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宿業の巻 第八章

  一

 闇に満たされた部屋に滑り込んだ紫苑は、目の前に漂っていた蝶を指先で弾いた。炎を宿す蝶はひらひらと天井へと浮かび上がり、部屋をぼんやりと照らし出す。空間そのものは狭く、殺風景な場所であった。床に寝かせられた病人のぜいぜいという呼吸音だけが響いている。
 紫苑は意識のない桔梗を腕に抱いたまま病人に近寄ろうとしたが、
「紫苑さん!」
 朔の叫び声にはっと足を止めた。途端、彼の目の前を何か白っぽいものが通り過ぎる。目を遣ると、床には目を爛々と光らせた蛇が体をくねらせていた。闇の中に潜む気配は、一匹や二匹のものではない。
「白虎」
 紫苑は落ち着き払って口を開いた。
「桔梗を見ていてくれないか」
 白虎は白蛇族にとっての守護神である。たとえそれが白蛇族からの一方的な畏怖の念であったとしても、戦いにくいのではないか。何よりも、過度に神獣に頼るのは躊躇われた。朱雀を式神として使役している身で、矛盾しているかもしれないが……。
 ――わかった。
 朔の肩からひょいと飛び降りた白猫は、次の瞬間には堂々たる体躯の虎に変化していた。紫苑はその柔らかな毛並みの上に、桔梗をそっと横たえる。
「朔、下がっていろ」
「はい」
 向き直れば、牙を剥いた蛇の群れ。紫苑はふわりと袖を翻し印を結んだ。
「少し眠っていてもらおうか」
 柔らかな光が部屋を満たし、何か複数のものが床に落ちるような音がした。朔にはわからなかったが、紫苑が術をかけたのだろう。
「もういいぞ」
 紫苑の大きな掌が、朔の肩をたたく。朔はうなずき、一歩先を歩く彼の背中を追った。
 病人の傍らに寄り、紫苑はしゃがみこんだ。髪は真っ白になっているが肌は浅黒く、どこか夜雲に似た面影がある。紫苑は男の呼吸や脈を見、半ば閉じた目を指先でそっと開かせる。彼はただ為されるがままで、何の反応もなかった。夜雲の父親に間違いはなさそうだが、それにしても何故実の父親を地下に、しかもこんな状態で幽閉しているのか……。
「……ひどい状態だな」
 紫苑はつぶやき、立ち上がった。少しでも話ができればいいと思ったのだが、この状態ではそれもままならないかもしれない。とりあえず自分の知り得る限りの術を使ってみるか、と思ったその時。
「何をしている?」
 冷たい声が、響いた。

