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宿業の巻 第六章

  一

 紫苑が式神を放ってから、二日。夜雲の父の居場所が判明した。白蛇族の姫御子が関わっているのではないかという読みがあたったのである。
 ──夜雲と真雪。今回の騒動は、そのふたりが首謀しているらしい。表立って動いているのが夜雲ならば、真雪は影で事態を動かしているといえる。もし夜雲の父が何らかの鍵を握っているのなら、それに関しては真雪の領分かもしれない。桔梗や昴は特に強くそう主張した。──女の勘だとでもいうのだろうか。紫苑は不思議に思いながらも式神に真雪を尾行させ、結果的にはそれが功を奏したというわけだ。
「しかし、何故わかった?」
 しきりに首をひねる紫苑に、桔梗は笑った。
「ついこの前、似たような状況を見ませんでしたか? 妙な病に侵された……」
「妙な病……?」
 紫苑は考え、やがてはっと顔をあげる。
「藤原時雅か?!」
「あと、都に熱病が流行ったこともありましたよね。そのふたつを考え合わせると、どうやら白蛇族の姫御子は毒がお好きな様子」
「なるほどなあ……」
「絶対惚れてんのよ」
 とは昴の弁である。
「男の野望に女が尽くす。構図としてはありきたりよね」
「うちとは真逆だあ……」
 つぶやいた透流が昴に首を絞められているのを横目に見ながら、紫苑は朔に声を掛けた。
「白虎なら、彼女の毒やら妖術やらを解けるか?」
「解けるでしょうけれど……」
 朔の歯切れは悪い。
「ひとつ、解いても体力が回復するとは限りません。ふたつめは……」
「ふたつめは?」
 うながされ、朔はうつむいた。
「とら──白虎は、僕の言うことを何でも聞いてくれるわけじゃないから」
「…………」
 紫苑は少しだけ沈黙し、やがて微笑んだ。
「そうか」
 桜色の髪をくしゃくしゃとなでる。振り仰ぐ琥珀の瞳に、紫苑は黙ってうなずいた。
 ──確かにそうだ。神獣たちは何も彼らの味方をしているわけではない。彼らには彼らの思惑があるはずなのだ。思えば、紫苑は朱雀を式神として使役する契約を結んでいるし、青龍は桔梗の人格の中に融けている。玄武は昴の中から自動的にその力だけを見せ、己の言葉で語ったのは邑が滅びたときただ一度だけだ。白虎だけが明確な意思の元に朔を甦らせ、そして同行している。
 ──神獣は世界を監視している。かつてそう語ったのは、一体誰だっただろう……。
「では、行ってみるか」
 紫苑は軽い調子で言い、洞に敷き詰めた獣の皮の上に立ち上がった。
「昴と透流はここにいてくれ」
「何で?」
「何かあったら知らせる。事と次第によっては都の燐と連絡を取る必要があるかもしれない」
「え?」
 透流は小さく声をあげた。──紫苑は、ある程度の危険を覚悟しているらしい。まさか、帰って来れなくなることがあるとでも……? 何も言わない桔梗や朔の顔を見た後、透流は昴の横顔をうかがった。
「……連絡くらい、帰ってきてから自分で取ればいいのに」
 昴は、笑っていた。そこには不安の影などどこにもない。
「留守中、火は絶やさないようにするわ。外は寒いでしょうからね」
「頼む」
 紫苑はうなずき、桔梗らを促した。白虎はいつもどおり、猫の姿で朔の肩の上に載っている。
「じゃあ、行ってきます」
 手を振る桔梗に、昴はしっしっ、と追い払うような仕草を見せた。
「さっさと行って、さっさと帰って来なさいよ。人数が減ると寒いんだから」
「では透流に暖めてもらえ」
 真顔で言う紫苑に、昴は絶句した。
「なっ……」
「行ってきまーす」
 無邪気な朔の声を残し、彼らは冷えた空気の中へと出ていった。昴はその背中をぼうっと見送る。華奢な肩の線が細かく震えていることに気付いた透流は、そっと手を伸ばした。
「寒いですか? 昴さん……」
 昴は無言で首を横に振り、俯いたまま彼の胸に頭を預けた。
「昴さん……?」
「何よ、おおげさに……紫苑はもったいぶり過ぎだわ」
 昴はぶつぶつとつぶやく。
「あの三人が陰険蛇女とそのひも男に負けるはずないじゃない」
「蛇女……ひも男……」
「ほんと、おおげさなんだから」
 笑い飛ばそうとした、その声がひきつる。透流はきつくきつく昴を抱きしめた。
「い、痛いわよ」
「がまんしてください。俺寒いんです」
「……仕方ないわね」
 昴は案外素直に力を抜いた。透流はその黄金に輝く髪をそうっとなでる。
「すぐ、帰って来られますよ」
「…………」
「だから、眠って」
 大きな手が、彼女の目を塞ぐ。
「俺はここにいるから……」
「……あんたがどこかに行っても、私待っててなんてやらないんだからね」
 昴は彼の手の上に己の手を重ねた。
「私を待たせるなんて、赦さないんだから」
「はいはい。待たせるくらいなら、最初から連れて行きますよ」
 透流は彼女の額に唇を押し当てる。ひんやりとしていたそこが、じわりと熱を帯びた。

