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散華の巻 第一章

  一

 平野部から雪が消え去ってからもしばらく、坂東の山々は白く雪化粧を施されたままであった。
 以前は雪に興味を示していた昴も今ではすっかり見慣れ、むしろ雪解けを待ち望んでさえいる。透流が中心となって紫苑とともに作り上げた小屋は、はじめに居た洞よりもだいぶ過ごしやすかったが、それでも夜は底冷えがした。辺りでしとめた獣の皮をかぶり、身を寄せ合って眠る。邑では考えられなかった、厳しい生活──それでも、昴にはひとの温もりの方がよほど暖かく感じられた。
 壬や癸は時折彼らの小屋を訪れ、食糧を分けた。夜雲による監視を心配する紫苑にも、壬らは取り合わない。──「今は夜雲もそれどころじゃねえよ」、というのが壬の弁である。確かにそうなのだろう。都から軍が派遣されたとの知らせを、彼らは夜雲などよりよほど早く受けている。都にいる燐が、紫苑の遺した式神に託して寄越したものだ。
 だが派兵の事実よりも、知らせの末尾に書かれていたことに、皆は衝撃を受けた。──藤原蓮が、坂東に派遣されてくる。加乃との婚儀は年明けすぐだったと聞いたから、それからまだほんの二三ヶ月しか経っていない。
「加乃には、ふつうにしあわせになって欲しかったのに……」
 昴のつぶやきに、透流はことさら明るく答えた。
「でも、蓮さんは文官ですから」
戦場(いくさば)で、そんなの関係ないわよ」
「……まあいい」
 紫苑は昴を遮った。彼もまた、緊張の面持ちで紙面を見つめている。
「燐が知らせてくれて助かった。壬らにも言って、何とか守ってやらなくてはな」
 加乃の夫だからという理由で蓮を特別扱いするのは、偽善かもしれない。それでもいい、と紫苑は思った。彼は自分の力に限界があることを良く分かっている。もちろん、できることなら誰のことをも救いたいが、それが己に可能だと思い込むほど、紫苑は傲慢にはなれなかった。彼は彼にとっての「家族」を──そのしあわせを優先する。
「それに、ひと側に蓮どのがおられるなら、我々との交渉の窓口になって下さるだろう。……何とか、戦を回避したい」
「…………」
 そう言う紫苑の横顔を、桔梗は不安そうに見上げた。──胸騒ぎがする。何ともいいようのない不安と恐れ。後に振り返ってそれが運命からの警告だったとしても、その時の桔梗にはその示すものはわからなかった。

  二

 藤原蓮はその頃、馬上にあった。彼の駆る白馬は、亡き長兄雅哉の遺したものだ。蓮を雅哉の御霊(みたま)が見守ってくれるようにとの、次兄伴雅の計らいである。今回の出征を前に、伴雅にはずいぶん世話になった。何より、伴雅は必ず橘家を──そして加乃を守ると誓ってくれた。その言葉が、後ろ髪を引かれるような思いであった蓮にとって、どれだけ心強かったことか。
 都を出て、早半月。あやかしたちの占領する坂東の地はもう目の前である。不意に、彼の隣に黒毛の馬が並んだ。
「蓮どの」
 征夷大将軍に任じられた、藤原正年だ。
「何か、ありましたでしょうか?」
 姓の示すとおり藤原の血筋ではあるが、正年は分家の出である。本家の蓮が軍に同行することになったことを、彼は快く思っていないらしい。彼はあくまで蓮よりも年長であるから、蓮は礼をもって彼に相対していた。それは伴雅からの忠告でもある。
 正年は冷ややかな笑みを浮かべていた。
「蓮どのは、橘の家に通っておられましたな」
「え……ええ」
「陰陽博士殿とも親しくされていたのですか?」
「いえ、あちらでお会いすることはありませんでしたが」
 蓮の若い顔に、警戒の色が浮かぶ。
 正年があやかしに対して強硬派であることは周知の事実であり、それゆえか彼は陰陽博士、御門紫苑をひどく嫌っていた。蓮は気を引きしめる──義父、燐から託された秘密を口にしてはいけない。御門紫苑が既に坂東にいることを、正年に知られてはならない。
「あの紫の目を、真正面から見たことがおありですか」
「……はあ、まあ」
 正年は何が言いたいのだろう、と蓮は不審に思った。正年はただ前を向いたまま、蓮の方を見ようとはしない。
「そんなことは数えるほどしかないが、そのたびに私は気持ちが悪くてならなかったのですよ。あの、むらさきが」
「…………」
「だって、明らかに違うではありませんか。あまりにも違いすぎる。我々とは、違う」
 繰り返される言葉──「違う」、と彼は言う。あやかしは、御門紫苑は、我々とは違う。違うのだろうか? 蓮は自問する。紫苑は、何か違っていただろうか。癸は、何か違っていただろうか。確かに色は違う。あやかしたちの耳は尖っているし、肌には文様がある。……それが違う、ということだろうか。紫苑の目を見ても、蓮は気持ち悪くなどない。確かにはじめは驚いたが、今はもう慣れている。それでは、自分は正年と違っているのだろうか。
 蓮の想いに関わらず、正年は言葉を続ける。
「異質なものが混じりあえば反発するのは、自然の(ことわり)。──この戦も、必然なのでしょうな」
「…………」
 蓮は、自分とこの隣の男は明らかに異質だと思った。蓮は、あやかしと戦いたいとは思っていない。互いに分をわきまえ、不可侵な領域を作ればいい。ひとである加乃の元に時々は癸が訪れることができるような、そんな世界を、蓮は望んでいる。――加乃に出会う前なら、そして御門紫苑というひとを良く知る前なら、自分も正年のように考えただろうか……。
 ふと、前方が騒がしくなった。正年の顔にさっと緊張が走る。
「あやかしだ!」
 その声が遠く響いた途端、正年は馬を駆り、飛び出した。蓮はあわててあとを追う。──いくら正年と自分が違っていても、蓮は自分たちが相容れぬとは思いたくなかった。