  二

 紫苑はことさらにゆっくりと振り返った。何かを狙っての行動ではなかったのだが、声の主に驚きを与えるくらいの効果はあったらしい。
「御門紫苑?! 何故、お前がここに……」
 一歩、進み出てくる。蝶の放つほのかな灯りに照らし出されたのは、やはり夜雲だった。そしてその背後に付き従うようにして現れた、ひとりの女――。
「あ」
 朔のあげた声に気付き、女はちらりと彼に視線をやった。
「ちょっと見ない間に、夜盗の真似事でも始めたのですか?」
 おそらくこれが真雪だろう、と紫苑は見当をつける。白で塗り潰されたようなその姿は、闇の中でもどこか幻想的な光を放っていた。
 夜雲に以前相対した時のような余裕は微塵もなく、彼は憤怒の形相で紫苑を睨み付けている。
「貴様、こそこそと隠れて何のつもりだ?」
「無断侵入について言い訳をするつもりはないが――」
 紫苑は軽く肩をすくめた。
「お前の父親の病を、治してやろうかと思ってな」
「余計なお世話だ」
「まあ、私もそう思う」
 紫苑は横目で白虎の背の桔梗を探した。――いない。顔に出さぬようにしながら、紫苑は視線を左右に揺らす。やはり、いない。桔梗はどこへ行ったのか……。
「都にいるお前は何だ。式神か」
 夜雲はじりじりと詰め寄ってくる。紫苑はわずかにあとずさった。数の上では三対二と有利なはずだが、紫苑は妖力でふたりに劣るし、戦闘力としてずば抜けている桔梗が今は見当たらない。朔は白虎の力があてにならない以上、どちらかといえば紫苑らが守ってやらねばならない立場だろう。まずいな、と紫苑は思った。
 彼の内心の焦りを悟ったのか、夜雲が笑みを浮かべる。
「せっかくそちらから来てくれたのだ。いろいろと聞かせてもらぞ」
 とにかく、桔梗はどこにいるのだろうか。紫苑が不思議に思った時、夜雲と真雪が揃って後ろを向いた。
「よお、真夜中に何してんだ? 宴会か?」
「兄さん、地下で宴会なんてするわけないだろ」
「お前たち……!!」
 底抜けに明るい声と、地を這うような夜雲の唸り。紫苑は呆気に取られて叫ぶ。
「壬?! それに、癸も……?!」
「久しぶりだな、紫苑」
 夜雲らの頭上をくるりと一回転して飛び越え、壬らは彼らと紫苑とを結ぶちょうど中間の位置に降り立った。
「何故お前らがここにいる! やはり通じていたのか?」
「通じていたわけがないのは、お前が良く知ってるんじゃないのか? 夜雲。ずっと俺たちを監視させていたんだから」
 壬は容赦なく切り捨て、夜雲らを睨みつける。
「何がどうなってるのかはわからねえが……旧友の窮地を見捨てるわけにはいかねえな」
「相変わらずの裏切りか」
「誰もひとに着くなんて言ってねえだろ? そもそもここにいるのは半妖と、ええと良くわからんがひとじゃない坊主と、あとは俺たちの一族の御子だ。ひとなんてどこにもいない」
「屁理屈がお上手ですこと」
「まあな」
 真雪の嫌味にも、壬は何ら痛痒を感じないらしい。
「お前では俺の相手にならない。以前、そう悟ったはずではなかったか?」
 夜雲は一歩、踏み出した。
「多少人数が増えたところで、恐れるには足りぬ」
「さっき言わなかったか? 俺たちの御子がここにいるってな」
 その桔梗がどこにいるのかわからないのに――紫苑は焦って壬に目配せしようとするが、逆に彼の視線の向いている方向が気になり、ふと自分の背後を振り向いた。
「紫苑」
 病人の傍ら、一際深くわだかまっている闇の中から、聞き慣れた声が響く。
「彼らが邪魔をするようなら私たちが止めます――だから、彼の意識をどうにか吸い上げることはできませんか」
 桔梗だ。病人の枯れ木のような手をしっかりと握り、強い視線で紫苑を見つめる。彼は躊躇いがちにうなずいた。
「やれないことはないだろうが……」
「お願いします」
 桔梗は病人の手をそっと寝具の上に置き、立ち上がる。
「彼の――夜月さんの語る真実を、聞いてあげて下さい。この方はもう……長くはないから」
 紫苑は再び、今度はしっかりとうなずいた。
「わかった」

