instagram

永訣の巻 第九章

  一
  
 庵を訪れた壬は、ただ黙って首を横に振った。それを見た桔梗は座り込んだまま、小さくため息を零す。
「明日もまた、探すから」
「いえ……壬にもしなけれならないことがあるでしょう? 無理しないで下さい」
「でも……」
 壬は床を見下ろし、唇を噛んだ。そこには桔梗が用意した、紫苑のための着物が散らばっている。まだ、その袖に腕を通すものはいない。
 世界が分かたれてから、既にひとつき――新しい世界で、あやかしたちは模索と試行を繰り返しながらも、秩序を構築しようとしていた。その中心になっているのが、夜雲である。彼と同じく四天王の直系である桔梗にも協力は要請されたものの、彼女はそれを固辞した。夜雲もまた、強くは求めなかった。今の桔梗の想いを誰よりも理解できるのが壬であり、夜雲だった。大事なものを亡くす痛みを、彼らは良く知っている。
「夜雲からも連絡があって……良かったら手伝いたいって」
 壬は己の弟を殺した夜雲を、決して許したわけではない。それでも、今その怒りを夜雲にぶつけたいとは思わなかった。夜雲は償おうとしている。それは真雪に対してでもあるだろうが、きっと癸のことも彼は忘れてはいないだろう。――憎むな、と言い遺した癸のことを。
 だが、桔梗はゆっくりと首を横に振った。その唇には、張り付いたように笑みが浮かんでいる。
「大丈夫。紫苑は約束してくれたから」
 壬は目を伏せた。それは、桔梗が何度となく壬に語ったことだった。
「どれだけ時間が掛かっても……必ず私のところに帰ってきてくれるって」
 自分に言い聞かせるように、桔梗は何度も何度もそう言う。涙ひとつ見せることなく、かなしく笑って。
「紫苑はああ見えて結構おっちょこちょいだから、きっと道に迷っているんです」
「ああ見えて……って、桔梗にはどう見えているのか知らないけどさ」
 壬は明るい声を作った。
「あいつはかなりのおおぼけやろうだぜ?」
「そうなんですか?」
「ああ。あれだ、桔梗は愛の力で目が曇ってるんだ」
「ふふ」
 桔梗は笑った。それはいつものかなしい笑いではなく、自然な笑みだった。――御門の屋敷にいた頃に見た、桔梗の自然な表情。
「だから、もうすぐですよ」
 桔梗は壬を見上げた。
「もうすぐ、きっと紫苑は帰ってくる」
「……桔梗……」
「だって、約束したんです」
 桔梗の拳はかたく握りしめられ、膝の上で小さく震えていた。
「必ず、帰ってくるって」
「……そう、だな」
 壬は屈み込み、桔梗の両肩に手を乗せる。水色と濃紺の視線が、交わった。
「俺も信じてる。紫苑は嘘をつくようなやつじゃない。絶対に約束は守るさ」
「……はい!」
 少しだけ、桔梗の瞳が潤んだような気がした。だが壬はすぐに立ち上がり、桔梗から目を逸らす。
「じゃあ俺、帰るな」
「毎日、ありがとう」
 背中から掛けられた声に、壬はぐっと胸がつまるのを感じた。
「……たいしたことじゃねえよ」
 毎日彼女の庵を訪ねる理由には、もちろん桔梗が心配でたまらないということもある。紫苑のいない桔梗はまるで魂の大部分を削り取られてしまった抜け殻のようで、放っておけない。だが、それだけではなかった。彼自身も、紫苑の帰りを待ち望んでいるのである。今日はひょっこり紫苑が顔を出しているのではないか、そんな期待を胸に、桔梗の元を訪れるのだ。
「あいつは、俺の家族だからな」
 壬はつぶやいた。
「あいつがそう言ったんだ。俺とあいつは、家族だって」
 それなら、紫苑の妻である桔梗もまた、壬の家族だ。彼女が水龍族の御子であるということとは関係なく、桔梗は壬の家族なのだ。
 外に出た壬は満天の星空を見上げ、毒づいた。
「全く、どこをほっつき歩いてるんだよ……!」
 諦めてはいけない。絶望してはいけない。信じ続けなくてはいけない。いっそ、彼の死を認めてしまった方が楽になるのではないか……そんな考えを振り払い、壬は野を駆けた。
「帰って来たら、一発殴ってやる!!」
 夜空に向かい、壬は吠えた。

