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永訣の巻 第七章

  一
  
 その日は夜遅くまで、誰も眠ろうとはしなかった。都でのこと、邑でのこと、次から次へと話は尽きない。盛り上げるのはもっぱら昴や透流で、紫苑はただ柔らかく笑いながら聞いていた。壬も、ぽつりぽつりと語った。弟のことを忘れて欲しくない――楽しく過ごしていたときの、彼の笑顔を覚えていて欲しい。その気持ちを、皆が理解していた。朔はいつも通りの朗らかな様子で相槌を打っていたが、桔梗は少し俯き加減で、時折控えめに微笑むだけだった。紫苑はそんな彼女を気遣わしげに見守りながらも、何も言うことはなかった。
 不意に、沈黙が落ちた。話が尽きたわけではない。ただ、不意にそれぞれのこころへと現実が忍び寄ったのだ。紫苑が静かに口を開く。
「明日――『封印』を開く」
「…………」
 そうだ――目を背けるわけにはいかない。ここは都の御門邸ではない。ひとの軍とあやかしの軍が一触即発の状態で睨み合っている、戦場なのだ。彼らは戦を止めるため、ここにいる。
「どうしても……それしかないのね」
 昴がつぶやいた。
「領地の割譲では、間に合わないの……?」
「既に、道は選ばれた」
 紫苑はゆっくりと答える。
「ひとと、あやかし――両者は世界を分かつことを望んだ。私たちがその道を歪めることはできない」
「……寂しいですね」
 透流は今にも涙を零しそうな目をしていた。
「おれ、大好きでした。紫苑さんのことも、桔梗さんのことも、壬さんも――癸さんも」
 顔をくしゃりと歪める彼の頭を、壬がぽんぽんとたたく。
「ばか、泣くなよ。会えなくなっても互いが元気に生きていられりゃ、それでいいじゃねえか」
「壬さん……」
「離れ離れになったって、俺たちは家族だ。そうだろ? 紫苑」
 壬の問い掛けに、紫苑は微笑んだ。
「ああ。ずっと――家族だ」
「だから、泣くんじゃねえ」
 壬はその言葉を繰り返した。
「泣くんじゃねえよ」
 まるで、自分に言い聞かせているかのように。
「――さて」
 朔が大きく伸びをした。
「そろそろ寝るとしましょうか」
「え、でも……」
 名残惜しげに声をあげた昴に、朔は目配せをした。彼の視線が一瞬桔梗をとらえたことに気付いた昴は、小さく息を飲んで頷いた。――桔梗と紫苑をふたりにしたい。朔はそう思ったのだろう。確かに、今夜の桔梗の様子はおかしかった。明日を迎える前に、紫苑とゆっくり話し合って欲しい。
 昴は肩をすくめ、立ち上がった。
「何だかんだいっても、朔はやっぱりお子さまね。……透流、行くわよ」
「はあい」
 素直に従う透流を見送り、壬もまた腰を上げた。
「じゃあ、俺も行くわ」
「ああ」
 紫苑は頷き、目を細めて壬を見上げた。
「また、明日」
「おう」
 背中を向けたまま、軽く手を上げる。その背中を、紫苑は黙って見送った。
 
