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永訣の巻 第二章

  一

 紫苑は馬上の藤原正年をみとめ、軽く一礼した。正年は従五位であるから、宮中における地位は従三位の紫苑より下である。しかしここでは大将軍であるという気負いがあるのか、ふたりを囲む兵の目を気にしてか、正年は軽くうなずいてみせただけであった。
「何故、貴殿がここに?」
 馬を止めた正年は、地上に降り立つやいなや口を開く。紫苑はことさらにゆっくりと言った。
「この戦を、止めるためです」
「しかし、藤原蓮が連れ去られたのですぞ!」
「彼なら救出致しました」
 その言葉に、正年は大きく目を見開く。
「なんと」
「今はまだ休ませておりますが……それから」
 紫苑は目を伏せた。
「真雪──蓮どのを連れ去ったおんなが、死にました」
「おお!」
 辺りがどよめく。それが喜びの声だということに気付いて、紫苑は顔をしかめた。命がひとつ散ったこと、それは悼まれるべきことであり、こんな風に歓声でもって迎えられるものではない。だが、真雪もまた数多くのひとの命を奪ってきた。これは、彼女が背負った業なのだろう……。
「蓮どのを救ったのは、正確には私の友人です」
 紫苑の言葉に、正年は顔を綻ばせる。
「それはお礼を申し上げねば」
「彼は命を賭して──蓮どのをお守りした」
「…………」
 ──癸。紫苑はぐっと眉間に力を入れた。そうしていなければ、涙が溢れ出してしまう。
「その友人は……」
 正年の、また周囲のものの視線を感じながら、紫苑ははっきりとその続きを口にした。
「あやかしでした」
「…………」
 途端、辺りが水を打ったように静まり返る。
「……彼は『憎むな』と言い遺しました。敵であるはずのひとを救い、味方であるあやかしの手に掛かって死に瀕しながら……それでも、彼は」
 紫苑は堪えきれず、言葉を切った。頬を涙が滴り落ちる。多分、憎めば楽になれるのだろう。癸を刺した夜雲を憎めば、もしくは安易に真雪を手に掛けた蓮を憎めば。彼らを憎めば、仇討ちに没頭できる。一時的ではあっても、悲しみを忘れて怒りに身を任せていられる。──だが、そのあとは。
「仇を取りましょう、紫苑どの」
 紫苑はふと顔を上げた。目の前の正年は、瞳を潤ませている。
「ご友人の、仇を──!」
「彼は」
 紫苑は首を横に振る。やはり、彼らは何もわかっていないのだ。苦笑が浮かぶ。
「それを望んでいませんでした」
「しかし……」
「永遠に仇討ちを続けるおつもりか? もし我らが誰かを手に掛ければ、次は彼らがまた憎しみを胸にやってくる。それでは同じことだ──今までも、これからも」
「永遠には続かぬでしょう」
 正年はぽつりとつぶやいた。
「我らが彼のものらを討ち滅ぼせば──この輪廻は、終わる」
「……正年どの」
「私もこれ以上戦を長引かせて死人を増やしたくはない。終わらせられるのなら早々に、と望んでいる」
 正年はじり、と詰め寄ってきた。
「停戦条件が出され、一時は領土の割譲もやむなしとも思ったが……やはり奴らは信用なりません」
「…………」
「紫苑どのには、奴らを滅ぼす秘策があるのでは? それならぜひ、それを……」
「できません!」
 紫苑は声を荒げ、さっと身を引いた。正年が鼻白むのにも構わず、早口で言い捨てる。
「とにかく、しばらくはここから動かれぬことですな。──まあ、動きたくとも動けないでしょうが」
 それが土壁のことを差している、つまりあれは紫苑がやったのだと正年が気付く頃には、紫苑はとうに姿を消していた。

  二

 帰りを待ちわびていたのか、桔梗は紫苑の姿を目にするなり駆け寄ってきた。
「紫苑!」
「すまん、待たせたな」
 桔梗の後方には昴や透流、朔がいる。蓮もまた、彼に気付いたのか立ち上がった。壬は──と探しかけて、止める。彼にどんな顔をして会えばいいのか、紫苑にはまだわからなかった。
「どうなりました?」
 尋ねる桔梗に、曖昧な笑みを浮かべてみせる。
「ひとまずあちらは足止めしておく他ないだろう。今回のことであやかしへの不信感は増している。改めて停戦に応じるように呼びかけたところで──」
「そうですね」
 うなずいたのは朔だった。
「あやかし側の出方にもよるでしょうけど、禍根を遺さずに戦を終えるのは難しそうです」
「──何がいけなかったんでしょうか」
 透流がぽつりとつぶやいた。
「どうして、こんなことに……」
「…………」
 誰も答えない。聞こえるのは、かすかな葉ずれの音のみであった。
 ──何がいけなかったのだろう。何が間違っているのだろう。紫苑は深くため息をつき、暗い空を見上げる。雷こそ鳴り止んだものの、今にも泣き出しそうな空であることに変わりはない。──どうすれば、この誤った世界を正せるのだろう……。
 紫苑はふと、顔を上げた。
「朔。話がある。少し来てくれないか」
 突然名を呼ばれ、朔は驚いたように瞬いた。その顔が、はっとするほど父親である燐に似ている。
「え……ええ。勿論」
「私は?」
 声を上げた桔梗を、紫苑は少し困ったような顔で見遣った。
「すまないが、少し待っていてくれないか」
「……もう十分待ちました」
 桔梗はいらだちもあらわに紫苑を睨んだ。
「私には聞かれたくない話ですか?」
「……必ず後で話す」
 紫苑は言った。
「桔梗だけではない。昴にも、透流にも──壬にも」
 最後のひとりの名を呼ぶとき、紫苑はわずかに躊躇った。だが、彼を外すわけにはいかない。彼もまた、かけがえのない紫苑の家族なのだから。
「──わかりました」
 やがて、桔梗はにっこりと微笑んだ。だがその目は少しも笑っていない。
「待っていますから、あとで覚悟していて下さいね?」
「…………」
 顔をひきつらせながらうなずく紫苑に、透流がひそかに合掌していた。

