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散華の巻 第三章

  一

 怪我をした兵の手当てと命を落としたものの弔い――全てが終わった頃には、既に日が落ちていた。あやかしの女が提示した期限は三日。決して長くはない。暗い空気の立ち籠める陣を足早に通り抜け、蓮は正年の元を訪れた。
「どう返答なさるおつもりですか」
 蓮の問いに、正年は一瞬の間を置き口を開いた。
「……普通に考えて、あいつらが約束を守ると考えるのはいくらなんでも楽観的に過ぎるだろう。御門紫苑がいなくなれば我らは最強の陰陽師をひとり、失ってしまうことになるのだからな」
「ええ」
 正年が紫苑を快く思っていないことを知っていた蓮は、内心安堵のため息をもらした。個人的な嫌悪の情は別にしても、正年はそこまで短絡的な思考の持ち主ではないらしい。そもそも正年は都でもあやかしに対しては強硬派であった。力の片鱗を見せ付けられた今でも同じかどうかはわからないが、戦わずして妥協することを良しとはしないのだろう。
「しかし……」
 正年はやや、言い澱んだ。
「あの話を聞いたのは、我々だけではない。それが問題なんだ」
 苦々しげにつぶやく。
「兵の士気が低下している。『御門紫苑というのが何者かは知らないが、そのひとりの命を差し出して戦が終わるのならそれでいいのではないか』――そういう声がある。しかも、それは決して小さな声ではない」
「…………」
 蓮は唇を噛んだ。確かに、今日だけで十人以上の兵の命が失われた。今後戦になればもっと多くの死人が出るだろう。それをひとつの死体で防げるのなら――その思考はわからなくはない。だが、それは受け付けがたいものであることもまた事実だった。
「時間稼ぎのために、一度は受け入れるか……。御門どのもこの話を聞けば、中立などと甘いことを言っておられまい。戦にも参加するだろう。自分の身を守るためにも、な」
 正年は吐き捨てるように言った。
「まあ、どうせ御門どのは都にいるんだ。彼らの申し出を受け入れるとしたって、三日後までに首を用意するのは不可能」
「…………」
 蓮は黙ったまま視線を逸らした。――紫苑は、都にはいない。恐らく、軍は既に彼のいる場所の近くまで来ているはずだ。あやかし側は紫苑の居場所を把握しているのだろうか。把握していないのであれば、確かに正年の言う時間稼ぎも可能だろう。だが、もしあやかし側が上手をいくようなら……。
「しかし本当に災いを振り撒く男だな、あれは」
 正年は舌打ち交じりにつぶやいた。蓮は黙って彼を見つめる。彼の言うのが御門紫苑のことだというのは、もちろんすぐにわかった。あえて反論はしないが、当然同意するつもりもなかった。確かに、彼はいつも様々な災いに晒されてきた。正年の知らないようなことも、蓮は多少知っている。だがそれらが紫苑自身のせいなのかというと、それは決して違う。いつでも紫苑は災いを広げまいと奔走し、努力していた。彼を翻弄する運命と戦い続けていた。それなのに……。
 ――とにかく、急いで彼と連絡を取らなければ。しかし、どうやって……。蓮は激しい焦燥感に襲われながら、正年の元を辞した。

  二

 その夜、床についてからも蓮はなかなか寝付くことができなかった。薄暗い闇を見つめていると、そこには亡くした長兄を始め次兄、都に残してきた愛しい少女、その義父、少女が兄と慕うあやかしの青年など、さまざまな者の顔が浮かぶ。渦中の人物の持つ紫電の瞳、その禁忌の証の色でさえ、今の蓮には懐かしく感じられた。
 とろとろとまどろみかけた時、
 ――御門紫苑の、くび。
 あの女の声が脳裏に響き、蓮はびくりと体を震わせた。あれは、本当に紫苑個人の命を目的としているのだろうか。それともひとの戦力を削ぎたいだけなのだろうか。彼らの思惑が、わからない。
 蓮は何度目かの寝返りを打ち、ふと何かの気配に気付いて体を起こした。ひとの気配ではない。鼠でも迷い込んできたのか――そう思って燭を点そうとした彼を、低い声が留めた。
『蓮どの。火は点けずに』
「…………!」
 聞きおぼえのある声に、蓮は息を呑んだ。
「紫苑どの……」
『驚かせてしまい申し訳ない』
 暗がりから走り出てきたのは、果たして一匹の鼠であった。目を瞬かせる蓮の膝元で体を起こし、鼻を引くつかせた。
『この鼠は私の式神です。安心して下さい』
「紫苑どの」
 彼の低い声を聞いていると、言いようのない安堵が胸のうちに湧き出て来る。蓮は鼻の奥がじんとするのを感じた。
「僕も貴方とお話がしたかったのです。ありがとうございます」
『陣の様子がどことなく妙でしたが、何かあったのですか?』
 尋ねられ、蓮は今日の出来事を包み隠さず話した。鼠は微動だにせず、まるで耳を傾けているかのように黙り込んでいる。
「――そういうわけで、猶予はあと二日」
 言葉を切った蓮に、鼠はその(まる)い瞳を向けた。
『正年どのは、今のところ時間稼ぎのために承諾すると、そうおっしゃっているのですね?』
「はい」
 後ろめたさを感じながらも、蓮は頷く。
『それで結構です。この二日の間に、私も動きます』
「紫苑どのが……?」
『恐らく彼らの狙いは、ひとが私の命を狙うように仕向けること。つまり、私を味方に引き入れたいのだと思います。当然ながら、彼らが約束を守るとは考えられません』
「一体何をなさるおつもりなのです?」
『今の状態はひとにとって不利過ぎる。何とか天秤を元に戻さなければ』
 きっぱりと言い切られたその言葉に、蓮はほっと息をついた。――これできっと、大丈夫だ。何の根拠もなく、そう思う。紫苑の声にはそう思わせる何かがあった。
『とにかく、貴方はご自分の身を守ることを一番に考えて下さい。鼠はこのまま貴方の周りに潜ませます。声を飛ばすのは少々労力がいるのでこうやって話すことはできなくなりますが、貴方の身に異変があれば察知することくらいはできます。できるだけ急いで駆けつけるようにはしますが、そういう事態が来ないように祈っていますよ』
「……貴方こそ」
 蓮はそっと手を鼠に伸ばし、その白い毛並みをなでた。もしここに紫苑がいるのなら、その大きな手を強く握りたいと思う。
「紫苑どのも、どうか……ご無事で」
『…………』
 鼠はぺこりと頭を下げたかと思うと、あっという間に闇の中へと駆け去ってしまった。蓮はしばらくその残像を追い、やがて目を閉じる。
「やはり僕は……あのひとを犠牲にすることなんて、考えられない……」
 紫苑だけではない、これ以上誰ひとり命を落とさせてはいけない。そのために、一体自分に何ができるだろうか。夜に包まれた部屋の中、蓮はただひとり自問を繰り返していた。