 
  二
 
 部屋からひとけが消えたあと、紫苑は大きくため息をついた。俯いていた桔梗が顔をあげる。その表情はやはり暗かった。
「桔梗。どうかしたのか?」
 紫苑の手に髪をなでられても、いつものように嬉しそうに擦り寄ることもない。ただ悲しげに眉をひそめ、唇を噛み締めている。紫苑は手を止めた。
「明日のことを……案じているのか」
「だって」
 桔梗はつぶやく。
「紫苑が、嘘をついているから」
「嘘?」
「ええ」
 桔梗はきっぱりと言い切った。
「わかるんです。私には」
「…………」
「紫苑は何か、嘘をついている。そうでしょう?」
「……嘘など」
 紫苑は視線を遠くに投げた。
「ついていない」
「紫苑!」
「本当だ」
 紫苑は桔梗を真正面から見据えた。桔梗の水晶色の瞳は、涙をいっぱいに溜めている。
「紫苑……」
 桔梗は小さく震えていた。
「本当に、本当のことを言って……。私、紫苑がいなくなるのは絶対に嫌」
「桔梗」
「紫苑のいない世界なんて、要らない」
 白い頬の上を、ひとつぶの球が転がり落ちて行く。
「ひともあやかしも、どうだっていい。紫苑がいてくれたら、それでいい」
「桔梗……」
 紫苑は彼女を抱き寄せた。強く強く胸に抱く。
「私は、必ずお前の元に戻るよ。約束する」
「…………」
「どんなことがあっても、お前の側に帰る」
「……絶対に?」
「ああ。絶対に、だ」
 紫苑は桔梗の顔をあげさせ、その濡れた頬をそっと拭った。
「家族は離れ離れになっても家族だと言ったが――お前は私の妻だろう? 一生を共に生きると誓った、妻だ」
「…………」
「約束だ」
 紫苑は彼女の手を取り、小指を結んだ。
「共に、生きていこう。ずっと、ずっと――」
 「封印」が何をもたらすとしても、決して負けはしない。紫苑は桔梗の頬に自分の顔を寄せた。何よりも愛しいこの存在から、引き離されてたまるものか。必ず、自分は生き延びる……!
「だからもう、泣くな」
 紫苑はつぶやいた。
「お前に泣かれると、どうして良いかわからなくなる……」
「簡単なことですよ」
 桔梗は彼の肩に顔をうずめ、くぐもった声で囁いた。
「ただ、紫苑が私の側にいてくれればいい……こうして、触れ合っていられればいい」
「…………」
「でも、あんまりしあわせだと、それはそれで泣けてくるんですけどね……」
 泣き笑いで微笑む桔梗を、紫苑は再び強く抱きしめた。
「桔梗」
「はい」
 少し気持ちが落ち着いたのか、いつも通りの声が返ってくる。紫苑は万感の想いを込めて、告げた。
「愛している」
 桔梗は紫苑の肩に腕を回し、きつくすがりつく。
「……私もです」
 ふたりの脳裏を、出会ってからの日々が走馬灯のように行き過ぎる。笑顔、涙、怒り――どんな時でもふたりでいた。ふたりでいたからこそ、ここまで来られた。
「紫苑が、大好き――」
 桔梗がつぶやく。言葉では言い表せないほどの想いを、どうしたら伝えられるのかわからない。今もこんなにもしあわせで――こんなにも怖い。夜が明けてしまうのが、怖い。
 誰にも引き離されないように、いっそ溶け合ってしまえたらいいのに。桔梗は紫苑の肌に触れながら、そう願った。

 どんなに願っても明けぬ夜はなく、翌朝の空はしらじらしいほどに青く澄み切っていた。桔梗の傍らで目覚めた紫苑は、腕の中に丸くなって眠る彼女をじっと見つめた。指の背でそうっと頬を撫でる。涙のあとを消したかったのだが、それはかなわなかった。長い銀糸の睫毛が震える。
「……桔梗」
 今日、世界はふたつに分かたれる。紫苑に不安がないわけではなかった。ひととあやかしの血を宿す自分の居場所は一体どこにあるというのだろう。それは今に始まったことではない。生れ落ちてこのかた、ずっとそうだったではないか。義父には愛されず、都に住まいながらも都びとからは受け入れられぬまま、宮中に参内しつつも公達からは白眼視され――あやかしに命を狙われたこともあった。結局彼の居場所など、どこにも……。
「ん、……ううん」
 紫苑に寄り添っていた体が、小さく寝返りを打った。朝日に照らされてまぶしそうに眉をひそめ、そうしながらも唇はかすかに開いている。そのあどけない寝顔に、紫苑は相好を崩した。
「私の居場所は、お前の側だったな……」
 忘れてはいけない。決して忘れることはできない。彼女のくれた温もり、安らぎ、しあわせ。かけがえのない家族と過ごした、大切な日々。彼の世界はひとの中にはなかった。あやかしの中にもなかった。それでもいい。あの、御門の屋敷と橘の屋敷で紡がれた楽しい時間――彼の世界は、確かにそこにあった。
「忘れはしないよ」
 彼の愛した家族は、別々の世界で生きていくことになる。それでも昨夜壬が言ったとおり、「元気で生きていさえすれば」それでいい。死で分かたれてしまうよりはずっといい。これ以上家族を失いたくはない――その願いが、この決断を生んだ。それでも、彼の世界は彼の家族と、妻と共にある。どんなに迷っても、彼は桔梗を目指して帰っていく。彼女のいる場所が、彼の生きる世界だから。そう、決めたから。どのような運命に邪魔されようとも、決して諦めはしない。
「桔梗」
 腕の力を強めながら、彼女の名を呼ぶ。桔梗は何度か身をよじったあと、ぱっと眼を開けた。澄んだ水色の瞳が紫苑を映し、潤む。
「紫苑……」
「おはよう」
「おはよう……ございます」
 桔梗は言うなり、彼の首筋にしがみついた。
「おい、どうした?」
「……明日も明後日も、紫苑が朝起こしてくれますように」
 軽い口調ではあったが、彼女の声は小さく震えていた。紫苑は小さく微笑みながら、彼女の髪を指で梳く。
「今度は、お前が起こしてくれ」
「紫苑?」
 桔梗が顔をあげる。その頬にそっと唇を寄せた。
「いいだろう?」
「え……ええ、いいですけど」
 頷く桔梗に、紫苑は微笑んだ。
「約束だな」
「は、はい」
 紫苑は彼女を離し、起き上がった。
「行くぞ」
「……はい」
 紫苑は振り返り、彼女を抱き起こす。桔梗はなされるがままに立ち上がり、少しはにかむように微笑んで紫苑を見返した。彼は目を細め、桔梗を見つめる。――決して忘れない。彼の帰る場所を、忘れない。