  二
  
 ――それは、どこか懐かしい夢だった。
「大きくなったなあ、紫苑」
 そう笑う顔に、見覚えがある。今上に似た、そしてどこか彼自身の面影をも宿した――。
「先帝……?」
 つぶやくと、男は朗らかに笑った。
「父と呼んで良いのだぞ、紫苑」
「そうよ。ここにはもう、何もしがらみはないのだから」
 赤い微笑み。母上。初めて見る両親が仲良く寄り添う姿に、紫苑は目を細めた。ひととあやかし、敵同士であった彼らの間に生前どのような感情のわだかまりがあったか、紫苑にはわからない。だが、ここではふたりがしあわせそうに笑っている。その光景を目にすることができただけで、紫苑のこころは満たされた。
 やがて、ふと我にかえる。
「ここは、どこですか」
 紫苑は尋ねる。
「私は、どうなってしまったのですか」
 「封印」を解き、世界を分かつときに彼を襲った激烈な痛み――体がばらばらに千切れたような衝撃は、今はもうない。辺りは薄ぼんやりとした光に満ちていて、まるで夜明け前の空のような色をしていた。そこに彼らの影だけが、ただゆらゆらと漂っている。
「ここは、世界の狭間」
 答えたのは、母だった。
「死者の魂が流離(さすら)う場所――」
「死者の、魂が……」
 つまり、自分は死んでしまったということだろうか。紫苑は目を伏せた。最後に見た桔梗の顔を思い出す。自分に向かい必死に手を伸ばし、自分の名を泣き出しそうな顔で叫んでいた桔梗……。
「約束したのに」
 紫苑はつぶやいた。
「必ず戻ると……桔梗の元に帰ると」
 もう、誰も泣かせたくはなかった。失いたくはなかった。家族みんなの側にいることができなくなろうとも、生きてさえいてくれればいい。もし自分が死んでしまえば、桔梗を泣かせてしまう。そして自分は永遠に、桔梗を――家族を失ってしまう。それは、それだけは、嫌だ。
「お前は、私たちを憎んでいるか」
 父が、彼に問うた。父は既に笑っていない。真剣な顔で、紫苑を見つめていた。
「お前はひとではなく、あやかしでもない。半妖として、私たちに生み出された存在――」
「そのために、今こうして世界の狭間を漂っている」
 母がつらそうに顔を歪める。
「貴方をこの世に送り出した我々を、恨んでいますか」
「…………」
 紫苑はふたりを交互に見遣り、静かに首を横に振った。
「私は、生まれたことを後悔したことなど、一度もない」
 運命という名の突風に煽られながらも、彼は必ず前を向いて生きてきた。燐に支えられ、桔梗と寄り添い、家族に囲まれながら一歩一歩進んできた道のり。それは、彼の誇りだ。
 紫苑は微笑んだ。
「私を生み出したのが父上と母上でなければ、私は私にはならなかった。半妖でない私は、きっと私ではない」
 桔梗はこの紫の目が好きだと言っていた。誰もが忌まわしいと目を背けたこの瞳を、彼女は出逢った時から真っ直ぐに見つめてくれた。
「ですから――父上も、母上も。どうぞ悔やまないで」
 出逢ったことを。愛し合ったことを。
「少なくとも、私をこの世に送り出してくれたことは、決して悔やまないで欲しいのです」
「…………」
 父と母は顔を見合わせ、やがて泣き出しそうな顔をして互いに頷きあった。
「お前は先ほど、自分は死んだのかと聞いていたな」
「……はい」
 父の問いに、紫苑は頷く。緊張が背筋を走った。
「お前は死んではいない」
「ただ、ひとではなくあやかしでもないゆえに、そのどちらの世界にも入れずにいるのです」
「……世界に、入れない?」
 それでは桔梗の元に行くこともできないのか――絶望に凍りついた紫苑に、母はやんわりと微笑んだ。
「確かに貴方はひとでもなく、あやかしでもない。でも、同時にひとであり、あやかしでもある存在」
「それは――――と呼ばれるもの」
「え?」
 父の声の一部を聞き逃し、紫苑は聞き返した。だが父は微笑むだけで答えてはくれない。
「さあ、今一度お前を送り出そう」
「それが私たちの使命なのだから」
 母がそっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。指先の温もりが、じわりと伝わってくる。
「紫苑。貴方が私の子どもであることを、私は誇りに思うわ」
「私もだ」
 父が肩に手を置く。そのずっしりとした重みに、紫苑は涙が込み上げるのを感じた。
「よくぞ都を守ってくれた。そして、ひとを、あやかしを……守ってくれたな」
「父上……、母上……」
「さあ、行きなさい」
 母の指が彼の涙を拭い、やがて名残惜しげに離れていった。
「貴方を待つもののもとに」
「貴方の家族のもとに」
 ふたりの姿がおぼろにぼやけていく。紫苑の意識が急激に薄れ、闇に包まれた。
 
