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永訣の巻 第一章

  一

 遠く、雷が轟いた。早春の乾いた空気を裂くその音に、正年ははっと顔を上げる。そびえ立つ土壁に両断された空は暗く、逆巻く風が頬を打った。
「いかが致しますか」
 周りのものは征夷大将軍である彼の言葉を待っている。正年は彼らの問いには答えず、ただ黙然と空を見上げていた。
 あの白い女にさらわれた藤原蓮を奪回すべく向かったあやかしの居城、その目前で得体の知れぬ土壁に行く手を阻まれ、はや半刻。あやかしからの攻撃を受けるかと警戒したものの、何事も起こらない。これを回り込んででも攻め込むべきか、べかざるか……正年は未だ決めかねていた。
 己の決断が、皆の命運を握っている。その重さを、今更ながらに感じていた。脳裏によぎるのはあの女によって流された血。あの紅が、時が経つほど鮮烈に蘇ってくる。あれほどまでにあっけなく、ひとの命は散ってしまうものなのだと、彼はあの時まで知らなかった……。
 正年は目を閉じた。──今ならわかる。何故、陰陽博士があれほどまでに戦を忌避したのか。彼は何を恐れていたのか。自分は何を恐れるべきだったのか。
「――正年さま!」
 その声に目を開けると、駈けてくるひとりの兵士が見えた。息を荒げ、声を張る。
「陰陽博士、御門紫苑どのが正年さまにお目通りしたいとのことです!」
「何?!」
 正年は思わず立ち上がる。何故、都で蟄居しているはずの御門紫苑がここに……? だが今の彼の胸中を占めるのは、不信よりもむしろ安堵であった。

  二

 ──にいさん。
 いくら待っても、その唇は何も語らない。笑っても、怒ってもくれない。冷え切ったその体は、微動だにしない。何故こんなことになったのだろう。誰が、どこで間違えたのだろう。どうして、弟だったのだろう。──自分は一体、誰を憎めばいいのだろう。
 背後の草むらが、がさりと音を立てた。壬は振り向かない。それが誰であっても良かった。どうでもいいことだ。近付いた気配はたっぷりの逡巡を挟み、やがて口を開いた。
「あの……、壬さん……」
 それが藤原蓮の声だと気付いても、彼は振り向かなかった。興味はなかった。返事をしないままでいると、やがて蓮はひとりでに話し始めた。彼の声は、ひどく苦しげだった。
「謝っても赦されることではないとわかっています。……でも、本当に……僕は、申し訳なくてっ……!」
 ──彼は何を言っているのだろう。壬は蓮に背を向けたまま訝しんだ。何故、彼が謝るのか。彼の疑問を読み取ったわけでもないだろうが、蓮は続けて言った。
「癸さんは、僕をかばって……僕が、あの女を切ったから、それで」
 では、癸の代わりに蓮が切られていればどうなったか。癸が愛した加乃は悲嘆にくれ、癸自身も心を傷めただろう。蓮が真雪を切らなければ──蓮か、もしくは紫苑の生命が、危険に晒されただろう。紫苑がいなくなれば、この戦を止められる可能性のある者が消える。桔梗は悲しみに暮れ、自分の受けた衝撃も大きかっただろう。──結局、何がどうあっても行き着く先は悲劇でしかなかったのだ。だとすれば、間違いはもっと別のところにあるはず。それがどこにあるのか、壬は考える。世界は、どこで間違えたのか……。
「壬さん……?」
 返事をしない彼に不安を募らせたのか、蓮が彼を呼んだ。壬はゆっくりと振り返る。
「……お前のせいじゃねえよ」
 蓮の顔が悲痛に歪む。いっそ罵倒されたかったのかもしれない。その方がきっと彼にとっては楽だっただろう。だからこそ──壬は蓮を赦した。
「癸は自分の意志でお前を護った。あいつはそれだけの価値を、お前に見出した」
「…………」
 涙を零す少年に、壬は淡々と言葉を投げかけ続ける。
「だから……お前はあいつの命を背負って生きろ。でないと俺は」
 ──俺は……。壬は口を噤んだ。俺は、こいつを、殺すか?
「壬……さん……」
「もう行け」
 くるりと背を向け、壬はつぶやいた。蓮はしばらく迷っていたようだが、やがて小さく言った。
「では僕は……僕と加乃は、貴方を兄と慕いましょう。望まないなら兄とは呼びません。それでも僕らは」
 壬は動かない。
「貴方をひとりにはしません……」
「…………」
 壬が黙っているうちに、蓮は遠ざかっていった。
「……ばかやろう」
 ──にいさん。
 癸の死に顔は、わずかに微笑んでいる。それが何より、悲しかった。
 ――お願いだから……憎まないで……。
「言われずとも」
 誰のことも憎めない自分。それが少しだけ、苦しかった。