  三

 地面に方角を印し、四人はそれぞれの位置に立った。すなわち、紫苑は南に、桔梗は東に、昴は北に、朔は西に。白虎は猫の姿の変化を解き、朔に寄り添った。透流と壬は、少し離れた位置に立って見守っている。
「始めるか」
 紫苑がつぶやくと同時に、朱雀が降臨した。夢幻の炎に包まれた羽を閉じ、紫苑の肩に留まる。昴は名残惜しそうに紫苑を、桔梗を、朔を見回し、やがて北を向いて目を閉じた。
 
「扉よ。我らを迎え入れよ。我らは神の力を継ぐもの。四つのかけら。四つの血」

 かつて出雲で紡がれた言霊を、再び昴は口にする。彼女の黄金の髪がふわりと舞い上がった。
「なあ、透流」
 その様子を見ていた壬が、ぽつりと言った。昴を見つめていた透流が振り返る。壬は悲しげに笑っていた。
「あのじゃじゃうまと、仲良くやれよ」
「壬さん……」
「俺はお前らのこと、結構気に入ってたぜ。伝えてくれよ――燐にもさ。昔のこと、謝ってたって。そう言ってくれりゃ、わかるから」
「……わかりました」
 透流は袖でぐいと涙を拭き、右手を壬に差し出した。壬はそれを強く握る。
「お元気で」
「……ああ」
 壬が微笑んだとき、不意に少年の張りのある声が響いた。朔だ。
 
「神々の力よ、この身を寄り代に具現せよ!」

「朔?!」
 桔梗は叫ぶが、その場を動けない。体から青龍の力が引き出されていく。
「朔、どういうつもり――」
 昴もまた、同じなのだろう。首をかろうじて朔の方に向け、手を伸ばす。彼が何をするつもりなのか、彼女らは悟ったのだ。
 紫苑は――動かなかった。彼の覚悟を、願いを、紫苑は既に知っている。
「朔……」
 口の中で、つぶやく。
「すまない」
 朔の小さな体が光を放ち、徐々にその輪郭をおぼろなものにしていく。壬や透流の声が遠く、小さく響いた。五感全てが、閉ざされていく――。
 朔は目を閉じ、脳裏にひとりの男の姿を思い浮かべた。――僕は、君たちを、待っているから!! 最後に見た父は、泣いていた……。
「必ず、帰るから」
 視界が白く塗り潰されていく。世界から自分が消えようとしていることを、朔は感じた。
「紫苑さん……後は、頼みましたよ」
 その言葉を最後に、彼の魂はこの世での拠りどころを失った。