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散華の巻 第五章

  一

 真雪が蓮に告げたという期限まで、あと一日。紫苑はひとつの決断をした。
「あやかしの陣に乗り込む」
 その場にいた誰もが一瞬、息を呑んだ。小屋の中央に掘った穴の中で炭が火をくすぶらせる、その鈍い音だけが響く。
「そして、夜雲に直接条件をつきつけるつもりだ。――停戦要求に応じないのなら、『封印』の力をもってあやかしの軍を打ち滅ぼす、と」
 一気に言葉を紡いだ紫苑は、朔の肩に乗る白い猫に目を向けた。
「白虎。お前に聞きたいことがある。『封印』の力は出雲に向かわなくても呼び出すことができるのだな?」
 ――そのとおり。
 声ならぬ声が辺りを浸した。
 ――実際、出雲の「封印」はあくまで戦場跡としての意味しかない。つまり、怨霊を封じ込めていただけのものだ。「封印」の真の力はそんなところにはない。
「どういうこと?」
 昴が声をあげた。
「私たちの邑は『封印』を守るためにあったのではなかったの?」
 ――それは半分正しくて、半分間違っている。確かに邑は「封印」を守っていた。形としての「封印」と、そしてその鍵となる運命の巫女を育み守るため……。
 白虎は落ち着いて彼女に応えた。
 ――「封印」の名の真に示すものとは、四つの血。四つの存在。我ら四聖獣と契りし、四つのかたち。あやかし。ひと。どちらでもあってどちらでもないもの。生と死の狭間のもの。
「あのとき『封印』が解けたのは、私たちが揃ったからですよね?」
 桔梗がつぶやいた。
「もしあのまま『封印』を解いたままにしておいたらどうなっていたのでしょうか……」
「神々の力とやらが現出したのかもしれんな」
 紫苑は言い、やがてかぶりを振った。
「『封印』によって本当に何が起こるかは、実のところたいした問題ではない。ただ、戦いの抑止力になってくれればそれでいい」
「それもそうね」
 昴は軽い調子で同意した。
「それじゃあちょっと、行きますか」
「あ、おれもいきますよ!」
「おい」
 紫苑は焦ったように口を開いた。
「皆で行ってどうする。特に透流はお前……」
「皆で行きましょう」
 桔梗がきっぱりと言った。紫苑は驚いて彼女を見る。
「しかし――」
「まず私たち四人は絶対に行った方がいいと思います。『封印』の鍵が揃うこと、それそのものが相手に圧力を与えることになりますから。それから……」
 いったん言葉を切った桔梗は、ちらりと透流に目を遣った。彼は固い決意を瞳に宿し、じっと彼女を見返す。
「透流さんは昴さんを送り出して待っていることなんて、きっとできないと思います。だったら一緒に行った方がいい」
「危険過ぎる。昴もそう思うだろう?」
 紫苑は昴に向き直った。彼女は紫苑を見ていない。ただ、透流の横顔を見つめていた。
「そうね……確かに危険だわ」
「昴さん!」
「でも」
 何か言いかける彼を制し、昴は続きを口にした。
「私は、透流に一緒に来て欲しいと思うの」
「昴……」
「だって、その方が私は強くなれるから」
 昴の青い瞳が澄んで強く輝いていた。
「足手まといになるような真似はさせないわ。私が責任を持つ。だから」
「足手まといになんて、なるわけないじゃないですか」
 桔梗はにっこり微笑んだ。
「透流さんがいたから、野宿生活もやって来れたんですよ? 昴さんが壊した小屋も――」
「それはもう言わないのっ!」
 赤くなる昴を感極まった様子の透流が抱き締め、彼女はさらに真っ赤になってもがき始めた。そんなふたりを笑いながら見ている桔梗――紫苑はその柔らかな表情を見つめ、ふ、と息をついた。
 この微笑みを、守りたい。

  二

 御門紫苑が動いた――その知らせを受けた夜雲は、傍らの真雪を見て薄く笑みを浮かべた。
「決まったな」
「ええ」
 真雪もまた静かに微笑みを浮かべる。紫苑らがどう足掻こうが、未来は変わらない。ひとに、未来はない。
「では、行ってきますわ」
 真雪は夜雲に手を伸ばす。少しでいい、指先を絡ませて欲しかった。だが彼はそれに気付かないように、ただじっと中空を睨んでいる。
「…………」
 寂しげに笑い、彼女は手を下ろした。――今は仕方がない。夜雲の頭の中は戦いのことで頭がいっぱいなのだろう。全てが終わったら、きっとふたりでしあわせに暮らせる。その日は決して遠くはない。
「どうかしたか?」
 夜雲がちらりと真雪に視線を投げた。彼女は黙って首を横に振る。
「……何も」
 真雪は彼にそっと近寄り、その額に唇を寄せた。夜雲はゆるく彼女を抱き寄せる。その腕の温もりに彼女はほっと息をついた。その拍子に、思わず軽口が飛び出す。
「上手くいったら、私にご褒美を下さいね?」
「ああ。何でもやるさ」
 黄金でも、宝石でも、土地でも――列挙していく夜雲をとどめ、真雪は言った。
「そんなもの要りません。私が欲しいのは……」
「真雪」
 夜雲は彼女の言葉を遮った。真雪を腕に抱きながらも、その深緑の瞳は彼女を映していない。先ほどまで緩んでいたはずの口元は、厳しく一文字に引き結ばれていた。
戯言(ざれごと)は後だ」
「…………」
 真雪は口をつぐみ、目を伏せた。
「わかったわ」
 背を向けて部屋を出る真雪。その背中に、夜雲の視線が注がれることはなかった。