 ――どれほどの時間が経っただろうか。誰かが、彼を呼んでいた。懐かしい声。愛しい声。桔梗の……声。紫苑はそれに向かい、手を伸ばす。暗闇をかきわけ、進んでいく。長い夜を潜り抜けた先に、光があった。紫苑は進み続ける。その光に向かって。彼を呼ぶ、声に応えて。
  
  
  三
  
 桔梗はあてもなく森の中を彷徨っていた。どうせ、紫苑の居場所を知るはずなどない。ただ、探さずにはいられなかった。こうやって外を探している方が、庵の中でひとり待ち続けるよりはましだ。
「紫苑……」
 その名を呼ぶたび、胸が締め付けられる。
「紫苑……」
 ただ側にいてくれるということが、どれほどのしあわせだったのか。桔梗は零れそうになる涙を抑え、歩き続けた。
「紫苑……」
 大好きだった。あの優しさが、厳しさが、強さが、弱さが。愛しかった。
「紫苑……」
 どうしてあの時、手を届かせることができなかったのか。ばらばらになっていく紫苑を留めることができなかったのか。何度も悪夢にうなされ、飛び起きる。誰よりも守りたいひとだったのに、守れなかった。
「紫苑……」
 会いたい。あの大きな手に触れたい。広い胸に体を預けたい。力強い腕に、包まれたい。
「紫苑……」
 もし――このまま紫苑に会えなかったら、自分はどうするのだろうか。ふと、桔梗は思ってはならないことを思った。紫苑のいない世界に、意味などない。それなら、この世界に自分が生き続けていても、何の意味もない……。
「壬には、怒られるかもしれないけど……」
 ふと気付くと、目の前には滝があった。頭上から流れ落ちる水は、はるか下の滝壺で白い水飛沫を上げている。轟音が鼓膜を叩いた。――懐かしい。桔梗は手を差し伸べた。確か、紫苑と出逢ったのはこんな滝の側ではなかったか。桔梗の唇に笑みが浮かぶ。
「ここで……私は眠っていて」
 ずっとずっと、紫苑を待っていて、
「紫苑が、私を起こしてくれた」
 桔梗は目を閉じる。懐かしい記憶。彼女に名前が付けられた日の、大切な記憶。
「紫苑……」
 ――こんなにも私が紫苑を呼んでいるのに、どうして紫苑は応えてくれないの?
「紫苑」
 桔梗は堪え切れずに涙を零す。
「紫苑――!!」
 ふらり、と桔梗の体が傾いた。桔梗は慌てて目を開けるが、間に合わない。
「あっ……!」
 足を滑らせ、まっ逆さまに落ちていく。それもいいか、と思った。紫苑のいない世界に、意味はない……。
「紫苑」
 ――それでも、
「もう一度、紫苑に会いたい……!」
 桔梗の体が水に包まれ――そして、声が響いた。
 
 ――私を呼んだのは、お前か……?
 
「――――!!」
 桔梗は顔を上げた。滝の中からゆっくりと、長く黒い髪が現れる。

 ――それとも……私が、お前を呼んでいたのか……?
 
 上半身を現したそれは、ゆっくりと腕を上げた。桔梗は差し伸べられた手を、しっかりと握りしめる。
「紫苑……!!」
 その声に、彼は顔を上げた。瞼が開き、紫が彼女を映して瞬く。
「き……きょう……」
「紫苑……っ!!」
 桔梗は紫苑の首筋に抱きついた。水に濡れた素肌の感触を確かめるように、胸元に頬を押し付ける。
「紫苑、紫苑、紫苑」
 紫苑はおずおずと腕を持ち上げ、やがてしっかりと桔梗を抱きしめた。
「……桔梗」
 その声に、桔梗は顔を上げる。紫苑は最後に見た時と変わらぬ顔で――微笑んでいた。
「待たせたな」
「はい……っ、ずっと、待って……待って……紫苑を、呼んで……」
 紫苑の大きな手が、桔梗の銀髪を撫でる。
「呼んでくれて、ありがとう」
 桔梗は首を横に振り、紫苑を見上げた。
「……これからは、ずっと一緒にいられますか……?」
 声が震える。紫苑は深く頷いた。
「ああ。側にいるよ」
 それは運命ではなく、約束。
「ともに生きる、そのために生まれてきたのだから――」