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宿業の巻 第四章

  一

 その落ち着き払った深緑の瞳が、何より腹立たしい。壬はともすれば膨れ上がりそうになる殺気を抑え込むのに苦心しながら、その男に相対していた。
 男はといえば、静かではあるがやや剣呑な光の宿る笑みを湛え、壬を見つめている。
「どういう風の吹き回しだ? お前は私を避けていると思っていたのだが……」
 確かに遥が命を落として以来、壬は徹底して男を──夜雲を避けてきた。ただ壬と親しくしたという理由で遥を害したのを、彼は赦せなかった。しかし、今回ばかりは致し方ない。
「用事があったから来たんだ。悪いか」
 辺りには誰もいない。壬が自分を快く思っていないことなど十分承知しているだろうに、ふたりきりで会うことを躊躇わない、それはきっと夜雲の自信の現れなのだろう。確かに、壬ひとりでは彼をどうすることもできない──しかし夜雲は気付いていないのだ。今本当に彼が目の前にしているのは壬だけではなく、癸であり、紫苑であり、桔梗であり、昴であり、朔なのだということを。
「用事とは?」
「お前は以前、黒鷹の長の嫡子と名乗った。……まだ、継いでいないのか?」
「…………」
 夜雲は微笑を浮かべようとして失敗し、口元をひきつらせた。
「わざわざ時間を取ってやったのに、随分と下らない用事なんだな」
「そうか?」
 壬は平然と言い返した。
「今回の戦は主に黒鷹が仕切ってんだろ? そこに同じ四天王である水龍が参加してるんだ。一言挨拶したいと思っても不思議はないだろうが」
 一瞬、夜雲の瞳がぎらりと鋭く輝いた。壬はじっと彼を見つめる。
「何故、今更?」
「本当だよな。この間弟と話してて気が付いたんだけどさ、何で今まで忘れてたんだろうって言ってたんだ」
「……心遣いはありがたいが」
 夜雲は徐々に表情に余裕を取り戻してきていた。
「父はずっと長く病に伏せっている。そのために正式な継承もできないでいるのだ」
「病……?」
「ああ。父は衰弱した姿を見られるのは嫌うのでね。そういうわけで挨拶は結構だ」
「そうか」
 壬はうなずいて立ち上がる。夜雲からこれ以上の情報を引き出すのは難しいだろう。
「私からも質問がある」
「……何だ?」
「御門紫苑は、どうしている?」
 瞬間的に壬は思考をめぐらせた。──直球でありながら曖昧な質問。恐らくは、鎌をかけられている。
「知らねえよ。お前の方が情報握ってんだろ」
「知らないか。それならいい」
 うつむき加減の夜雲の表情が、壬にはよく見えなかった。

 二

 暗い部屋に冷たい湿気が充満している。そこにいるのは、ふたり。内ひとりは病人らしくぜいぜいと苦しげな呼吸をしながら、床についていた。色素の抜けた白い髪。半ば閉じた瞳は苔むしたような、どんよりした色。何かをじっと見つめているのか、それとももう何も映していないのか──ひび割れた唇は何も語らない。
 病人を見つめているもうひとりの人物は、透き通るように白かった。髪も肌も着物も、白い。真雪だ。彼女は病人の枕元に立ってじっと見下ろしているが、自分の存在に彼が気付いているのかどうか、良くわからなかった。小さくつぶやく。
「憐れな……」
 暗がりの中、病人の体の上を一匹の白い蛇が這いずっている。それがぬるりと動くたび、病人の息は荒くなるのだった。
「貴方が今の夜雲を見たら、どう言うのかしら」
 病人は、答えない。真雪の声が聞こえているのかどうかさえ、定かではなかった。だが彼女は独白のように続ける。
「私はひとがどうなろうと、そんなことはどうでもいい。ひととあやかしが相容れないのなら、関わらなければいいだけの話だと思うから。……ただ、彼の悪夢が終わるなら、私はそれでいいのよ」
 病人が一際大きくうめいた。真雪はかすかに眉をひそめる。
「彼は貴方を恨んでる。……それでも、殺すことはできないのね」
 夜雲の胸を荒らしているのはきっと、怒りよりも悲しみなのだろう。恨みよりも悼み。夜雲が突き進もうとしている道で、本当にそれが癒えるのか……真雪にはわからないが、それでも付き従うしかない。彼女はその紅唇に、うっすらと自嘲の笑みを浮かべた。

