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宿業の巻 第二章

  一

 壬の数少ない日課は、日の出直前の散策だった。雪深い山道を軽い足取りで上っていく。夜雲が彼とその弟を監視していることなど、彼はとうに承知していたが、この散策に限っては尾行がついていない。毎日朝日をただぼうっと見ているだけだ──彼らはそう思ったのだろうし、実際そのとおりであった。しかし、それも昨日までのことである。
「こんなこともあろうかと、自由になれる時間を作っておいて良かったぜ」
 壬は軽く息を弾ませながら、小さく笑った。吐く息は白く、辺りはまだ薄暗い。
「わざわざ済まないな」
 声は暗がりから聞こえたが、壬はあえて近付こうとはしなかった。
「いや、呼んでくれて嬉しい。久しぶりだな──紫苑」
 山の縁が淡く輝き始める。壬はその日の出を少し振り返って、やがて向き直った。
「ああ、元気そうで何よりだ」
 彼の目の前に佇むのは、懐かしい紫電の瞳を持つ男だった。旅の疲れのせいか、やや痩せたようにも見える。
 壬は苦笑を浮かべた。
「いきなり鼠が喋り出したのには驚いたがな……」
 一昨夜、壬らの陣に一匹の鼠が迷い込んだ。白い毛並みのそれを癸が逃がそうと手につかんだところ、
「私だ、紫苑だ」
 と言うから驚いた。声までもが聞き馴染んだそれである。
 動物に術を掛け、一時的に式神として使役している──つまり、鼠は紫苑との間における音声の中継役であるらしい。
「実は、桔梗や昴、透流、朔と近くまで来ている」
「なっ……」
 思わず絶句するふたりに構わず、鼠は淡々と言葉をつむいだ。
「雪が解ければ、ひとは兵を出すだろう。本格的な戦になる前に何とか食い止めたい」
「……止められるのか?」
「わからん。だが、手を尽くす価値はあると思う」
 きっぱりと言い切る彼の言葉に、壬は癸の手の中の鼠へにじり寄った。
「わざわざ俺たちのところにこんなのを寄越したのは、何か意味があるんだろう?」
 紫苑はきっと、夜雲が彼らを警戒するであろうことなど見通していたのだろう。だからこそ、慎重な方法で連絡を取ったのだ。
「ああ。お前達の力を借りたい」
 鼠は言い、そしてどこか落ち合える場所と時間はないかと尋ねた。そこで壬が指定したのが、毎朝訪れる丘の上だったのである。
「お前、ひとりで来たのか?」
 尋ねる壬に、紫苑は怪訝そうな顔をした。
「大勢でぞろぞろ歩けば目立つだろう。他の者は残してきた」
「そうか……」
 壬はつぶやく。──この男の胸には、壬らへの疑いなど存在しないのだろう。夜雲に寝返っていて、騙すつもりかもしれないなどとは、きっと考えもしていないにちがいない。
 不意に、壬は今は亡き若いあやかしを思い出した。遥だ。彼を、紫苑に会わせたかった……。
「あまり時間が経っても怪しまれるだろう」
 紫苑の声に、壬ははっとした。
「力を借りたいというのは他でもない、夜雲の父親──夜月の居場所についてなんだ」
「父親……?」
 壬は首を傾げた。確かに、夜雲はまだ黒鷹族を正式には継いでいない。だが、誰がどう見ても実質的な(おさ)は彼だ。壬がここに来て以来、夜月が姿を見せたことなどない。
「鎮西に置いてきたんじゃねえか? ……いや、でも黒鷹は実質的にこっちに移住したようなもんだしな」
 黒鷹だけではない。散り散りに暮らしていたあやかしが皆、この坂東の地に集っている。夜雲がわざわざ父親に鎮西を守らせる意味があるとは、壬にも思えなかった。
「あまり無理をしなくていいが、できる範囲で探ってみてくれないか」
「……わかった」
 壬はうなずく。
「何か入り用なものはないか。食糧とか、大丈夫か?」
「ああ、何とかなっている。こちらのことは案ずるな」
 紫苑は微笑み、壬の肩をとん、とたたいた。
「次は、皆で会えるといいな」
「…………」
 その柔らかな声音に、胸がつまる。
「桔梗も心配していたぞ」
「……よろしく言っておいてくれ。俺たちは大丈夫だからって」
「わかった」
 紫苑は少し言葉を切ってから、やや躊躇いがちに再び口を開いた。
「何かあったら、どうにかして教えてくれ。何としてでも助けに行くから」
「…………」
「そうだな……例の鼠を持っていてくれてもいい。もう喋りはしないだろうが、式神としては使えるはずだ」
「…………」
「くれぐれも、無理はするな」
 真っ直ぐな視線。厳しくもあたたかな、紫の瞳。
「ばっ……かやろう」
 壬は震える声を無理矢理に押さえ込む。
「お前は、自分の心配してりゃいいんだよっ……!」
「壬」
「もう、行けよ。長居するとお互い危ない」
「……わかった」
 壬はじっと地面を見つめている。紫苑の足音が遠ざかり、気配が薄れていく……。
「くそっ」
 壬は地面に手をついた。──自分はあのとき、都を離れた。それは本当に正しい選択だったのだろうか。あやかしだとかひとだとか、そんなことには拘らず、紫苑らとともに行動した方が良かったのではないか。現に、紫苑はあやかしにもひとにも加勢することを拒み、己の信ずる道を歩んでいる。自分もまた、本当はそれに従いたかったのではないか。──少なくとも、そうしてさえいれば遥は死なずに済んだ。
「くそ……」
 壬は大地に涙を溢す。その熱い雫は厚く降り積もった雪を溶かしながら、深く深く染み透っていった。