  三

 紫苑はただひとり、小屋の外に佇んでいた。空気は冷たいが、寒さは感じない。むしろ体が。術を解いてからもその場を動けない。星ひとつ見えない空を見上げてため息をつくと、湿った白い息が立ち上っていった。
「私の首を……か」
 不意に笑みが浮かんだ。――もし桔梗に出逢う前であったなら、家族のひとりもいない頃の自分であったなら、案外素直に首を差し出したかもしれない。犠牲は少ない方が良い、ひとりの命で戦を終わらせることができるのなら……確かにそういう考えもあるだろう。しかし、今の自分には決して承諾できない。どんなことをしてでも、どんな手を使ってでも生き延びてみせる。自分の決断のせいで命を落とす者が出るかもしれない。自分の死で、多くの生命を救えるのかもしれない。先ほど蓮にはああ言ったが、本当にあやかし側が約束を守る可能性がないわけではなかった。それでも……。
「それでも、私は生きていたい」
 誰かを犠牲にして成り立つ世界など、自分は望まない。誰もが等しく生きる機会を得てこの世に生まれ落ち、しあわせになる権利を持っているはずだ。たとえ禁忌の存在とされた自分であってもそれは変わらないと、そう信じている。
 ――それに、勝手に死んだら桔梗が怒るだろうからな……。苦笑を浮かべた紫苑の背後から、小さな足音が近付いた。
「紫苑?」
 振り向いて、紫苑は微笑む。先ほど思い描いたばかりの少女が、手を伸ばせば届くほどの位置で立ち止まり、彼を見つめていた。目が合うと、桔梗はほっとしたように駆け寄ってくる。
「蓮さんと連絡は取れたんですか?」
「ああ」
 短くつぶやいて、紫苑は桔梗の頭にその掌を置いた。彼女の澄んだ目が夜闇の中で水晶のように煌めいているのを、紫苑は目を細めて眺めやった。
「蓮さん、なんて……」
「なあ、桔梗」
「何ですか?」
「誰かひとりが犠牲になって、それでみんながしあわせになれる、そんな方法があったとする」
「…………」
 桔梗は驚いたように目を見開いたが、紫苑はそのまま続きを口にした。
「お前はその方法をどう思う?」
 桔梗は少しだけ目を伏せ、やがてすぐに顔をあげた。
「……そんな方法、存在するはずがありません」
「え?」
 聞き返す紫苑の目の前で、桔梗は優しく笑う。
「だって、誰かひとりを犠牲にしたら、そのひとのことを大切に思っていた誰かが絶対に悲しみます。しあわせになんて、なれません」
「…………」
「その悲しむ誰かを見て、また他の人が悲しむ。そうやって悲しみが続いていったら……みんなのしあわせなんて、どこにもないじゃないですか」
「ききょう……」
「だから紫苑の言うような、そんな方法なんてないんですよ」
 立ち尽くす紫苑の頬に手を伸ばし、桔梗はそっと指先で彼の輪郭をたどる。
「それに、犠牲になったひとはしあわせになっていないじゃないですか。やっぱりおかしいと思う」
「……その方法を取らなかったせいで、もっとたくさんの命が失われることになったとしても?」
 視線を逸らした紫苑は、桔梗が顔を曇らせたことに気付かなかった。
「それはそのひとのせいではありません。そんな選択しかできなかったひとたちの……それこそ『みんな』のせいです」
「…………」
「紫苑」
 桔梗の声はあくまでも優しく、だが厳しい響きを宿していた。
「確かに、私達には力の大小がある。運命を動かすほどの力を持つものもいれば、そうでないものもいる。だからといって、力のあるものが全ての責任を背負わなければならないなんてことはないんですよ。だってそれはつまり力のないひとには何も決めさせてあげないのと同じことでしょう?」
 紫苑ははっと息を呑んだ。
「歴史も、世界も、力ある者たちだけのものじゃありません。むしろ、力のないひとたちの声でこそ創りあげていかなければならないものなんだと、私は思う……」
「桔梗」
 紫苑は腕を伸ばし、桔梗を抱きしめた。彼女の細い体が、彼の胸に倒れ込む。
「ありがとう」
 紫苑の背中に回った桔梗の手は、きつくきつく握りしめられていた。――決して離さないとでもいうように、強い強い力を込めて。