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宿業の巻 第五章

  一

 蓮が東に行く──それを聞いたときの燐の衝撃は強かった。邑を失い、母を失い、兄と慕う癸に去られた加乃がようやく手にしたしあわせが揺らぎ始めている──そう思えてならない。当事者である加乃が表向き気丈に振る舞っているのがけなげでもあり、哀れでもあった。
 待つ身の辛さ、遺された者の悲しみを、燐はもう身にしみて知っている。
 ある日の夕暮れ、燐は蓮に遣いを出した。加乃の元に行く前に、立ち寄って欲しいと告げたのである。蓮は半刻も立たず姿を現した。少し見ぬ間にまた背が伸びたようで、燐の知る幼い頃の蓮とはかなり違っている。亡き兄、雅哉の面影を強く宿していた。
 燐は向かいに座した蓮に茶を勧め、自らも器を手に取った。
「改めてふたりで話をするのは、初めてかもしれないね」
「……はい」
 若い、真っ直ぐな眼差し。燐はまぶしげに目を細め、自分の手元に視線を落とした。
「君が東に行くと聞いた……あくまで文官として、だと思うけれど」
「はい」
 蓮の表情が曇る。
「僕も宮仕えの身だから、君の立場はわかるつもりだ。君自身で志願したわけでもないだろうしね。……だけど、僕は橘加乃の父親だから」
「申し訳ありません」
 頭を下げる蓮に、燐は首を横に振った。
「君との結婚に不満があるとか、後悔しているとかいうわけじゃないよ。加乃ちゃんは君と一緒になれて、とてもしあわせそうだから……」
「…………」
「だからこそ、今回のことがとても残念なんだ」
「……はい」
 蓮は目を伏せた。彼とて、自ら東行きを希望したわけではないだろう。毎夜通うほどに愛している新妻と、遠く離れなければならないのだ。きっと耐え難く感じているに違いない。
 燐は少し口調を緩めた。
「留守中のことは、心配しなくていい。加乃ちゃんのことは、僕が親としてちゃんと面倒を見るし、君のお兄さまも気に掛けては下さるだろうから」
「僕からも、兄にはよろしく頼むつもりでおります」
 蓮の兄、伴雅。長子であった雅哉が没した後は、彼が跡取りとして藤原家を、宮中を仕切っている。伴雅は過去のいきさつから紫苑や燐をある程度理解し、またその立場を慮んばかってくれていた。他の公達とは違う。
 燐はじっと蓮を見つめた。蓮もまた、彼を真っ直ぐに見返して来る。
「必ず、帰って来なさい」
 燐は静かに、しかし強く、一言一言を噛みしめるように口にした。
「何を犠牲にしても、誰を失っても、必ず──君だけは、無事に帰って来なさい。ただそれだけを考えていればいい」
 燐の脳裏に、遠く離れた友らの顔が浮かんだ。望む望まないに関わらず、大きな運命に選ばれ、それを背負わなければならない者たち。彼らは自分のために、自分の愛するもののために、愛するものの生きる未来のために、戦っている。彼らは運命とともに力を与えられた。だから、彼らは戦える。しかし──。
「君も加乃ちゃんも、僕はただふつうに、しあわせになって欲しい」
 燐は拳を強く握りしめる。
「ただ待ち続けるのは、もう僕で十分なんだよ……」
「…………」
 蓮にどれほど伝わったかはわからないが、燐にはこれ以上の言葉が見当たらなかった。蓮の心に届いていることを願い、祈る。
 黙って向かい合うふたりを、禍々しいほどに赤い夕陽が包み込んでいた。

  二

 深夜。からりと突然帳が引き開けられ、真雪は驚いて振り返った。
「……なあんだ」
 背後に立つ者の顔を見、真雪はふっと力を抜く。紅唇が緩やかな弧を描いて微笑んだ。
「夜雲じゃない。驚かせないでよ」
「……親父に、かわりはないか」
 夜雲は闇に半分体を埋めていて、その表情は良く分からなかった。ただ、彼が不機嫌なのは声音でわかる。真雪は眉をひそめた。
「どうかしたの?」
「あの水龍の小僧が、親父のことに探りを入れてきた」
 苛立たしげに足を踏み鳴らす。
「何故だ。あのことはもう、誰も知らないはずなのに……」
「お父さまなら、おかわりなくてよ」
 真雪はすっと立ち上がり、両手を差し伸べた。夜雲の頬に触れると、ひどく冷えきっている。真雪はそのまま彼を抱き寄せた。
「大丈夫、何も心配ないわ。お父さまはただ眠り続けているし、もう目覚めることはない。たとえ目覚めたって、何もできはしない。貴方の邪魔などできない」
「…………」
「夜雲?」
 黙り込んでいる夜雲の顔を覗き込み、真雪は尋ねた。暗い部屋でもはっきりとわかるほど、夜雲は青ざめている。
「夢を見るんだ……また、あの悪い夢を」
「……夜雲、」
「その度に思い出す。俺が、」
「やめて!」
 真雪の制止を振り切り、夜雲は押し殺した声で叫んだ。
「俺が、母上を殺したんだってことを!!」
「違う、違うわ」
 真雪は夜雲を強く抱いた。
「貴方じゃない……あれは貴方のせいじゃないわ。人間が悪いのよ」
「……真雪」
「貴方は悪くない。愚かだったのは貴方のお父さま。罪深いのは、人間よ」
「……俺は、同じ過ちを繰り返しはしない」
 夜雲は真雪の白くやわらかな胸元に抱きしめられながら、小さくつぶやいた。
「憎しみを抱いた敗者を見逃すのは、新たな悲劇を引き起こすだけだ……」
「ええ、そうね」
 真雪は彼の髪をなでながら、優しい声で同意する。
「だから、俺は必ず人間を滅ぼす。そうすれば、世は平和になる……」
「ええ、そのとおりだわ」
 真雪は彼を寝具の上へと導いた。夜雲はなされるがまま、仰向けになった彼女の上に身を横たえる。真雪は甘く囁いた。
「悪夢なんて、私が追い払ってあげる」
「真雪……」
「側にいるわ。ずっとずっと、側にいるわ……」
 ──貴方が望むなら、何でもしてあげる。そしていつか、貴方が心から笑う顔が見てみたい……。
 真雪は夜雲の大きな手に頬を寄せ、静かに目を閉じた。

