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散華の巻 第四章

  一

 深夜、都に雨が降った。徐々に激しくなるその音に、眠りを妨げられた者も少なくはない。橘燐もまた、そのうちのひとりであった。
「ああ、また寝てしまったのか……」
 机の上には随分と短くなってしまった燭がゆらめている。照らし出されたのは、見知った自室とは違っていた。横を見ると、日向が床の上に丸くなって眠っている。その猫のようなしぐさに、燐の唇に笑みが浮かんだ。
 ――ひとりで夜を過ごすことが怖くなったのは、きっと朔が都を去ってからだ。悪い夢を見て飛び起き、ひとり冷や汗を流す。朝目覚めると、枕が涙で濡れている。そんな夜を幾つも越え、彼はようやく安息の場所を見つけた。それが、弟子である日向の側だった。いろいろと理由をつけ、彼は夜を日向の部屋で過ごすようになった。彼女と詩文を読んでいる間はすべてを忘れていられるような、そんな気がした。
 燐は手を伸ばし、眠り込んでいる日向の頬を指の背ですっと撫でた。すべすべとしたやわらかな感触。長い睫毛が時に細かく震える。ほんのりと赤い唇が、音も立てずに寝息を吐き出していた。日頃は男言葉を使い、着物も男ものを着込んでいる彼女だが、こうしているとごく普通の少女だ。
「僕は、ずるいのかな」
 燐は小さくつぶやいた。彼女が男でありたいと願う気持ちを、自分は利用しているのではないか……こうやって男女ふたりが共に夜を過ごすなど、ふつうのことではない。男同士のようなものだからと、師と弟子だからと、燐は心の中で言い訳を続けていた。いつかそれが破綻してしまうことなどわかっているというのに――。
「それでも、僕は君に側にいて欲しいんだ……」
 日向はさくらとは違う。儚げでおとなびたさくら。全てを達観したような、それでいて優しい眼差しは、燐を寛容に包みこんでいてくれた。日向はむしろ正反対だった。好奇心旺盛で、燐をはらはらさせることも少なくない。それでも、彼女は燐と、彼の周りの全てのものを愛してくれる。それはどこか憧憬にも似た、純粋な感情だった。日向には男と女の間の情念など、必要ないのかもしれない。
 雷鳴が轟いた。同時にふっと燭の火が消える。
「ひっ」
 暗黒の中、日向の声がした。燐は小さく声を掛ける。
「日向ちゃん……?」
「先生? そこにいるんですか?」
 もぞもぞと起き出す気配を感じ、燐もまた手探りで彼女を探し始めた。
「今、雷が鳴っている……君、嫌いだったね」
「え、ええ、嫌いで――」
 一瞬の閃光。そして再び、雷鳴。日向は悲鳴を上げた。燐はそれを頼りに彼女に近寄る。
「大丈夫? 多分すぐおさまるから……」
「う、うう」
 日向は小さく呻きながら、燐の手をぎゅっとつかんだ。燐ははっと息を飲む。雨音が――強い。
「先生がいてくれて、良かった……」
 小さく震える声も、ほとんど燐の耳には入らない。ただ自分の鼓動の音だけがうるさかった。――自分は一体、どうしてしまったというんだろう……?
 そして、閃光。
「やっ……」
 燐はとっさに、彼女の耳を塞いだ――己の腕で彼女の頭を強く抱いて。
「先生!」
 日向は慌ててもがこうとするが、閃光が部屋を照らし出すと同時に力が抜ける。燐は彼女を抱きしめたまま、小さくつぶやいた。
「先生――じゃない。僕の名前は、燐だよ」
「え?」
 怯えるのも忘れ、日向が顔をあげた。暗闇の中でもうっすらと互いの輪郭がわかるほど、距離が近い。
「燐、と呼んで欲しい」
「……な、なんで」
「君の先生でいるのは、もう無理なんだ」
「え……?」
 日向の瞳が傷ついたように揺れる。燐はゆっくりと言い足した。雨の音にも、雷鳴にも掻き消されないように、強く。
「僕は、君のことが、好きなんだ」
 ――もう、さくらへの罪悪感はない。彼女は自分に「生きて」と望んだ。誰も、ひとりでは生きていけない……彼女もそのことは良く知っている。だからこそ、彼女は山を降りたのだろうから。
「僕は、日向が好きだ」
「…………」
 日向は大きく目を見開き、燐を見上げた。徐々に遠くなる雷鳴も、今の彼女には聞こえないらしい。燐はもう一度、繰り返した。
「君が、好きだよ」