  三
  
 進み出た桔梗に、夜雲は警戒を顕わにした。
「俺の父に何をした?」
「それはこちらが聞きたいことです」
 桔梗は毅然と頭をもたげる。
「貴方は自分の父親に何をしていたのですか?」
「…………」
 思わず言葉に詰まった夜雲に代わり、真雪が口を開く。
「貴方にどうこう言われる筋合いのことではないと思いますけれど?」
 桔梗は真雪を見つめ、やや目を細めた。
「貴方が――白蛇族の御子、ですか」
「……貴方は、水龍の御子」
 言った真雪の目に、侮蔑の色が灯る。
「ひとに滅ぼされた一族の忘れ形見でありながらひとの世に繋がれることを良しとし、色に溺れて己の役目を放棄した――」
「随分な言い草だなあ、おい」
 壬が思わず抗議の声をあげようとする、それを桔梗は手をあげることで止めた。
「私は一度も繋がれたことなどありません。いつも、自分の居場所は自分で決めてきました」
「それが、都にあっただと? 馬鹿馬鹿しい」
 夜雲は鼻で哂う。
「我らと同じ四天王の長であるからには、少しは見所のある女かと思ったが――いやはや、人妖風情にとんだ骨抜きにされてしまったものだ」
「誰かを愛するのに、ひともあやかしもありません」
 桔梗の言葉は、あくまで静かだった。
「そのことを、かつての貴方は良くご存知のはず。……そうでしょう? 夜雲さん」
「え?」
 壬が声をあげ、癸が息を呑んだ。彼らの視線の先で、夜雲の顔色が音を立てんばかりの勢いで変わる。
「な……なにを言っている……?」
「貴方のお父様が、私に夢を見せてくれました」
 ――桔梗が悲しげな目をしていることに、癸は気付いた。
「貴方の乳母の――しずさんのこと。真実を、貴方に告げるために」
「何を勝手なことを……!! 真実、だと?!」
「夜雲、落ち着いて」
 真雪の声が耳に入っているのかどうか、夜雲は激昂して叫ぶ。
「母上は人間に殺された! 命を助けてやったのに、恩を仇で返したんだ!!」
「夜雲!」
「それ以上の真実がどこにある?! 俺がしずを愛していたかどうかなど、問題ではない。俺は裏切られた。人間は裏切るんだ。――俺は赦せない」
 しずも、人間も、そんなものを彼の側に置いた父親も、赦せない。彼に裏切られる悲しみを教えた、すべての存在が赦せなかった。
「だから、人間を根絶やしにしようと?」
「終わらせるんだ。こんな歴史は」
 夜雲は肩で息をついていた。
「人間どもが抵抗するというのなら、全力ですればいい。必ず叩き潰してみせる」
「あやかし同士だって、裏切ることもあるだろうが」
 反論する壬に、夜雲は冷ややかな一瞥を投げた。
「しずの見えなかった目を治したのは、馬鹿な俺だ。あれは見えるようになって初めて、俺たちがあやかしだってことに気付いたらしい。そして、あれは……母上を殺した。――どんなに良くしてやっても、根源的にひとはあやかしを憎んでいる」
「…………」
「それなら、こちらもひとを憎まなければならない。憎しみあわなければ憎まれた方が悲しいだけだから、とことん憎しみ返して――そうしていれば、どうせいつかこんな日が来る。どちらかが生き残るための戦いが、必要になるんだ」
「でも」
 桔梗が夜雲を遮った。
「どうして、そのしずさんは貴方を殺さなかったのでしょう。おとなである貴方のお母様よりも、幼子の方が与しやすいに決まっているのに」
「そんなこと、俺が知るか」
 吐き捨てた夜雲が、不意に硬直した。視線は桔梗を飛び越え、その手は細かく震えている。
「……父、上?」
「そんな! 意識なんてあるはずないのに……!!」
 真雪が叫ぶ。壬や癸もはっと振り返った。最後に、桔梗がゆっくりと首を巡らせる。――彼女にはわかっていた。紫苑は、彼女の頼みを聞き届けてくれたのだ。
 ――彼らの視線の先で、壁にもたれかかる人影。まるで木の枝のように細い手足は無造作に床の上へと投げ出され、首はがくりと前に垂れ下がっている。夜月だ。紫苑が彼の傍らに座り、その額に指先をあてて何か呪を唱えていた。
『や……、ぐ……も』