  三

 ひとの軍が近付いている。その知らせは壬や癸の元にも届いていたが、彼ら自身は表立って動いてはいない。ただその中に藤原蓮がいるということ、それが彼らの――特に癸の、懸案事項であった。それを知って以来そわそわと落ち着かない様子の癸に、壬は躊躇いがちに声を掛けた。
「なあ、癸」
「何?」
 意味もなく陣の中を歩き回っていた癸が、くるりと振り返る。壬はその視線に目を合わせないようにして、口を開いた。
「お前ってさ、正直なところ……加乃をどう思ってたんだ?」
「どうって?」
「好きだったんだろう?」
「…………」
 言葉に詰まる気配を感じながらも、壬は弟の答えを待たずに先を続けた。
「そりゃまあ、家族同然に受け入れてもらっていたんだし、好きになるのは当たり前だよな。でも……」
「兄さん」
 癸は強引に壬を遮った。
「今更、そういうことは言いっこなしだ。加乃ちゃんは蓮くんと結婚してしあわせにやってる。僕自身もそれを望んだ」
 壬は目を上げる。癸は晴れ晴れとした表情をしていた。そこに、未練の色はない。
「僕には、紫苑さんや燐さんみたいな覚悟ができなかった。種族の違いを乗り越えようという、そこまでの力がなかった」
 自分の選択が紫苑らのものに比べて劣っていたとは思わない。逆に優れているとも思えない。もしあのまま自分が都にいて、加乃の新婚生活を間近でつぶさに知る状態であったなら、やはり少しは胸が痛んだかもしれない。いや、もしかしたら完全に割り切って「兄」に徹していたかもしれない。
「それに、蓮くんは加乃ちゃんの夫にはなれるけど、兄にはなれないんだ。彼女の兄になれるのは、僕だけ。僕の兄さんがここにしかいないのと同じにね」
「癸……」
「それってすごいことじゃない? だから、僕はそれで満足なんだよ」
 その言葉に嘘はない。壬はそう思った。無理をしているにしては、彼の声はあまりにも明るい。
「加乃ちゃんは、ひとりきりだった頃の僕に家族をくれた。だから、僕も彼女の家族でありたかったんだよ」
「……今だって家族だろ?」
 壬が尋ねると、癸は苦笑した。
「細かいなあ、兄さん。……もちろん、僕は家族のつもりだよ。でも、加乃ちゃんの家族はもう僕だけじゃない。燐さんも家族だし、朔くんも家族さ」
「それでも、あの子の兄はお前だけなんじゃないのか?」
「……それは、そのつもりだけど」
「じゃあそれでいいじゃねえか。何も変わらねえよ。これまでも、これからも」
「…………」
 ――何も変わらない。本当だろうか……。黙り込んだ癸を横目に、壬は小さくため息をついた。本当に弟に聞きたいことは、実は別にあったのだ。――もし藤原蓮が戦で命を落としたら、その時はどうするのかと。今度こそ、加乃を女として愛するのかと。だが、聞けなかった。癸がそんなことを望むはずがない。むしろ、蓮に生きて欲しいと願っている。それなら自分も同じだ。蓮には無事に都に帰ってもらわなければ困る。加乃が悲しめば癸が悲しむ。そんな光景は、見たくない。
「……ん?」
 陣を包むざわめきに気付き、壬は立ち上がった。外を覗いた癸が、声をあげる。
「兄さん!」
 壬もまた外の様子を眺め、思わず息を呑んだ。
「紫苑……!」
 紫苑ひとりではない。桔梗、昴、朔、そして透までも。あやかしたちに囲まれるようにしながらも、ゆっくりと城に近付いていく。
「どういうことだ?!」
「兄さん、待って」
 飛び出そうとした壬を、癸は慌てて押し留めた。
「みんな冷静な表情をしていたし、今すぐ危害を加えられるような様子でもなかった」
「でも……!」
「今動いたら目立つ。城に入ってしまえば辺りの騒ぎも収まるだろうから、それから様子を探りに行こう」
 癸の言葉を聞いた壬はやがて肩の力を抜き、頷いた。
「ああ、そうだな」
 ――ちらりと見た紫苑の横顔。何かを決意しているような、毅然とした表情をしていた。
「一体今度は何をするつもりなんだ……?」
 いつの間にか握りしめていた拳をゆるゆると開く。掌を濡らす汗が冷え、ひどく心地が悪かった。