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散華の巻 第七章

  一

「こっちだ!」
 紫苑の声が響いた時、癸は蓮を抱えて走り出していた。蓮は青ざめた顔をして、彼にしがみついている。──蓮がどんな思いで決断し、真雪を斬ったのかはわからない。ただ、彼はこうするしかなかったのだと、彼は彼なりに紫苑らを守りたかったのだと、それだけは癸にも強く伝わっていた。彼ならば、きっと加乃のことも守り抜くに違いない。やはり蓮に加乃を託したのは、間違いではなかった。以前兄に答えたことに嘘偽りはなく、癸は自分の決断に満足している。
 紫苑が壁にあけた穴から壬が飛び出し、それに続こうとしたとき――、
「…………!!」
 突然の、悪寒。癸は突然蓮を前に突き飛ばした。蓮の呆けたような顔が遠ざかり、同時に強烈な灼熱感が胸部を襲う。
「ぐ……っ」
「癸さん!!」
 蓮が腕を伸ばし、前にのめった彼を抱き止めてくれた。癸は力を振り絞り、蓮ごと外に体を投げる。
 首をねじって振り返ると、夜雲が怒りに燃えて身を乗り出していた。
「おのれ……!」
 その手に持っている短刀が、血に濡れている。真雪を刺した刃だろうか。だが、あれは長刀だったはず……。
 ――急に視界が暗くなった。
「癸さん!」
 蓮の声がぼんやりと聞こえる。
「癸!!」
 兄の、声。全てがゆっくりと遠くなる……。

  二

「なんで、癸っ……!」
 壬は昴らを離し、癸の元に駆け戻った。おびただしい血が地面に流れ落ちるのを目にして、心が凍る。
「癸さん! 癸さん!!」
 蓮が癸を支えて叫んでいた。駆け寄る壬に気付き、彼は目に涙を溢れさせる。
「ぼ……僕を庇って……僕の、せいでっ……」
「ち、がう」
 思いの外強い声で、癸がつぶやいた。
「きみのせいじゃ……ない」
「とにかく血を抑えないと!」
 異変に気付いた桔梗が自らの衣の裾を引き裂き、癸の胸に当てた。白い布がみるみるうちに赤く染まる。壬は頭のどこかが痺れたような気持ちで、ただそれをぼうっと見つめることしかできなかった。
「さいわい、追っ手は来ていないようだ」
 紫苑は辺りを素早く見渡す。先ほどの騒動でその姿を現していた白虎が、低く身を屈めた。皆が何とかして癸をその背に乗せるのを見ていても、壬はその場に立ち尽くしていた。
「──兄さん」
 癸は荒い息をつきながらも薄く目を開け、壬を見つめる。無理に喋るなと留める紫苑を遮り、彼は言葉を紡いだ。
「蓮くんは……悪くないんだ」
「みずのとさ……ん……」
「それから、蓮くん」
 癸は泣きじゃくる青年に、優しい視線を投げた。
「加乃ちゃんを……いや、加乃ちゃんと……しあわせに……」
 大きく息をつく。桔梗がその力で傷を癒そうと手をかざしているが、血はそれでも溢れ出してくる。昴もまた何か術を唱えていた。──だが、壬の頭は現実を受け付けようとしない。自分の弟が、長年離ればなれになってようやく出会えた弟が、まさか……。
「にいさん……」
 癸と目が、あった。虚ろな眼差しで見返す壬に、弟は白く色を失った手を差し伸べる。壬はそれをかろうじて握りしめ、その冷たさに震撼した。
「……にいさん……お願いだから……憎まないで……悲しむなとは言わないから……、だから……」
 途切れ途切れの言葉に、壬はただ何度もうなずくしかできない。癸はそれでも満足げに微笑した。だが、紫色の唇の動きはやがて緩慢になっていく。
「たのむよ……、にいさん……」
 言い終えた癸が目を閉じるのと同時に、桔梗がはっと息を飲んだ。
「……そんな」
「壬」
 壬は紫苑に呼ばれたことにも気付かず、癸の頬や手に触れる。白虎が低く唸った。
 ──この者の魂は、肉体を離れた……。
 壬は唇を噛み締めた。これが怒りなのか悲しみなのか、自分にもわからない。ただひとつ、はっきりとしているのは……。
「うわあああああああああああっ!!」
 ――絶望。それだけだった。