 ――その夜の空は雪すら降らせることはなく、白々しいほどに静まりかえっていた。

  二

 ――むくり、と鼠が起き出した。壬らふたりの視線を受けながら、ひょこりと後ろ足だけで器用に立ち上がる。この鼠は先日紫苑が送り込んだ式神で、役目を終えた後も彼らの元に留まっていたものだ。ふたりに良くなつき、壬に藁の寝床を作ってもらっている。
「どうした?」
 壬の問い掛けに答えるわけもなく、鼠はきょろきょろと辺りを見回していた。
「紫苑さんたちが動いたのかな?」
「かもな……」
 壬は鼠をひょいと掴み上げる。
「お前、紫苑のところまでいけるか?」
「兄さん?」
 癸の声に振り向くことなく、壬は鼠をじっと見つめた。物言わぬ獣の、円らな瞳──しばらく鼻先を蠢かせていたかと思うと、するりと壬の手から抜け出した。部屋の出口まで一目散に駆け、振り返ってこちらを見ている。壬は癸の肩を勢い良く叩いた。
「追うぞ!」
「う、うん」
 勝手に動いて、紫苑らの妨げにならないだろうか。ふと疑問には思ったものの、癸はすぐに思い直した。──もし邪魔になるのなら、紫苑に命を与えられたこの式神が、彼らを主の元に導くはずがない。
 夜闇の中を、鼠は迷うことなく駆けていく。白い毛並みは月光を受けてつやつやと輝いていた。
「夜雲の父親を見つけたのかな?」
「そうかもね。……紫苑さんはどう出るつもりなんだろう」
 彼らは勿論、自分たちが夜雲の手の者に見張られていることを知っている。今も一瞬、背後がざわついたが──しかし、彼らが本気で動けば、そんなものは何の抑止力にもならない。
 紫苑たちが側にいる。その事実が、彼らの自覚以上に大きな影響をもたらしていた。あやかしの陣営は彼らの味方のようでいて、その実味方ではない。敵ではない、というだけのことだった。同じあやかしだという事実、それだけではあまりに希薄な絆でしかない。紫苑たちは、違う。彼らは必ず壬らの味方でいてくれる──根拠などなくとも、信じられた。
「とにかく、全面的な争いになる前に何とかするつもりなんだろ。……夜雲はどうも、人間に対する私怨があるような気がするし」
「ひととあやかしの間にある感情なんて、全部私怨のような気もするけどね」
 癸の言葉を聞き、壬は苦笑した。
「まあ、そうかもな……」
 ひとはあやかしを憎み、あやかしはひとを恨む。その感情に、どこまでの根拠があるものなのか。かつては同じようにひとを目の敵にしていた壬にも、よくわからない。かつて彼が「ひと」として思い描いていたのは、顔のない漠然とした存在だった。そこに次第に知己の顔が入るようになると、壬の気持ちは変わった。確かに、壬は今でも水龍を滅ぼした者たちを許してはいない。だがその憎悪は、紫苑であるとか燐であるとか、個人に向けるべきものではないような気がしていた。
 病に伏せっているという夜雲の父。紫苑はそれをどう使うつもりなのか──今はわからなくともきっとそれが打開策になり得るのだと、壬は信じた。癸もまた、同じだった。

  三

 ふ、と体が軽くなったような感覚。真雪は闇の中、体を起こした。
「どうした?」
 横から、かすれた夜雲の声がする。
「ごめんなさい、起こしてしまった?」
 手を伸ばして彼の胸板に触れた。夜雲の手が彼女の手首を掴み、引き寄せる。真雪はなされるがままに彼の胸元に頬を寄せながらも、自分を襲った違和感の正体に想いを巡らせた。
「何かあったのか?」
 先ほどよりもはっきりとした口調で尋ねられ、真雪は小さく頷いた。
「ええ……、何となく胸騒ぎがして」
「胸騒ぎ?」
 夜雲は彼女を胸に抱いたまま器用に体を起こす。真雪はそっと彼から離れた。
「少し、見回ってくるわ」
「俺も行こう」
「ひとりでも大丈夫よ」
「いや」
「心配してくれるの?」
 冗談めかして言う真雪だが、夜雲の表情を見て笑みを消した。――夜雲は真っ直ぐに前を睨み据え、唇を引き結んでいる。
「言ったろう。最近、あの頃の夢を良く見ると」
「……ええ」
「俺もずっと、胸騒ぎがしているんだ」
 肩から着物を掛けたままの状態で、夜雲は視線を床に落とした。
「夜雲、」
 声を掛けようとした真雪が、息を飲む。夜雲もまた、はっと顔をあげた。何か、大きな存在がこの近くにいる。妖気、瘴気、そういったものではない。もっと根源的で圧倒的な、存在感とでもいうべきもの。きっと、それに自分は立ち向かわなければならないのだろう――夜雲は漠然と覚悟を決めていた。