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宿業の巻 第三章

  一

 年が改まったとはいえ、都を覆う重い空気が晴れたわけではなかった。むしろ東への派兵の準備が着々と進むことで、一種の異様な高揚感、悲壮感、そのようなものが色濃くなっていく。
 文官の燐には戦による直接の影響はないが、彼には重要な役目があった。ひとつは都にいる紫苑が式神であると──つまり偽物であると見破られぬようにすること。それは宮中の目と同時に、恐らくこちらの様子を伺っているであろう夜雲を欺く目的でもある。もうひとつは祝いごと──養女、加乃の婚姻であった。
 出雲の国、玄武の邑で生まれた加乃と、都で最も強い権勢を誇る藤原家の末弟、蓮。彼らを引き合わせたのは、娘を庇い命を落とした加乃の母か、全てを(なげう)ち体内に巣食う物の怪を打ち破った蓮の亡き長兄か──。家族を喪う痛みを知ったばかりのふたりが出会い、惹かれあったのは、ごく自然なことだったのかもしれない。
 加乃は今も橘邸に居り、蓮が夜毎に訪れている。加乃を正妻として自分の屋敷に迎えることを望んだ蓮に、彼女はやんわりと断った。──今は父の側にいたい。蓮はその望みを容れた。
 燐は、ひとりではない。男装の弟子、日向が相変わらず住み込んでいる。彼らの師弟関係はいろいろな感情を含んで揺らぎ、にじみながらも、今のところは何も変わってはいない。加乃は彼らを見守りたいと思った。燐がもっと日向に心を許すことができるように。日向が無理をすることなく、自分らしく生きられるように。
 しかし、加乃を橘邸に留めおいた大きな原因はやはり──朔の不在だった。紫苑らとともに朔が都を出てからも、燐は表向き何も変わらなかった。加乃の婚礼の仕度をし、日向を教え、宮中での仕事をこなす。変わらない笑顔、変わらない優しさ、変わらない会話──それでも、不意に燐が目で何かを探しているのを、加乃と日向は気付いていた。
 桜色の髪。琥珀の瞳。
 あれから一度だけ、燐が泣いたのを加乃は知っている。庭に白猫が紛れ込んだときのことだ。日向は慌てて──多分、燐が朔の連れていた白虎を思い出すと思ったのだろう──追い出そうとしたのだが、燐はそれを止めた。飢えて震えていたそれを土間にあげ、馬の乳を求めて与え──しかし翌朝、猫は静かに息を引き取っていた。死骸を最初に見つけた燐は、声を殺して泣いていた……。

 ある夜、蓮は加乃に尋ねた。
「お義父上は、ご再婚なされないのかな」
「さあ……」
 加乃は困ったように微笑む。蓮は日向を見知っているはずなのだが、おんなだとは気付いていないような気がする。
 蓮は加乃の長く伸びた黒髪を指ですきながら、ひとりごとのようにつぶやいた。
「最初の妻がいなくなったから次だ、などとは思えないのだろうね。あの方はお優しいと聞くから、なおさら」
「申し訳なく思う気持ちもあるのでしょう」
 加乃は目を伏せる。燐はまだ、自分を責めているのだろうか──母を目の前で喪った自分と同じように。最愛の兄を守れなかった、蓮のように。
「ねえ、加乃さん」
 蓮は不意に向き直った。澄んだ黒い瞳が、彼女を映す。
「もしかしたら、僕も東に行かなければならないかもしれない」
「え……?」
 加乃はぽかんと口を開けた。
「今、なんて……?」
「もちろん、僕が武器を取って戦うわけではないのだけど、藤原の本家からも人を出した方がいいと思うんだ。兄は役職柄、今都を離れられる状況じゃないし……」
「そんなの!」
 加乃は蓮の腕にすがった。
「嫌です。行ってしまうなんて、絶対に嫌!」
「加乃さん」
「いや……いや……っ」
 くぐもる声に、蓮は顔を歪める。
「ごめん」
 兄と慕っていた癸が都を離れ、今また夫となったばかりの蓮が──加乃は蓮を困らせているとわかっていながらも、涙を止めることはできなかった。
「まだ決まったわけじゃない。それに、もしそうなっても長くはならないよ、夏までには帰れるかもしれないし……その間のことは兄の伴雅にも良く頼んでおく」
「…………」
 加乃は濡れた瞳で蓮を見た。蓮は優しい顔で彼女を見つめている。──記憶の中の癸の表情に、少し似ていた。
「みんなで帰って来られるよう、頑張るから。義兄(あに)上も一緒にね」
「…………」
 加乃はのろのろとうなずく。しかし、彼女の体はまだ小さく震えていた。

