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散華の巻 第二章

  一

 その光景を、蓮はただ茫然と見ているしかできなかった。
「あ……あ……」
 白い女が赤く染まっていく。女自身は指一本動かしていないのに、兵は次々に悲鳴を上げ、血を流し、倒れていった。先陣を切った十数名が動けなくなったところで、後続の兵の足が止まる。誰もが怯えた表情でその場に立ち尽くしていた。正年も今はただ蒼白な顔で黙っている。攻撃の意思は既に消えてしまったようだった。
「これで、少しはおわかりになったかしら?」
 振り返って女は正年を見据え、ゆったりと微笑んだ。正年は気圧されたように一歩あとずさる。
「私ひとりに手こずっているようでは、勝ち目はありませんよ」
 言われるまでもなかった。こうして改めて力の差を見せつけられ、蓮は絶望的な気分に襲われる。そして同時に、紫苑が何故懸命に戦いを回避しようとしているのか、その理由の一端を知った気がした。ひとは、あやかしに勝てない。今の蓮にはそれがはっきりとわかっていた。まるで過去を経験したかのように、未来を覗き見たかのように、わかっていた。今までひとが辛くも勝利をおさめてきたのは、あやかしのそれぞれの種族を狙い、圧倒的多数で不意打ちも同然の戦いを挑んできたからだ。だが、今回は違う。あやかしは種の違いを超えて結束し、戦いの準備をしている。そのことがどれほどの意味を持つのか、蓮をはじめ都にいた公達は誰もわかっていなかった。ただひとり、御門紫苑を除いては。
「考える時間を差し上げましょう」
 女はその白い指を正年につきつけた。
「今日から三日――三日もあれば、話し合いもできるでしょう。その間に、答えをお考え下さいな」
「み、三日では都と連絡を取ることもできない!」
 口を挟む蓮に、女は一瞥を投げた。冷たい、淡緑の瞳だった。それでいて獲物を狙う爬虫類のような、得体の知れない不気味な熱がこもっている。冷笑を含んだ紅唇が、言葉を投げた。
「そんなに都のご意向が大切? 危機に晒されているのは貴方がたのお命ですのに」
「…………」
 蓮が口をつぐみ、その代わりのように正年がかすれた声を発した。
「三日だな。わかった」
「正年どの!」
「他に選択肢はあるまい」
 蓮は正年の横顔を見遣る。その変にぎらつく瞳に、どこか嫌な予感がした。
「飲み込みが早くて助かりますわ」
 激しい風が吹き、女の姿を覆い隠す。蓮は思わず目を閉じた。――頬を打つ風が弱まった頃、恐る恐る目を開ける。蓮の視界のどこにも、女の姿はなかった。

  二

 紫苑らの目に映る限りでは、あやかしたちの陣営は全く動揺を見せていなかった。しかし、だからといって、ひとの進軍を把握していないというわけではないだろう。迎え撃つ準備は水面下で着々と進められているのかもしれない。ただ、その表面上の静けさが、彼らにとっては妙に不気味に感じられたのだった。
「早いうちに蓮どのと連絡を取りたいな……」
 紫苑はぽつりとつぶやく。桔梗がうなずいた。
「そうですね。両者が接触する前に、何らかの方策を考えておかないと」
「何か、策はあるの?」
 昴が尋ねる。紫苑は肯定するでも否定するでもなく、ただその紫電の瞳を薄く眇めた。
「私の考えた中で最善の妥協点は、あやかしがこのまま進軍を中止することだ。つまり、この坂東の地をあやかしに割譲してやること――」
「確かにそうね」
「だが、問題はいかにそれを両者に納得させるか。……ひとの側はまだ楽だ。あやかしの本当の力を知れば、恐れをなすだろう。面目がどうのこうのと言っている場合ではなくなる。問題は――」
「あやかし、ですね」
 桔梗が後を引き取った。紫苑がうなずく。
「今回の戦いでは、あやかしはひとをやすやすと打ち破ってきている。彼らがひとに対して譲歩する理由は何ひとつない。それに……」
 紫苑の脳裏に、ひとりの男の姿が浮かんだ。――どちらがこの地上に生き残るに値するか……、神に決めてもらえばいい!!
「夜雲……」
 彼はその男の名をつぶやき、嘆息した。ひとに根深い憎悪を抱く彼が、そう簡単に納得するとは思えない。昨年の初夏から始まった夜雲らの計画は時にひどく狡猾で、怨念じみたものを感じさせる。
「そいつに対しては、こっちの力が切り札になるんじゃないかしら?」
 昴の声が、紫苑の思考を中断した。
「こっちの力、とは?」
「わかりきってるでしょ。『封印』の力、よ」
「…………」
 「封印」。確かに、夜雲らはそれを利用してひとを滅ぼすことを考えていた。だが、逆にあやかしを滅ぼす力も、「封印」は持っているのかもしれない。その可能性をちらつかせるのだ、と昴は言う。
「つまり、脅す……ってことですか」
 眉を寄せる桔梗に、昴は言い募る。
「手段を選んでる場合じゃないわよ。とにかく休戦に持ち込ませないと」
「それはそうですけど……」
 桔梗は浮かない顔をしている。どうやら、昴のいう手段に良心が痛むというわけでもないらしい。もっと他に別の心配事があるのだな、と紫苑は察した。
「とにかく、ひとに話を付けるのが先だな。蓮どのの元に式神を飛ばそう」
「……急いだ方が、いいと思います」
 桔梗はどこか思いつめたような様子でそう言う。何か、不安なことがあるのか――紫苑は問い掛けようとして、やめた。もし彼女がその不安を具体的に説明できるのなら、彼に言われるまでもなくそうしているだろう。そうしないということは、きっと彼女自身にも説明がつかない、漠然とした予感のようなものに襲われているのだ。
 ――桔梗の予感は、よく当たるからなあ……。彼女を見ているうちに、紫苑自身もまた、胸騒ぎをおぼえ始めていた。
 