  三

 そのあやかしは天から舞い落ちた雪がそのままひとのかたちになったような、氷の彫像がうっすらと白い霜をまとったかのような――とにかく白い女だった。辺りを兵に囲まれているのにも関わらず、嫣然と微笑んでいる。その目前に馬を止めた正年が、ぎくりと体を強張らせた。
「お、お前は……?!」
「おひさしゅうございますね、正年さま」
 まるで旧知の仲であるかのような彼らの様子に、蓮が訝しげにふたりを見比べた。
「正年どの、ご存知で……?」
「このおんな、以前会ったときには白髪の巫女と名乗っていた」
「何ですって?!」
 蓮は驚きの声をあげる。――白髪の巫女。かつて都を賑わせた、未来を予知する巫女。正年が彼女に会ったことがあるとは知らなかったが、何より驚いたのは敵が堂々と都に入り込んでいたということだった。
「わたくしの名は真雪。……白蛇族の長でございます」
 女は慇懃に一礼した。正年は苦虫を噛み潰したような顔で彼女を見ている。彼が兵に攻撃を命じないことに、蓮は安堵した。彼女のまとう空気は尋常ではない。今ここで戦ったとて、簡単に勝てる相手ではないだろう。不用意に手出しするのは危険だ、と思った。
「今日はあやかしを代表して交渉に参りましたの」
「交渉?」
「ええ。……わたくしたちの望むものを下さるのなら、これ以上の進攻は致しますまい」
「それはまことか?!」
 思わず口を開いた蓮に、女の薄緑の視線が向いた。――ぞくり、と背筋を悪寒が走り抜ける。女は蓮に言葉を掛けることなく、再び馬上の正年を見上げた。
「お約束致しますわ」
「……それは、我らの一存ではどうにもならぬこと」
 正年は声を上ずらせながら、それでもこれ以上は気圧されまいとその場にぐっと踏みとどまった。
「しかし、せっかくお出向きいただいたのだ……そちらの望むものとやらを聞こうではないか」
「それは、とても簡単なもの……」
 女は紅唇をほころばせ、赤い舌をその間からちろりと覗かせた。
「御門紫苑の、くび」
 思ってもみなかったその名に、蓮のみならず正年までもが驚きの声をあげていた。
「何?!」
「何故、御門殿どのを――」
「理由は言えません。でも……」
 女の声はまるで岩の割れ目に滲みこみ、やがてしたたり落ちてくる水のように、澄んでいながらもどこか粘っこい響きを持っていた。
「半妖のいのちひとつと、この大軍のいのち……どちらが重いかなど、考えるまでもありますまい」
「お前、」
 ふと我にかえったか、正年が息巻いた。
「はじめから我らに勝てるつもりで……我らを見くびっているのか!」
「正年どの!」
 蓮が静止しようとする、だが遅かった。
「その女を捕らえよ!!」
 おおお、と兵士がいきり立つ。相手が女ひとりであることも忘れ、刀やら縄やらを手に殺到した――。
「……おろかな」
 女がぽつりとつぶやいた、その声を聞いたものが一体何人いただろうか。蓮は慌てて声をあげる。
「待て、(はや)るな――」
 蓮の声を掻き消し、辺りに悲鳴が響き渡った。