  二

 燐は目が覚めるとすぐに、目元を押さえる。最近はそれが習慣になっていた。濡れていない──泣いていない。ほっと息をつき、寝具を被りなおした。辺りはまだ暗く、夜明けにはまだ間があるとみえる。
 紫苑らが都を離れた後も、日々はただ過ぎていく。派兵の準備が進むことで慌ただしさの増す都の様子を、燐はどこか遠くから眺めているような心地で見ていた。心配していた紫苑の不在の露見も起こりそうにはなく、加乃の婚儀も無事執り行われた。安堵が胸を満たすと同時に、形容し難い虚脱感、虚無感もまた、燐を包んでいた。
 ──必ず帰ってくる、と朔は言った。信じたい。しかし、信じきれない。朔は、息子は一度死んだのだ。本来ならば生まれいづることすらかなわなかった、いのちだ。彼が普通の子供のように生きていくことなど、できるはずがない。側にいたときは直視せずに済んでいた現実が、容赦なく燐に襲い掛かってくる。
 それでも──待たずにはいられない。
 寝付けなくなった燐は、部屋を抜け出した。素足で濡れ縁を踏むと、あまりの冷たさにまるで皮膚が切れたかのように痛んだ。燐の唇にうっすらと笑みが浮かぶ。痛み──死につながるその(しるし)を、燐はなぜか愛しく感じた。愛したおんなは、そこにいる。息子もまた、いずれは還っていく……。
「先生!」
 圧し殺された声に、燐はびくりと体を跳ねさせた。すぐ脇の帳がわずかに開いていて、寝巻姿の日向が四つん這いで顔を覗かせている。
「そっちは加乃ちゃんの部屋ですよ。今夜もほら、お客さまが」
「あ」
「いくら娘が心配でもそれはまずいですって」
「ち、違うよ!」
 燐は慌てて首を横に振る。
「ぼうっと歩いていたら、たまたま」
「まだ寅の刻ですよ?」
「うん……」
「あっ!!」
 再び、日向は声をあげた。
「先生、足!」
「え?」
 足元を見下ろすと、何やら濡れている。そういえば、ぬるぬるとした感触を踏んでいるようだった。
「怪我してますよ!!」
 日向に引っ張りこまれ、燐は彼女の部屋に入った。燭がついていて、薄ぼんやりとしている。辺りには何やら布のようなものが散乱していた。
「座って下さい」
 ああ、痛いと思ったら本当に切れていたのか。燐は妙に納得しながら、日向の言うがままに座り込んだ。日向は手近な布きれではなく、また別の場所からはぎれを出してきて細かく引き裂き、燐の足を巻いた。白い布が、じわりと赤く染まる。
 燐は辺りに散らばる布の一枚を手にとり、目を見開いた。
「これ、朔の……?」
 見覚えのある着物たち。日向ははにかむように微笑んだ。
「ええ。この間洗濯したら、ほつけや破れがたくさん見つかったんです。帰って来るまでに繕っておこうと思って」
「…………」
 燐はじっと手にとった布を見つめた。改めて見ると確かにそれは朔の袴で、裾のほうには真新しい縫い目があった。
「毎晩やってくれてるの……?」
 部屋を埋める着物の量を見て、燐は尋ねた。
「疲れたら寝るから、それまでの間だけですよ」
「だって今は寅の刻だろう? 寝ないでやってたんだね」
「今日は眠くなかったから」
 あくまで明るく語る日向の横顔を見つめ、燐はぽつりとつぶやいた。
「ここにいても、いいかな」
「え?」
「君が繕っている間、ここにいてもいいかな」
 日向は少し驚いたように目を見開き、やがて笑ってうなずいた。
「はい!」

 ──半刻ほどすると、日向はこくりこくりと船を漕ぎ始めた。それに気付いて、燐は彼女を寝具に横たえてやる。
「君は、信じてくれているんだね」
 寄り添うように腹這いになって、燐は日向の寝顔を覗き込む。
「……ありがとう」
 笑みを浮かべながら安らかに眠っている日向の頬にぽつりと、熱い雫が滴った。