  三

 彼が気配も消さずに背後から近付いても、夜雲は振り返らなかった。その膝に冷たくなった女を抱いたまま、夜雲もまた生きてはいないかのように微動だにしない。――気付かれていないのだろうかと彼が訝しく思った時、夜雲はぽつりとつぶやいた。
「遅かったではないか」
「……気付いていたのかよ」
 彼は――壬は舌打ちをして立ち止まる。夜雲はやはり振り向かなかった。
「俺を、殺しに来たのだろう?」
 そこに潜むかすかな期待の色に気付き、壬は小さく鼻で哂った。
「残念だが、そうじゃない」
「何故だ?」
 夜雲が肩を震わせる。背を向けている彼が、今どのような表情をしているのかはわからない。だがきっとそれは自分と良く似ているだろう。壬は妙に冴え冴えとした心持ちで、彼の背中をじっと見つめていた。
「お前は俺を殺したいはずだ。お前の片割れを殺したのは俺なのだから! 俺があの小僧を殺そうとしたのと同じように、お前は俺を殺そうとする、それが当たり前だ。だからこそ、俺は――!」
「ここで俺を待っていた……か?」
「…………」
 夜雲は答えない。その沈黙は肯定の意味だと、壬は既にわかっていた。
 床の上にはまだ、真雪の流した血が溜まりを作って澱んでいる。夜雲は彼女が息を引き取ったこの場所で、壬を待っていたのだろう。彼に殺された弟の仇を取るために、きっと壬は戻ってくる。そう信じて、夜雲は彼を待ち受けていた……。
「俺は、伝えに来たんだ」
 壬は一歩、夜雲に近付いた。彼はまだ、壬を見ない。
「癸の――最期の言葉を」
「…………」
 夜雲の指が無意識にか、真雪の頬をそうっと撫でている。そのあまりに愛しげな仕草に、壬の喉がつまった。己の動揺を悟られぬよう、ことさらに声を低める。
「憎むな。……悲しんでもいいから、憎まないでくれ」
「…………」
 夜雲の手がぴたりと止まった。壬は彼の後姿から目を逸らす。
「俺は、それを伝えに来た。……それだけだ」
「待て」
 壬の去ろうとする気配を感じたのだろう、夜雲が声をあげる。
「お前はそう言われて、俺を憎まずにいられるのか。弟がそう言ったから、それで俺を殺さずに気が済むのか!」
「気は済まねえよ」
 壬はあっさりと答えた。
「けど、お前を殺したからって気が済むってもんでもない。……実際」
 壬はちらりと女の死体に目を遣った。
「お前はもう、あの小僧を殺しに行く気もなさそうだが、それは何故だ? 怒りに任せて他の命を奪っても、本当に取り返したい命は返って来ないって、わかったからじゃないのか。今ここで俺がお前を殺して、それで癸が返って来るなら――そりゃあ、何万回でもお前を殺してやるよ。でも、そうじゃない。お前を殺したら、俺はあいつが最期の最期に俺に託した願いを、踏みにじることになってしまう……」
「お前は」
 夜雲の声が、震えを帯びた。
「お前は、俺を殺してはくれないのか……」
「何で俺がお前にそんな親切を施さなきゃならんのだ。死にたがっているお前をわざわざ殺してやるほど、俺はおひと好しじゃない」
「…………」
「お前は生きるんだ。愛する女のいなくなったこの世界で、たったひとり生きなきゃならない。その孤独と、後悔と、苦しみと、寂しさと――全部、ひとりで耐えろ」
 夜雲は深くうなだれた。
「……それだけだ」
 壬は大きく息をつき、踵を返す。その背中から、夜雲の声が追いかけてきた。
「お前も、耐えるのか」
 ――弟のいなくなってしまった世界を、たったひとりで……。
 だが、壬は小さく笑って首を振った。
「俺はひとりじゃないらしい。あいつは俺に、弟と妹を遺して逝ったよ……」
 癸の妹、加乃。その夫、蓮。癸が命を懸けても守りたいと願ったそのふたりを、壬もまた守りたいと思う。蓮も言ったではないか、「貴方を兄と慕う」と。それに、彼らふたりだけではない。壬には紫苑という友人もいる。桔梗もいる。昴も、透流も、朔も、遠く都にいる燐も……彼らは決して壬をひとりにしない。
「俺は、負けない」
 憎しみに、悲しみに、怒りに、負けはしない。
「絶対にあいつの言葉を守ってみせる……!」
 決して我を失うことはしない、と。壬はきつく拳を握り締めた。
「だから、俺はお前を……」
 ――殺さない。
 夜雲の慟哭が響く。壬は足を速めた。頬に伝う熱い雫をぬぐうこともなく、やがて壬は駆け出す。
「これでいいんだよな……、癸……」
 外に出た壬の全身を、大粒の雨が叩いた。目を閉じて、涙と雨を混ぜ合わせる。全て流れ去ってしまえばいい。――この世界を覆う悲しみが全て、流れ去ればいい。
 壬は空を見上げ、咆哮した。