散華の巻 第六章
一
複数の無遠慮な視線が、紫苑らを追う。特に桔梗以外の、ひとの血を引くものたちに対しては、露骨な敵意や侮蔑を示すあやかしもいた。だが、そのものたちも桔梗の氷のような視線に射られると、慌てたように目を伏せるのだった。紫苑はというと、まるで意にも介さないかのように真っ直ぐに前を見据えている。
城に入った後も、壁伝いにずらりとあやかしが並んでいた。紫苑は口元にかすかな苦笑を浮かべる。──これは、自分たちを威圧するためだろうか。だとするならば、なめられたものだ。隣の桔梗はもちろん、彼の後を歩む昴も朔も、透流でさえも動揺の気配は見せていない。互いを信頼しているからだ。守り、守られること。それを、自然と受け入れている。
──やがて、広間に出た。先導していたあやかしが前方に向かって頭を下げながら、紫苑らを遺して去っていく。
「これは紫苑どの。お久しぶりですな」
そこにはしらじらしいまでの笑みを浮かべる夜雲がいた。周囲には相変わらず壁に沿ってあやかしたちが並んでいる。紫苑は静かに彼を見返した。
「お父上のこと……、残念でした」
「…………!」
一瞬、壁際がざわめいた。夜雲はわずかに色をなしたが、すぐにそれは抑えこまれ、元の表情に戻っていく。穏やかに見えて、視線だけは熱くたぎっていた。
「本日はずいぶんと大勢で、しかもわざわざ坂東までご足労いただいたとは……並々ならぬ要件とお見受け致しますが」
「単刀直入に申しましょう」
敵意を秘めた慇懃さでもって接しようとする相手に、紫苑は淡々と言葉を投げかけた。
「これ以上の領土拡大を断念していただきたい」
「…………」
夜雲の唇の端がつりあがる。桔梗はめざとくそれを見つけ、薄く眼を眇めていた。
「お断りしたら、どうなさるおつもりで?」
「ここにいる我々が、四聖獣の守護を受けたものたちだということはご存知ですね」
「ええ、一応のところは」
「その力をもって、この軍を打ち滅ぼさせていただく」
その言葉に色めきたつあやかしたちを、夜雲は片手を斜めに上げることで抑えた。彼の表情にも態度にも、相変わらず余裕がある。桔梗が紫苑の袖を軽く引き、彼もまた頷き返した。――何かがおかしい。胸騒ぎがする。
「打ち滅ぼす?」
夜雲は軽く首を傾げた。
「紫苑どのは中立のお立場かと思っておりましたが」
「ええ、それは変わりません。もしひとの側が戦を望むのなら、我らは同じ条件を彼らに向かってつきつけることになるでしょう」
夜雲は紫苑の言葉を聞いても、表情を少しも動かさない。
「我らを恫喝するおつもりですか?」
「そう受け取られても仕方がありませんな。ただ、」
紫苑は一度間を取り、まっすぐに夜雲の瞳を見つめた。
「これ以上の血を、流したくはないのです。あやかしの血も、ひとの血も」
「しかし、過去には――」
何かを言いかけた夜雲を、不意に桔梗が遮った。
「真雪どのはどこにいらっしゃるのです」
「桔梗?」
紫苑が不思議そうに彼女を呼ぶのにも構わず、桔梗は険しい顔で夜雲を睨みつけている。
「真雪なら、野暮用で城には居りませんが」
「――あら、今帰りましたわよ」
その声に、ざわついていた広間が静まり返った。廊下を塞ぐようにして立っていたあやかしたちがさっと左右に別れ、その間から白い影が進み出てくる。
「ごきげんよう。御門紫苑どのとそのお仲間さんたち」
婉然と微笑むのは、確かに真雪だ。だが振り向いた紫苑たちの眼を釘付けにしたのは、彼女の背後に佇んでいる人物の方であった。
「……なんで、」
透流が小さくつぶやく。桔梗は首を夜雲の方に向けた。その表情は先ほどよりも厳しさを増している。
――しまった……。紫苑はぎりと奥歯を噛み締めた。彼の姿を視界に捉えたのか、その人物の表情が安堵と警戒の入り混じった複雑な色になる。真雪はそれを目ざとく見つけ、ややわざとらしいほどに驚きの声をあげた。
「あら、お知り合いでいらしたのですか? さすが、御門さまは都暮らしが長くていらっしゃいましたものね」
