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永訣の巻 第三章

  一

 降り出した雨は、徐々に激しさを増していた。紫苑と朔ははまだ戻らない。桔梗もまた、先ほどふらりと出掛けてしまった。昴と透流は庵の中で身を寄せ合うようにしながら、ただ黙って雨音に耳を傾けている。空は暗く、どれほどの時間が経ったのかもわからない。既に夕方近くなのか、それとも夜になっているのか……。
「ふう」
 膝を抱えて座っていた昴が、手を上げて大きく伸びをした。そのままふっと力を抜き、肩を落とす。青い瞳を床に向け、つぶやいた。
「何だか、まだ信じられないわ……」
 彼女が何を言いたいのか、透流にはすぐにわかった。癸のことだ。
「おれもです」
 癸のことは、まだ邑にいた頃から知っている。それどころか、彼を邑に受け入れると決めたのは昴自身だった。疲れきり、やつれた様子の彼を放ってはおけなかった……。
「ねえ、透流」
「何です?」
 彼の肩にことん、と頭をもたせかける昴を抱き寄せ、透流は尋ねた。
「私……透流にまだ言っていなかったわね。あの長老殺しの騒ぎを、一体誰が引き起こしたのか」
「それなら、邑に入り込んだもののけだって……」
「あれ、嘘なの」
 昴は透流の腕にぎゅっとしがみついた。その指先は白く、血の気がない。
「嘘?」
「ええ、嘘。紫苑が考えてくれた、真っ赤な嘘」
「…………」
「あれを仕組んだのは、私なの。癸と取引をして、やらせたのよ……」
 己の両親を殺した長老への復讐に、無関係な癸を巻き込んでしまった。昴は声を震わせながら、話し続ける。
「私、あの時のことをちゃんと謝ってないの。癸に、謝らなきゃいけなかったのに。まだ、謝ってないの……!」
 透流はきつく昴を抱きしめた。彼の腕の中で、昴は激しく嗚咽した。
「わ、わたし……まさか、こんなことになるなんて……、こんな」
 ――こんなことになるのなら、どうして自分はもっと早くに謝ろうとしなかったのだろう。悔やんでも悔やみきれない。もう決して、彼女の謝罪は癸に届かない。
「昴さん……」
「だって、癸は何も悪くないのよ……こんな目に遭う理由なんて、何にもないの……! 悪いのは私なのに、私だったのに」
 長老たちを殺したのは自分で、癸ではない。しかも自分は邑を滅ぼし、数多くの邑人たちの命を奪った。己の命をもっても償いきれないほどの罪を負っているのは、昴だ。癸ではない。
「もし神がいるのなら、おおばかものだわ。連れていく相手を間違ってる……」
「それは違うよ、昴さん」
 透流は静かにつぶやいた。昴の顔をあげさせ、涙で汚れた頬をそっと指先でぬぐう。
「罪があるものから、先に召されるわけじゃない」
「でも、そうあるべきよ」
「違う。もし昴さんが罪深いというのなら、償いは生きているうちにしなければならない。死んでしまったら償えるものなんて何もない」
「…………」
 きっぱりと言い切る透流に、昴は口をつぐんだ。
「癸さんには、守りたいものがあったんです。あのひと――加乃ちゃんの夫を、どうしても守りたかった。だから、そのために……命を落とした。罪なんて、関係ない」
「……まもりたい、もの?」
「ええ」
 透流は目を細めて昴を見つめた。もし自分が癸と同じ立場に置かれたなら、きっと同じ道を選ぶだろう。たとえ遺されたものを悲しませるとしても、自分が失ってしまうよりはよほどいい。勝手な理屈だと昴に怒られるかもしれない。それでも――彼は彼女を守りたい。そのためなら、全てを擲っても惜しくはない。
「……加乃に、何て言えばいいのよ」
 昴はつぶやいた。
「自分の夫を守るために兄が死んだなんて……そんなの、あんまりじゃない」
「…………」
 透流は昴を抱いたまま、小さくため息をついた。できることなら――自分を犠牲になどしたくはない。遺されたものの悲しみを、彼は既に知っている。こんな想いを、もう誰にもさせたくはない。もうこんなことはたくさんだ。こんな悲しみの連鎖は、断ち切るべきなのだ。だが、どうすればいいのだろう。どうすればこの悲しい運命を終わらせられるのだろう。
 雨音だけが、容赦なく鳴り響いている。暫し続いた重い沈黙、それを打ち破ったのは昴だった。
「……紫苑たち、遅いわね」
「ええ」
 彼らは一体何の話をしているのだろう。ひととあやかしの狭間に生きる紫苑と、神獣に一番近しい場所にいる朔。恐らく、彼も昴も無関係ではいられない。桔梗ではないが、透流も彼らの話す内容が気になった。
「大丈夫よ」
 まるで透流のこころを読んだかのように、昴はぽつりと言った。
「紫苑は必ず話すと言ったわ。だから、大丈夫。絶対に話してくれる」
「信頼しているんですね」
「妬いた?」
「少しだけ」
 くすりと笑った昴に、透流はほっと安堵のため息をついた。――癸の死は皆を大きく傷つけた。それでも、遺された彼らは生きていかなければならない。癸の想いを忘れぬように、悲しみに捕らわれてしまわないように、生きていかなければならない。昴には、きっとそれができる。
「大丈夫よ」
 もう一度、昴は言った。青いふたつの輝石が、透流を映して煌く。
「だって、透流がここにいるんだもの。私は大丈夫」
「…………」
 透流は微笑み、昴の額にそっと唇を押し当てた。――この輝きを、守りたい。強くそう願った。