  二

「で? 何を隠しているのかしら?」
 昴の言葉に、紫苑は目を瞬いた。
「隠す?」
「しらばっくれても無駄よ。貴方は嘘が下手なんだから」
「…………」
 救いを求めるように透流を見るが、彼もまた昴と同じような疑惑の視線を向けていた。桔梗を見遣ると、諦めたようにため息をついている。紫苑は再び昴に向き直った。
「隠すも何も、今言った通りだ。夜雲たちに最後通牒をつきつける。これ以上戦を拡大するようなら『封印』を解いてあやかしを滅ぼす、と」
「それは聞いたわ。それを言うために朝っぱらから叩き起こしたんでしょ」
 昴は紫苑を遮った。
「でも、他に何か言ってないことがあるわね?」
「だから、何のことだ?」
「知らばっくれるつもり?」
 昴はずい、と紫苑に顔を近付けた。その瞳に、青い炎がちらついている。
「隠し事をしているという根拠は何なんだ?」
 目を逸らして尋ねる紫苑に、昴ははっきりと答えた。
「勘よ」
「勘……」
「でも、やっぱり不自然ですよ」
 黙って話を聞いていた朔が突然口を開いた。
「その考え自体は理解できますし、僕もそれしかないとは思います。でも、紫苑さんは何だか焦っているようにみえるんです」
「焦っている……?」
 ――紫苑は、例のあやかしがひとにした提案のことを言っていない。命が狙われているということを自分の口でいうのが嫌だったということもある。もうひとつの理由は、昴や朔らを自分の命を守るための道具として利用するように思われるのではないかと怖かったからだ。昨夜話した時、桔梗は夜雲らに怒りながらも、昴や朔がそんな風に思うはずがないと言った。自分もそう信じたい。とはいえ、あえて言う必要もないと紫苑は判断したのだが……。
「ひとの軍はかなり近付いている。急がなければ先に両者が接触してしまうぞ」
「へえ?」
 至極まっとうな紫苑の言葉に、昴は剣呑な笑みを浮かべた。
「ひとの軍は近付いている……ねえ?」
「それがどうかしたか?」
「どうしてひとの動向をそんなに詳しく知っているのかしら? 昨日まではそんなこと一言も言っていなかったわよね?」
 紫苑は思わず口ごもった。
「…………」
「さてはこっそりひとの軍を探ったんでしょ。そこで何かを知った……」
「…………」
 紫苑は昴に追求され、言葉に窮した。元々彼は口下手である。この状況を切り抜ける上手い方策など、浮かぶはずもなかった。そんな彼の表情を見ていた昴は、大きなため息をつく。
「いい加減、覚悟決めなさいよ」
「覚悟……?」
 昴が何を言いたいのかわからず、紫苑はきょとんとした。彼女はますます深く息をつく。
「私も透流も朔も、もちろん桔梗も! 壬も癸も、都に残ってる燐も加乃もみんな! 貴方を信頼しているのよ。貴方に自分の運命を任せたのよ。それを、選んだの」
「…………」
「だったらそれなりの覚悟をして、しっかり巻き込んで。大事な時は頼って欲しいし、相談もして欲しい。でなきゃ、本当にただの足手まといになっちゃうでしょ?」
「昴……」
「どうせ紫苑のことだから、変に気を回してぶちぶち悩んでいるんでしょうけど、そういうのはもうやめ。正直にぶちまけてくれないと、こちらとしても協力できないわよ」
「そうですよ、紫苑さん」
 朔がにっこりと微笑んだ。
「貴方がみんなのことを大切に思って下さるのと同じくらい、僕らも貴方を大切に想っているんです。まあ、桔梗さんの愛には負けると思いますけど……」
「あ、あい?」
「紫苑」
 桔梗の声に、紫苑は振り向いた。彼女は嬉しそうに笑っている。
「良かったですね」
「……しかし」
 紫苑はちらりと昴を見遣った。
「怒らないか?」
「怒らないわよ」
「暴れることもない?」
「ひとを何だと思ってるの?!」
 余計に怒らせそうだと判断した紫苑は、蓮に聞いた話をぽつりぽつりと語り始めた。
「つまり、あやかしはひとに私の首を要求して――」
「な、なあんですってええええええええええ?!」
 昴の体から玄武の力が引きずり出され、感情の制御を失ったそれは暴発する。
「だから怒るなって……!!」
 紫苑の言葉を掻き消すように、彼らのいた小屋が爆発した。
 
 
「ああ……せっかく建てたのに……雨風にも耐えていたのに……」
 透流が泣きながら小屋を再建している。
「泣かないで下さい、透流さん……」
 朔は透流を手伝いながら、紫苑に話し掛けた。
「ところで紫苑さん、どうして昴さんが爆発するってわかったんです?」
 紫苑もまた作業に勤しんでいたが、朔の問いに少し手を止めた。
「昨夜桔梗にその話をしたら、やっぱり爆発したんでな」
「はあ……」
「ここをちょっと入ったところの森がひとつ、消しとんだ」
「…………」
 朔らは無言で片付けを再開した。

 爆発した小屋の隣では、昴は力を使い果たしぐったりとしていた。桔梗はその額に固く絞った布を押し当て冷やしている。
「私達って、案外似たもの同士なのかもしれませんね」
「そうかもね……」
 ぽつりとつぶやく桔梗に、昴は力なくうなずいた。