 ……半刻ほどの時間が経ち、夜雲はやや落ち着いた様子で体を起こした。まだ横たわっている真雪を見下ろす。
「なあ、真雪。お前の親は、どうしているんだ?」
 今更そんな問いを発する夜雲に苦笑しながら、真雪は寝具を胸元まで引き上げた。
「とっくに死んでいるわよ」
「何故?」
「分家筋のものに殺されたの」
「分家……?」
「跡目争いって言うのかしら? 私の先代で、もめたみたい」
 真雪は言葉少なに言うと、誤魔化すように夜雲に口づけた。
「…………」
 夜雲は目を伏せる。──ひとを滅ぼせば、平和になると思った。戦はこれで最後になると。だが、あやかし同士もまた時に争い、殺し合う。それは、どうにもならないのだろうか……。
「夜雲。考えすぎちゃ駄目」
 真雪の艶やかな声が、夜雲の胸に沁みていく。
「貴方は貴方の思う道を進んで。それが私の願いなのだから……」
 白く細い指が、夜雲の腕に、髪に、首に、絡みつく。そのどこか蛇にも似た動きに、幽閉され、毒蛇に苛まれている父を思った。──父は何故、あの女を置いていたのだろう。殺さなかったのだろう。そして何故、母はそれを許したのだろう……と。

  三

 ──夢を見ていた。どこか霧に包まれたようにおぼろな視界。肉体をまとっている心地がどこにもなかった。この感覚を、既に彼女は知っている。これは誰かの夢。誰かの記憶。誰かの叫び。誰かの痛み。
 その部屋にいるのは、ひとりの人間の女だった。頭の上半分を布で巻いて、髪もそこに収めている。目はうっすらと閉じられ、視線はどことも定まらない。見えていないのかもしれない、と彼女は思った。
 女は腕に赤子を抱いていて、その子は無心に乳を吸っている。それを見下ろすように頭を俯けながらも、女は何も見ていないようだった。──見ていれば、どうしただろう。腕の中にいる赤子の目は、深緑色だった。頬には文様があり、耳もやや尖っている──あやかしだ。その赤子に、彼女は見覚えがあるような気がした。
 赤子は泣くこともなく、大人しくうとうととしている。その静謐がつと、破られた。
(せがれ)は大人しくしているか」
 部屋に入ってきた男を見て、彼女は息を飲んだ。──夜雲に良く似ている。だが、現在の彼よりはやや老けて見えた。やはり、女の周りにいる彼らはあやかし──黒鷹、だ。
「ええ、お元気ですわ」
 女は顔をあげて微笑んだ。その視線はやはり、ずれている。見えていない、と彼女は確信した。だからこそ、女はあやかしを恐れる様子がないのだろう。
「そうか……」
 男は腕を組んだまま、女を奇妙な表情で見つめている。哀れんでいるような、嘲っているような、悲しんでいるような、愛しんでいるような──複雑な色だった。
 不意に、赤子がむずかった。女は慌ててあやし始める。
「やあさま、どうなさいました? やあさま……」
「また来る」
 男はくるりと背を向けた。
「……伜を頼んだぞ」
「お待ち下さいませ!」
 女が声をあげ、男は足を止める。
「何故わたくしを助けて下さったのです。村と一緒に、わたくしの子と、夫と一緒に、死ぬつもりでしたのに」
 男は振り向かぬまま答えを返した。
「……たまたま通りすがったのでな」
 男は少し言い澱んでから、再び口を開いた。
「私の妻が……そなたを救うことを望んだ。しかし、子は間に合わなかった──」
「……そう、ですか……」
 女の俯いた頬から、涙が滴る。男は足早に立ち去った。
「んあ、ああっ、……」
 遺された赤子が、火の点いたように泣き始めた。女は赤子を揺さぶり、子守唄を口ずさむ。
 その頃には、この赤子が誰なのか──桔梗にも何となくわかっていた。これは、夜雲だ。夜雲は、人間の乳母に育てられたのだ……。