  三

 橘邸の庭掃除を終え、自室に足を踏み入れた日向は我が目を疑った。
「な、な、な……!!」
 加乃の部屋と間違えたかと廊下に飛び出してみるが、もちろんそんなことはない。もう一度簾から頭をつっこんでみる。やはり自室とは思えなかった。あとずさった日向の背中が、何やら弾力のあるものにぶつかって止まる。
「気に入った?」
「先生っ……」
「燐だと言っているだろう?」
 静かに微笑むその男は、彼女の背中をやんわりと受け止めた。日向はその穏やかな笑顔に食ってかかる。
「これ、何の冗談ですか?!」
「冗談ではないよ」
「おれの部屋を、勝手に……」
 日向は口をぱくぱくと開閉させる。燐は苦笑を浮かべた。
「そんなに気に入らない? 市井で見かけた、一番可愛らしい着物だと思ったのだけど」
 ――そう。日向の部屋に広げてあったのは、女物の着物一揃いであったのだ。それだけではない。日向が燐に借りていた男物の服は全て持ち去られていた。
「本当は君を連れて君の好きなものを買いたかったのだけど、君には出歩くための着物すらないからね。とりあえず僕の趣味で買ってきた」
「でも、おれ……女物は、ちょっと」
「似合うと思うんだけどね」
 燐は彼女の髪を一房手に取り、つぶやいた。
「どうしても、だめ?」
「だめ……っていうか、その」
 日向はうろたえる。先生は――いや、燐は彼女が好きだと言った。だが彼女はそれに対して何の答えも出していない。無論彼女が彼を疎ましく思ってなどいるはずはないし、多分好きなのだと思う。しかし、彼女は女を捨てる決意をしている。亡き母の言う通りに男として生きると決め、だからこそ橘燐の弟子となった。それを今更女に戻れと言われても困ってしまう。女物の着物に興味がないわけではない。萌黄色のそれは、本当に可愛らしい。けれど、袖を通すのが自分だと思うとどうにも面映い。
 燐は彼女の百面相を面白そうに眺めていた。やがて、ゆっくりと口を開く。
「僕は決めたんだ。君を女の子に戻すって」
「え……?」
 日向はぽかんと口を開けた。
「霧雨がどんなつもりで君に男として生きろと言ったかは知らない。でも、君は女の子だ。君が日向という人間である限り、女性であることからは逃れられないよ」
「でも、おれは学問を……」
「本当にそのつもりがあるのなら、僕は君が女であろうが何だろうが、ちゃんと教える」
 燐はきっぱりと言い切った。
「だからそのことは心配しなくていい」
「…………」
 うつむく日向の頬を、燐はそうっと撫でた。
「男のなりをしていたいのなら、しばらくはそのままでもいい。でもね、日向。覚えていて」
 彼女はおそるおそる目を上げる。燐は、日向が恥ずかしくなるほどに柔らかな眼差しで、じっと彼女を見つめていた。
「君がどんなかたちをしていても、君は僕が好きになった女の子なんだからね」
「……せん、せい」
「燐、だ」
「……り、ん」
 顔に血が上る。彼に触られている頬が、特にひどく熱かった。燐は彼女の返答を聞いて満足したようにうなずき、手を離した。
「期限は皆が帰ってくるまで。それまでに、君を女の子にしてみせるから」
「…………」
「加乃ちゃんも喜んで協力するってさ」
「――――!!」
 声にならない悲鳴を上げた日向に背を向け、燐はくすくす笑いながら歩き出した。――素直で可愛い、日向。今は遠く離れた友たちを、いつかきっとふたりで出迎えてみせる。
 燐はふと笑みを消した。淡いさくらいろを、思い出す。
「……朔」
 彼の息子。彼は日向に懐いていた。いつか燐が彼女を想うようになると、どこかで悟っていたかのように。
「君は日向を受け入れてくれるよね……?」
 三人で暮らそう。加乃たち夫婦も近くに住まわせて、三人でしあわせに暮らしていこう。時々紫苑夫婦を招いて宴を開くのもいい。水龍の双子も、忘れてはならない。そうだ、昴や透流も……。
 ――それは、とてもしあわせな夢。
「早く、帰って来ればいいのに」
 遠く、東の方角を見遣る。するとそこにはひどく暗い色の雲が立ちこめていて、燐は思わずぶるりと身震いをした。