 くぐもり、しわがれた声。夜雲は声もなく唇をわななかせた。
『あのとき……、私は、お前に嘘をついた……』
「うそ……?」
「夜雲、あれが本当にお父様の声かどうか」
「黙れ!」
 口を挟みかけた真雪を、夜雲は荒々しく遮った。
「嘘とは何だ?!」
『…………』
 沈黙を挟み、夜月は再び声を絞り出す。
『しずは……行き倒れていたのではない。あの女のいた集落を、我らが襲ったのだ……。あの年は天災が、多かった……食糧を手に入れるため……あの女の夫と赤子は、我らが殺したのだ……』
「え……?」
『たまたま、あれは生き残っていて……乳の張っている様子を見た妻が、殺すには忍びないと言った。ちょうど、お前が生まれて間もない頃だったから……』
「嘘だ……」
『あれの目が見えなくなったのも……あの時、一族の誰かにひどく頭を殴られたせいだろう……ちょうどいいと思った……我らがあやかしであることを、隠せばいいと……』
「嘘だ、そんなこと」
「夜雲! そんな話、信じる必要ないわ!!」
 夜雲と真雪が口々に言った。――しかし、
『これが真実なのだ。我が子よ』
 夜月はきっぱりと言い切った。
『お前に治してもらった目から、涙を溢れさせ……あれは妻に刃を向けた。夜雲、お前を殺したかったが、できなかったと……情がうつって、できなかったのだと……それでも、我が子の仇を討ちたい、と……』
 ぽたり、ぽたりと床に染みが広がる。それは夜雲の目から落ちる雫であった。
『妻は……詫びた。詫びて、死ぬことを……選んだ……』
「…………」
『はじめに罪を犯したのは……我らだ』
 そう言うと、夜月の喉はひゅうひゅうと嫌な音を立てた。
『だから……お前を裏切ったのは……しずではない……。むしろ……我らだった……』
「……父上」
『夜雲……。すまない……すまない……』
 ひゅう、という息の音を最後に、声が途切れた。紫苑の術もまた、止む。――夜月の顔に手を触れた紫苑は、静かに彼の目を閉じさせた。
「夜雲……?」
 真雪が心配そうに彼の顔を覗き込んだ。夜雲の体は細かく震えている。
「っふ……ふ……」
 桔梗が眉を寄せた。夜雲は今や、肩を揺らしていた。
「ふふ……ははははははははははははは!!」
 部屋に響き渡る大笑。狂ったか、と壬がつぶやいた。
 大きくのけぞっていた夜雲は、やがて視線を戻し桔梗を睨みつけた。
「何を今更。それで俺が改心するとでも思ったか?」
「でも! 貴方の乳母は、貴方を殺せなかった! あやかしであっても、愛した貴方を殺せなかった!!」
 桔梗の言葉を、夜雲は腕を大きく奮って散らした。
「それがどうした。結局、両者が共存することは悲劇以外の何ものでもないではないか」
「……そんな」
 深緑の瞳が、涙を激情に滾らせている。
「正義など、最初からどちらにもない。ただ、」
 夜雲は拳を天につき上げた。
「どちらがこの地上に生き残るに値するか……、神に決めてもらえばいい!!」
「…………」
 絶句した桔梗の肩に、紫苑はそっと手を置く。
 夜雲の言うことも、必ずしも理解できないわけではない。紫苑の両親にも、燐とさくらにも、悲しみはあった。だが、ひととあやかしから生まれるものがそれだけだとは思いたくない。それを認めることは、紫苑や朔の存在を否定するのも同じことだからだ。すれ違い、憎しみあい、それでも生まれる愛はある。絆がある。――そして、しあわせもまたどこかにあるはずだと思いたい。
「紫苑……どうすんだよ……」
「…………」
 だが今の紫苑には、壬に答える言葉が見つからなかった。

  四

 立春。その日、都は異様な高揚感に包まれていた。東への派兵が始まったのである。
 ずらりと並んだ軍勢は、都大路を進んでいく。徒歩(かち)で進む者たちに混ざって、きらびやかに彩られた公家の子弟の馬もいく。沿道に佇む群集の、ある者は歓声をあげ、ある者は激励を叫び、ある者は皆の無事を祈った。
 一行が橘の屋敷の前を通った時、一頭の馬がやや進む速度を落とした。
「……加乃さん。お元気で」
 つぶやく青年――藤原蓮であった。