  二

 水が、彼女の全身を覆いつくしている。桔梗は森の中の泉に腰まで浸し、降り注ぐ雨をその全身で受け止めていた。水は彼女のこころを優しく濡らす。まるで涙みたいだ、と桔梗は思った。癸の死を――真雪の死をも、世界は悲しんでいるのかもしれない。
「みずのと……」
 ――守れなかった。桔梗はきつく唇を噛み締めた。彼らの御子であるはずの自分が、何もできなかった。彼らはたった三人の水龍族。大切な仲間だった。家族だった。それなのに、何もできぬまま失われてしまった……。
「ごめんね」
 いくら謝っても届かない。癸は、もういない。兄と似た芯の強さ、兄とは違う穏やかさ――もう永遠に、戻らない。
 水面に広がる長い銀髪。桔梗は目を閉じた。肌と水の境界が曖昧になるような、そんな感覚。ゆらゆらと、彼女の意識は水に溶けていく……。
「桔梗!」
 その声に、体が震えた。目を開けて振り返る。
「しおん」
 そこに立っているのは、息を切らせた彼女の想いびと。雨の中を駆けて来たのか、髪も衣もぐっしょりと濡れている。桔梗は驚いて問い掛けた。
「朔くんとのお話は? それに、どうしてここが」
 紫苑はため息をついたようだった。
「話なら終わった。それからここがわかったのは――」
 紫苑はざぶりと泉の中へと歩みを進める。立ち尽くす桔梗に向かって、一歩一歩近付いた。
「お前が、呼んだからだ」
「…………」
 動けないでいるうちに、桔梗のからだは紫苑の腕に捕らわれる。彼の腕は、ひどく熱い。いや、彼女の体が冷えているのかもしれない。強く抱き締められ、零れた吐息は紫苑の唇の中に消えた。桔梗は目を閉じ、紫苑にしがみつく。熱い。
「…………っ」
 そのままどれほどの時間が経っただろう。紫苑はようやく桔梗を解放した。
「わたし……」
 桔梗は紫苑を見上げた。息が上がっている。
「紫苑を呼んでいた……?」
「ああ」
「気が付かなかった」
「私にはちゃんと聞こえたぞ」
 紫苑はもう一度、桔梗を抱き寄せた。桔梗はなされるがまま、彼の胸にしなだれかかる。
「お前を見つけたときは、驚いた」
 紫苑はくぐもった声でつぶやいた。
「水の中に消えてしまうのかと……怖かった」
「そんなこと」
 桔梗は首を横に振った。
「紫苑を置いて、私はどこへも行きません」
「…………」
「紫苑も、同じですよね」
 桔梗は紫苑の胸にすがった。
「私のこと、置いていきませんよね」
「ききょう、」
「癸みたいに……あんなことは、もう」
 桔梗の瞳に涙が盛り上がる。冷たい雨粒と混じり、その熱い雫が水面に零れ落ちていく。
「こんな想いは、したくありません」
「…………」
「だって私、癸を守れなかった!」
 桔梗は叫んだ。
「癸は私の家族だったのに……守れなかった!!」
「……それは、私も同じだ」
 紫苑は彼女の頭に自分の頬を寄せた。
「家族に先立たれるのは……こんなにもつらく、苦しいのだな」
「つらいです……苦しいです」
 桔梗は紫苑を見上げる。
「だから、お願いだから……。もう、こんなのは嫌なんです! もう誰ひとり、私は失いたくない」
「……わかっているよ」
 紫苑は穏やかに微笑んだ。
「私はきっと、そのために生まれてきたのだから――」
「紫苑……?」
 紫苑の言う意味が、桔梗にはわからない。視線で問い返すが、紫苑は別のことを言った。
「なあ。お前と出会って、もうどれくらい経っただろう」
「…………」
「めまぐるしいくらい、いろんなことがあったな」
 ふたりの桔梗、燐の帰還、母との邂逅、壬、父のこと、出雲のくに、昴や透流との出会い――桔梗との結婚。そして、この戦が始まった。
「ええ。本当に、いろんなことが……」
 うなずく桔梗を、紫苑は愛しげな眼差しで見つめる。
「どんなときも、お前は私の側にいてくれた」
「紫苑……」
「私はきっと――お前に出会うために生まれてきたのだろう」
 数え切れないほどの大切なものを、彼女から教わった。愛しさ。切なさ。喜び。寂しさ。悲しみ。家族。彼の全てはあの時――桔梗に呼ばれた時から、始まったのだ。
「それは、違います」
「桔梗?」
 きっぱりと否定の言葉を口にした桔梗に、紫苑は驚いたように瞬いた。
「紫苑は、私に出会うために生まれたんじゃない」
 手を伸ばし、彼の輪郭に触れる。額に、瞼に、耳に、頬に、うなじに、指先を滑らせる。最後にそっと、その薄い唇に触れた。
「紫苑は――」
 何故だろう、涙がにじんだ。悲しいのではない。ただ、何かとてつもなく大きなものが彼女の胸をいっぱいに満たして、それが溢れ出しているのだった。
 桔梗は微笑んだ。細めた目尻から一筋、涙が伝う。
 
「紫苑は、私と一緒に生きるために――生まれてきたんですよ」

 出会いは始まりに過ぎなかった。全てはそこから始まり、そしてこれからもずっと続いていく。過去、現在、未来、全てをともにするために。
「桔梗……」
「私も同じ。紫苑と一緒に生きていくために、生まれたんです」
 それは運命などではなく、ふたりの選択。互いの側で生きることを選んだそのときから、彼らの生は意味を持ち始めた――ともに生きるという、意味を。
「だから――これからも、ずっと……」
 続く言葉は唇の狭間に飲み込まれた。水が、彼らの体を溶かしていく。
 ――ずっと……ずっと。