  二

 炎がはぜ、辺りがぱっと明るくなった。顔を照らし出された昴は、まぶしそうに眉をひそめる。
 崖にぽっかりと開いた洞の中。薪を集め、くべているのは透流だった。雪の下から小さく柔らかな野草の芽を見つけてきたのも彼、火で炙られている魚を川で採ってきたのも、やはり彼である。
 紫苑は壬に会いに行くと言って早朝に出て行った。桔梗と朔はあやかしの陣を探りに出掛けている。遺された彼らは昼食を用意するという役目を与えられたのだが、昴は結局何もしていない。
「たくましいわねえ」
 ため息まじりにつぶやいた昴に、透流は微笑んだ。
「まあ、こうやって生きてきましたからね」
「邑じゃ、食事はなかったの?」
 驚く昴に、透流は首を横に振った。
「そういうわけじゃないけど、凶作の年なんかはやっぱり足りないこともあって……」
「……そう」
 昴は目を伏せた。凶作。言葉は知っているし、巫女であった頃は何をおいても防がなければならないものでもあった。だが、彼女自身には飢えた記憶などない。いつでも十分過ぎるほどの食事が供されていた。
 父母を奪った邑を呪い、自由のない身の上を嘆いていたかつての自分。本当に邑は彼女にとって疎ましいだけの存在だったのだろうか。ある意味では、邑にとって異物であるはずの自分を守ってくれていたのではないか──。
「昴さん」
 透流の声が、耳の傍から聞こえた。彼のがっちりとした腕が、彼女の細い肩を包む。
「何よ」
 気丈を装わずにはいられない、天の邪鬼な自分が恨めしい。透流の温度にほっと安堵しながらも、昴は背中を預けようとはしなかった。
「俺は、自分の過去に感謝してます」
 透流は昴を抱きしめ、つぶやくように言う。
「俺は紫苑さんたちみたいに強くない。特別な力は、何にもない。だけど、昔の経験のおかげで俺も役に立つことができる」
「…………」
「昴さんの、役に立てる」
 透流は彼女の体を強く引き寄せた。
「だから、俺は嬉しいです」
 そうでなければ、こうして昴の隣にいることなどできなかったかもしれない。本当に何もできず、もっと歯がゆい思いをしたかもしれないのだ。
「馬鹿ねえ」
 昴はふっと力を抜いた。透流の肩に頭をもたせかける。
「透流は、強いわよ。無敵よ」
「え?」
「私にとっては、だけどね──」
 どんなことがあっても、信じられる。頼れる。愛せる。
「透流は、特別だもの」
 昴は少し振り向いて、笑みを見せた。いつものように強気で、少しばかり照れていて、そして生き生きとした──美しい。
「昴さん……」
 ふたりの顔の距離が近付き、やがて無になる。外の寒さなど、今のふたりには関係のないことだった。

  三

 雪かと見紛うほどに白い、巨大な獣。朔と桔梗はその背中の上に跨がり、豊かな毛並みに埋もれていた。
 あやかしたちの陣は、三方を山に囲まれており、一方は大きな湖に面している。本拠であろうと思われる城は、湖のほとりの丘の上に佇んでいた。
「ここで迎え撃つつもりなんでしょうか」
 風に冷えて赤い頬をした朔が、厳しい表情でそれを見下ろす。
「さあ……、でも陣営を置くにはいい場所だて思います」
 桔梗は、その水色の目を細めた。──こんな狭い場所でも、あやかしは十分暮らしていける。坂東の地は、あやかしにとって広すぎるくらいのものだ。現に、彼らは坂東各地の見張りに見咎められることなく、本拠まで近付くことができたのだから。もちろん、ひとの大軍が押し寄せてくれば、必ず気付くだろうけれど……。
「ここまでで満足すればいいのに」
 ぽつりとつぶやく桔梗に、朔は苦笑した。
「そうですよね」
「でも、既に血は流されてしまった──いえ、過去に遡れば、数えきれないほどたくさんの血が流されてきた」
 銀の髪が、粉雪とともに大気を舞う。
「だから、退けない。そういうことなのでしょうか」
「……でも、それじゃ流す血がなくなるまで争いは続きますよね」
 朔は悲しげに目を伏せる。
「僕は、もう母や僕のような命が失われて欲しくはありません。父のような悲しみも、嫌です」
「朔くん……」
「ねえ、桔梗さん」
 琥珀色の瞳が、まるで穏やかな炎のように揺らめいた。
「僕は、そのために甦ってきたんだと思う。この戦いを終わらせるために。──そのためなら、もう一度死ぬ覚悟もできています」
 桔梗は息を飲む。
「そんな……!」
「僕はやっぱり、一度死んでいるんですよ。それをなかったことにして、生きるわけにはいかないんです」
 幼い横顔は、強い決意を宿して燃えていた。
「だからこそ──僕はもう、誰にも犠牲になって欲しくない。僕だけで十分です」
「朔……くん」
「桔梗さん」
 振り向いた朔が、困ったように笑って桔梗の濡れた頬を拭った。
「桔梗さんを泣かせたら、紫苑さんに怒られてしまいますね。ごめんなさい」
「……ちが……っ」
 桔梗は朔の小さな体を力いっぱい抱きしめた。
「私は、朔くんが犠牲になるなんて、嫌です……!」
「桔梗さん」
「まだ、諦めません」
 顔をあげ、桔梗は朔をじっと見つめた。
「絶対に、諦めませんよ……!」
「…………」
 朔は目を見開き、やがて寂しそうに微笑んだ。
「ありがとう、桔梗さん……」
 白銀の獣はその黄金の瞳を半ば閉じ、まるで二人の会話にじっと耳を傾けているかのようだった。