 
  三

「かーのっ!!」
 自分を呼ぶ声に、加乃は顔を上げた。声の主である日向が御簾を巻き上げると同時、まぶしい光に顔を照らし出されて彼女は目を細めた。以前までの弱々しい冬の太陽ではなく、外にあるのは春だった。いつの間にか季節は移り変わっていたのだと、その時初めて彼女は気が付いた。
「日向さん……」
「ほら、来いよ」
 日向は床に座る彼女の手を半ば強引に取り、部屋の外へと引っ張り出した。相変わらず、日向は少年のような出で立ちをしている。それでも、加乃の目には、日向が以前よりもきらきらと輝いているように見えた。のびのびと自分らしく振舞っている姿は、(なり)がどうあれ、可愛らしい女の子以外の何者でもなかった。
「ほら、こっちこっち」
 腕を引っ張られ、加乃は体勢を崩しそうになりながらも後を追った。
「どうしたんですか?」
「先生が呼んでるんだよ」
「……燐さん、が?」
「お父さん、だろ」
「あ」
 気まずげに笑みを浮かべる加乃に、日向もまた笑った。
「早く慣れてあげないと、先生すねちゃうぜ」
「そうですね……」
 加乃には父親の記憶がない。従って、誰かに向かって「お父さん」と呼び掛けたこともない。そのせいか、燐の養女になってからもなかなか「お父さん」とは呼べないでいた。心の中では父親だと思っているのに……。
「それで……その、お父さんの用事って?」
 つっかえながらも何とか言い直し、加乃は彼女を連れて廊下を渡っていく日向を見つめた。
「庭の梅が咲いたんだ。花見をしようって」
「はなみ……」
 ――きっと、蓮が都を離れて以来元気のない自分を励まそうと、日向か燐のどちらかが思いついたのだろう。それとも、ふたりで話し合って考えたのかもしれない。
「今日はいい天気だから外あったかいしなー。ぼんやり梅を愛でるのも、いいもんだろ?」
 日向の横顔は優しく、暖かくて、加乃はじんわりと目に涙を浮かべた。
 加乃は思い出す――蓮と初めてふたりで牛車に乗った日。彼が見せてくれた、満開の桜。――梅が開き、桜も咲きました。貴方の心は……どうですか?
 そういえば彼の寄せた歌に、まだ自分は返事をしていない。返事をしないまま夫婦になってしまって、いつの間にか歌のことなど忘れてしまっていた……。
「…………!!」
 加乃はばっと日向の手を振りほどき、背を向けた。日向が慌てたように声をあげる。
「お、おい!」
「ちょっと待っていて下さい。忘れものがあるんです」
「忘れもの?」
「ええ!」
 今日は上手く詠めないかもしれない。桜が散るまでに、間に合わないかもしれない。だが、彼が都に帰って来る前には、きっと……!
 ――そうだ。あの時蓮さんは待つと言ってくれた。花が開いて、葉が茂って、実をつけるまで……ずっと、待っているって。加乃は自室に飛び込み、紙と硯、筆を手に取った。
「だから今度は、私が待つ番……」
 ひとりで待つわけではない。日向もいる。燐も――彼女の大好きな父親もいる。大丈夫だ。自分は待っていられる。
「おおい、加乃ー!」
「今行きます!」
 加乃は長い髪を揺らし、光溢れる外へと飛び出した。