  三

「畜生っ……!!」
 夜雲は手にしていた短刀を投げ捨てた。刃は癸に阻まれ狙った相手には届かなかったが、これ以上追うわけにもいかない。何より真雪の傷がどれほどのものか、手当てしなければ──夜雲は振り返り、絶句した。
「ま、ゆき……?」
 白い体と着物が、血の海の中に溺れている。あやかしたちが四方から掛けている術も、彼女をそこから救い出すのに役立っているとは到底思えなかった。夜雲がふらふらと近付いていくと、さっと道が開いた。夜雲は彼女の体を抱き起こす。血は熱いのに、肌はぞっとするほど冷たかった。
「まゆき……」
 伏せられていた目が、わずかに開く。真雪は唇から一筋の血を垂らしたまま、力なく微笑んだ。
「ごめんなさい……へまを、したわ」
「話すな」
 自分の声がひどく震えている。夜雲は首を左右に振った。
「黙っていろ」
「ねえ……やぐも」
 いつの間にか、辺りはしんと静まり返っていた。真雪の荒い息づかいだけが広間に響いている。
「わらっ……て」
「な、にを」
「見たかったの……、あなたがこころから、笑うところ」
 血に濡れた細い指が夜雲の頬に触れ、赤い線を描いた。
「わたし……、ひとがどうなろうが、どうでもよかった」
 真雪の瞳に、涙が浮かぶ。
「ただ……あなたが……」
 ──側にいてさえくれたら。
「まゆき……」
 夜雲は微動だにせず、真雪を見つめる。よく知っていたはずのおんなが、知らない顔をしていた。
「ごめん……なさい……」
 真雪は深く息を吸い、やがてふっと吐き出して――そのまま呼吸を止めた。夜雲はただ彼女を抱きしめたまま、まばたきすら忘れたかのように座り込んでいる。
「──夜雲さま」
 彼の背後から、あやかしが声を掛ける。
「奴らを追いましょう! 真雪さまの仇を……!!」
「…………」
 夜雲はゆっくりと振り向いた。
「しばらく、ひとりにしてくれ」
 真雪の死に顔に視線を戻し、彼はその上に自分の顔を寄せる。
「しかし……」
「追うも追わぬも、自由にしろ」
「…………」
 その言葉を最後に、背後の気配がひとつひとつ遠ざかって行く。夜雲はただひたすらに全てが消えるのを待った。
「……かたき……か」
 ぽつり、とつぶやく。視線を動かせば、先ほど癸を襲った短刀が目に入った。赤く染まった刃──真雪を塗り潰す色と同じ。
「なんだ、これは」
 夜雲は顔を伏せ、絞り出すようにうめいた。
「なぜ、俺はこんなにも……」
 ──後悔しているのだ。
 何を悔いているのだろうか。戦を起こしたことか。策を弄し、御門紫苑を都から追ったことか。彼の命を条件に、ひとを欺こうとしたことか。真雪を救えなかったことか。怒りに任せて癸を刺したことか。それとも……。
「全部……全部、間違っていたのか」
 自分と同じ四天王の直系、真雪と出逢ったのを機に彼は戦を企てた。彼女はすすんで協力してくれた──だからこそ、彼は母と乳母を失って以来閉ざしていたこころを開いた。だが、彼女の本当の望みには少しも気付くことができなかった……。
「あのとき、素直に俺たちが恋に落ちて」
 ぽたり、ぽたりと真雪の頬を雫が濡らす。彼女の静かな表情は今まで見たどんな寝顔よりも、夜雲の胸を甘く締め付けた。
「あのまま隠れ里でひっそりと暮らしていたら……」
 不意に浮かぶ、あり得たかもしれない未来の光景。少し老いた自分と真雪、走り回る子供たちを見守って……。たとえいつまでもひとの里から離れた奥地に隠れ棲まなければならなくとも、その光景の前ではたいしたことではないように思えた。
「そうしていたら……おれたちは、しあわせになれたのか……?」
 真雪は、答えない。夜雲は彼女を抱きしめ、血で汚れ固まった白銀の髪を優しく指ですいた。
「なあ、教えてくれ……真雪……」
 沈黙さえもが、今はかなしく愛しい。夜雲は目を閉じ、それに体を浸す。いつしかこころまでもがじんわりとほどけていた──今こそ自分たちは寄り添っているのだ……。

 不意に、城の外が騒然とした。しかし、夜雲は動かない。
 そのまま暫しの時が経ち、彼の元にも報せがもたらされた。真雪に蓮を連れ去られたひとの軍が、大挙して押し寄せている、と。御門紫苑の術によって不可思議な壁が生じ、互いの接触は妨げられているが、いつ戦闘が始まってもおかしくない状況であるという。
「いかがなさいますか、夜雲さま?!」
「…………」
 夜雲はうつろな眼差しで天井を見上げた。──俺にはもう、戦う意味がない……。
「夜雲さま!!」
「――様子を見ろ」
 詰め寄られ、夜雲はゆっくりと声を押し出した。自分の頭の中に冷静な部分が残っていたことに気付き、彼はまるで他人事のように驚く。
「下手に手を出すな。滅ぼされるぞ」
「しかし」
 まくしたてられる抗議を聞き流しながら、夜雲はわずかに笑みを浮かべた。
「どちらにせよ──――のだ」
「え?」
 聞き返されるが、口に出して繰り返すことはしない。ただ、胸中に再び思い浮かべるのみである。
 ──運命はあの男が握っているのだ……そうだろう? 真雪。俺の愛しいおんな。
 真雪のまだかすかに色づいている唇が、少し微笑を浮かべたようだった。