「うう……うう……」
 かすかな、しかし耳につくうめき声。それを聞く者は、もはやこの部屋に存在しなかった。

 三

 外は一面の銀世界だが、紫苑らの過ごす洞の中は暖かかった。炎が乾いた音を立てて燃えている。揺らめくいくつかの影は、岩壁の上で歪に姿を変えていた。
 紫苑は、一羽の白い小鳥を手の上に載せている。式神だ。壬の元に遣わせて、戻ってきたところであった。鳥は何やら囀ずるように嘴を動かし、紫苑はそれに合わせてうなずく。だが、鳥の声は他の誰にも聞こえはしない。
「式神って便利ねえ」
 白湯をすすりながら、昴が言った。
「私にもできないかしら」
「できそうに見えますけどねえ」
 桔梗は器から立ち上る湯気をふう、と吹いた。白い蒸気はほの暗い洞の中にふわりと拡散する。
「あやかしには、こういう術みたいなのはないのよね?」
「そうですね、あまり必要ないというか……」
「やろうと思えば式神も作れる?」
 桔梗は首を横に振った。
「それは無理だと思います」
「……なんで?」
「……なぜでしょう?」
 向かい合って同時に首を傾げたふたりを見て、透流はくすりと笑った。紫苑もまた、笑みを見せる。例の小鳥は彼の肩に大人しく止まっていた。
「昴は、訓練すればできるだろう。陰陽道はひとのためのものだからな」
 正確には、紫苑がひとであるのは半分だけだ。まだ彼が幼かった頃、彼が陰陽の術を使いこなせるようになるかどうか、当時の陰陽師たちの間で意見が割れたという。
「どうしてあやかしには無理なの?」
 尋ねる昴に、紫苑は怪訝な顔をした。
「なぜ玄武の巫女がそういう話に疎いんだ?」
「悪かったわね私は玄武に頼りっきりの不良巫女だったの」
「朔と修行していたのは……」
 それに答えたのは、腹這いになっと白猫と戯れていた朔だった。
「あれは体捌きとか力の使い方とかですよ。僕も術は使えませんし」
 紫苑は少し考えるように顔を伏せ、やがて口を開いた。
「あやかしにとって妖力を扱うということは、我々が手足を動かすようなものだと思う。違うか?」
「ええ、似ています」
 桔梗はゆるくうなずく。
「だが、ひとにはそのような力はない。ひとにできるのは、この世に満ち満ちている力の欠片──それに働きかけること。自らの内から何かを引き出すのではなく、外界を動かすのだ」
「良くわからないんだけど……」
「まあ、私も純粋なひとの陰陽師ではないからな……」
 紫苑は困ったように首を傾げた。
「例えばこの鳥、元は紙だ。だが、形を鳥に似せて切ることで、紙と鳥とを近付けた。さらに術を掛け、『似ている』という事実の力を強めて『等しく』したのだ」
「すごいわね」
「そうか?」
 紫苑は小さく笑った。
「私は物心ついてすぐにこれをやってのけたが、あまり褒められなかった。……まあ、蘇芳は私を褒めるような男ではなかったからな」
「蘇芳?」
 尋ねる透流に、紫苑はあっさりと答えた。
「私を養子にした男だ」
 桔梗は唇を噛んで目を伏せる。炎が爆ぜる音が辺りに響いた。
「……まあいいじゃない」
 昴がわざとらしい、投げやりな調子で言った。
「私もあんまり褒められた記憶はないけど、今はいやというほど褒めてもらえるもの」
「それはのろけているのか?」
「真顔で聞くなっ!」
 赤くなる昴、嬉しそうに笑う透流。桔梗は手を伸ばし、紫苑の頭をよしよしとなでる。朔は、いつの間にか白猫を枕にしてすやすやと寝息をたてていた。
 平和な、しあわせな時間──都にいるときと何も変わらない。「何だい、そんなに大声を出して」と旧友がひょっこりと現れそうな、そんな心地さえする。紫苑はそんな光景を目を細めて眺めていたが、やがて浮かんでいた微笑をすう、と消した。
「紫苑?」
 桔梗が目敏く尋ね、朔がはっと身を起こした。紫苑はゆっくりと口を開く。
「夜雲の父親だが──長らく病に伏せって、誰にも会わないらしい」
「こっちにいるの?」
「壬はそう考えているようだが、今はそれ以上手が出せないでいる」
「下手に動くと危ないですしね……」
「ああ。とりあえず、またあれを使ってみるか……」
「あれ?」
 尋ねる昴に、紫苑はにやりと笑った。
「式神さ」