを捧げましょう」
 広間に集まったあやかしたちは、しんと静まり返っていた。桔梗は、小柄で華奢なひとりのおんなに過ぎない――しかし、彼女は場を圧倒していた。その身に備わる威厳は四天王の直系としてのものか、それとも魂に棲む青龍のものか。
「それで」
 夜雲は気圧されている自分を叱咤し、かろうじて口を開いた。
「何の用でいらっしゃったのか」
「『封印』を預かるものとして、提案があります」
 その言葉を耳にして、夜雲の体に緊張が走る。
「……伺おう」
「この世界を、裂く」
 桔梗は言った。
「ひとの世と、あやかしの世と。裂き分けることを考えています」
「?!」
 夜雲は眉を寄せた。世界を、分ける? 一体どういうことだ――。
「そんなことが、可能なのか」
「神獣は、できると言っています」
 桔梗はあくまで落ち着いていた。
「それは、これ以上の争いを避けるため」
 桔梗の清らかな声が、静寂に波紋を描いていく。
「ひとと、あやかしと。互いが互いを排斥することを望むのなら、これ以上の命が失われてしまう前に」
「……そうか。それで」
 夜雲は得心し、うなずいた。肩から力が抜けていく。
「確かに、それが可能だというのなら」
 夜雲が周囲に視線を配ると、あやかしたちも目を見交わして頷きあっていた。――あやかしの、あやかしだけの世界が手に入るのなら。これほど喜ばしいことはない。ひとを殺す必要もないし、殺されることもない。それは真雪が夢見た未来に、きっと似ている。
 だが、目の前の桔梗だけは、強張った無表情を崩さずにいる。その意味を、夜雲には測り知ることはできなかった。