「これは、どういうことですか」
紫苑は自分の声がひび割れているのを自覚した。
「一体何故、彼ひとりをこんなところに連れてきたのです」
「何故……か」
夜雲は面白くてたまらないというように、くつくつと笑いを零した。それは先ほどまでの表面上を取り繕うための笑みではない。心の底から湧き上がる、しかしどこか闇の匂いのする、そんな表情だった。
「それは彼自身、よくわかっていることでしょう」
夜雲は腰に差していた長刀をばっと中空に放り投げた。それは素早く回転しながら放物線を描き、真雪の手の中にその柄をおさめる。
「そのとおりですわね? ――藤原蓮どの」
真雪は夜雲から受け取った長刀を、蓮の手にぐいと押し付けた。
「貴方はその手で……」
赤い唇が、囁く。
「御門紫苑のくびを、とるのですわよね?」
二
「紫苑どの」
夜雲の声が朗々と響いた。
「貴方の持ってきた和平案など、必要ないのですよ。我々は既にひとの側と交渉に入っているのですから」
「…………」
「さあ、御門さま」
真雪もまた、勝ち誇ったように紫苑を呼ぶ。
「こちらにいらして下さいな」
その薄緑の瞳は、彼が動かないようならば蓮を害すると、無言のうちに語っていた。紫苑は一歩、進み出る。
「紫苑……!」
桔梗は焦ったように紫苑を呼ぶが、彼は静かに首を横に振った。他のものも、誰も動けない。紫苑と蓮のどちらかを選ぶことなど、できるはずがない。どちらも命だ。紫苑が守りたいと願った、彼らが守ることを誓った、命なのだ。
また一歩、紫苑は進み出る。蓮は青い顔をして刀を握り締めていた。真雪の手が、鞘を払う。広間の燭の火を反射して、刀身が鈍く銀色に輝いていた。
「紫苑っ」
「来るな!」
思わず駆け寄ろうとした桔梗を、紫苑は鋭い声で一喝した。彼女は思わず立ちすくむ。
「……桔梗さん」
朔が小さな声で囁いた。
「考えるんです。ふたりを助ける方法を」
「考えるって言っても……」
桔梗は拳をぎゅっと握りしめる。その掌は、冷たい汗でひどく濡れていた。
「このままじゃ、紫苑が」
「紫苑さんがただ死にに行くような真似をするはずがありません。信じて」
「でも!」
「……あれ」
透流がつぶやいた。
「蓮さん……」
昴ははっと息を飲む。確かに、蓮の様子は先ほどとは違っていた。顔は青ざめたままだが、何かを決意したかのように唇を強く噛み締めている。そしてその視線は――。
紫苑がさらに一歩進んだ。蓮との間の距離はあとわずか。
「さあ、蓮どの――」
真雪が促すように口を開いた時、夜雲が声をあげた。
「真雪!!」
「え?」
「この……っ!!」
真雪が蓮を見るのと、彼が刀を振り上げたのとはほぼ同時だった。
「蓮どの!!」
紫苑は思わず叫んでいた。蓮を止めたかったのかどうなのか、自分でも良くわからない。何故か、名前が口をついて出ていた。
「真雪!!」
夜雲の大声が広間を揺るがす。
「あ……」
紫苑の頬に、熱い血飛沫が飛び散った。肩から腰にかけてざっくりと袈裟切りにされ、彼女は茫然とした顔のまま床に崩れ落ちる。――白い女が、赤に塗れていく。
「蓮どの!」
紫苑は慌てて蓮を引き戻そうとするが、真雪の手首が蓮の足を掴んで放さない。赤と白がまだらになったそれは、恐ろしい力で蓮を捕まえていた。
「僕は構いません、皆さんは早く行って下さい!」
青い顔で叫んでいた蓮が、不意に前につんのめってたたらを踏む。足を見ると、真雪の手首が離れていた。
「何やってんだ!」
聞き慣れた怒声が降って来る。
「蓮くんも、さっさと逃げるよ!」
――壬、癸。その名を呼ぶ暇も惜しむように、紫苑は壁に掌を向けた。一言二言呪を唱え、外に繋がる大穴を開ける。
「こっちだ!」
壬が透流と昴を抱え、癸が蓮を伴っているのを確認して、紫苑は桔梗と共に駆け出す。白虎の咆哮を背後に聞きながら外に飛び出した、――その時。
「癸さん……!!」
蓮の悲鳴が、辺りに響いた。