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宿業の巻 第七章

  一

 城壁は雪をその頂にまとい、闇の中にその姿をうっすらと浮かび上がらせている。紫苑は慎重に辺りの気配を探るが、特に見張りが立っている様子はなかった。──自分たちが都を離れていることは、まだ知られていないらしい。
「行くぞ」
 傍らで息を潜める桔梗、朔に声を掛け、紫苑は地を蹴った。彼を先導するのは季節外れの蝶。紫苑の式神である。ほのかに赤く光るそれは、小さな松明のようだった。
 城の中はひっそりと静まり返っている。足音を立てぬように気遣いながら、彼らは奥へ奥へと進んだ。蝶はひらひらと宙を舞い、仕掛け扉では板を動かす順序をその光で示し──紫苑がその通りにすると、やがて地下へと通じる階段が姿を現した。
「ずいぶん厳重ですね」
 桔梗が息を潜めて囁く。紫苑は汗ばんだ額を拭いながら、無言でうなずいた。
「これじゃあまるで、座敷牢みたいだ」
 つぶやいた朔の言葉が、おそらく当たっているのだろう。階段を下りきった場所には、さらに鍵の掛かった扉があった。木製のそれは先ほどの組み木とは違い、鍵がなければ開かない。紫苑は躊躇なく錠前を切り捨てた。音を立てぬように注意しながら、彼は扉に手を掛ける。わずかな隙間が開いた瞬間、紫苑は顔をしかめた。傍らの桔梗も袖で鼻を覆っている。
「これは──」
 病のにおい。死のにおい。それとも、毒のにおい……?
「あ」
 不意に、桔梗が小さく叫んだ。
「桔梗?」
 紫苑の問い掛けに、返答はない。慌てて顔を覗き込んだ紫苑の腕の中に、彼女はぐらりと倒れ込んだ。
「桔梗?!」
「紫苑さん、とりあえず中に入りましょう」
 彼女を腕に抱えた紫苑に、朔は声を掛ける。
「ここにいたら声が響いてしまうかも」
 今回はあくまで夜雲の父と接触することが目的だ。騒ぎを大きくしたくはない。
「……そうだな」
 桔梗の呼吸は確かで、脈もしっかりしている。紫苑はともすれば吹き出しそうになる不安を押し殺しながら、弛緩した彼女の体を抱えて暗がりの中へと滑り込んだ。

  二

 ――ああ、これはいつかの夢の続きだ。そう直感したのは、部屋にいる女に気付いたせいだった。頭の上半分を布で覆った、人間の女。恐らくは、夜雲の乳母だったはずの女。かつて見た夢では黒々としていた髪にも、白い筋が目立つようである。
 女が不意に顔をあげた。遅れて、廊下を駆ける足音が響く。
「しず!」
 部屋に飛び込んできたのは、黒鷹族の幼子であった。息を弾ませながら、しずと呼んだ女の膝によじ上る。
「やあさま、おかえりなさい」
 女は笑って彼の頭をなでる。幼子はそのふくふくとした手にひとかたまりの野草をにぎっていた。
「またひとつ、薬草が見つかった。もうすぐ全部揃うよ」
「まあ」
 しずは口を手で覆う。
「危ないところへ行ってはいけませんよ。しずはやあさまにお怪我をされては辛うございます」
「大丈夫だよ」
 文様の刻まれた頬が、ぷうと膨らむ。
「やあさま」
 見えぬはずの彼女がためらうことなく手を伸ばし、それは少しもそれずに彼の頭に触れた。
「しずの眼のことは気になさらないで下さいませね。……そりゃあ、しずもやあさまのお顔が見とうございますよ。でも、だからといってやあさまがご無理をなさる必要はないのです。見えなくとも、やあさまはやあさまですから」
「……わかっているよ」
 幼子は浮かぬ顔でうなずき、女の胸に飛び込む。
「しずはこれからもおれの側にいてくれるだろう?」
「ええ、もちろんですとも」
「約束だぞ」
「はい」
 女はあらわな口元だけで微笑する。幼子もまた、安堵したように笑った。
「わたくしはずっとやあさまのお側にいますわ。やあさまがそれを望んで下さるのなら……」
 ──嘘つき!!
 その叫び声が、空間全てを切り裂いた。視界が暗転する。
「ずっと、側にいるって言ったのに」
 閃光。小さな人影が一瞬だけ、照らし出された。
「おれの顔を見たいと言っていたのに」
 再び、閃光。人影の足元に、何か赤いものが打ち捨てられている。
「なぜ……? なぜ、おれを遺して死んだ?」
 少年は膝をつき、慟哭した。
「なぜ、しずを殺したんだ! 父上!!」
 絶叫と同時、目前に光が満ち溢れる。そして、拓けた光景──辺り一面、血塗れだった。
「母上?!」
 少年――夜雲は足元の女の死骸を離し、遠くで倒れ伏している女に駆け寄った。ひとめで絶命しているとわかるほど、体の下には大きな血だまりができている。
「母上!!」
「……これは、しずの仕業だ」
 夜雲の背後に、長身の男が立った。以前も夢で見た、夜雲の父親だろう。
「だから、私がしずを殺した……」
「なぜ、しずが? しずがそんなことするわけない!」
 夜雲は母親にとりすがった。女の長い髪は赤い血に汚れてごわつき、黒鷹族の特徴でもある浅黒い肌は、血の気を失って土気色になっている。夜雲の父親は、深くうなだれていた。
「しずは、人間なのだ。己の赤子を亡くし、行き倒れていたのを可哀相に思って引き取ってやったのだが……こんな形で仇を返されるとはな……」
「にんげん……」
 彼はつぶやき、ゆっくり顔をあげる。その深緑の瞳に、剣呑な光が灯った。
「赦せない」

  三

 はっと目を覚ますと、そこは見慣れた風景である。燐は悪夢の残滓を振り払うように、首を横に振った。
「ん……う」
「?!」
 自分のものではない気配に、燐は慌てて体を起こした。部屋の隅に、華奢な体が丸まって落ちている。日向だ。
「うわあ、寒そう」
 燐はつぶやきながら寝具をかぶせてやる。月明かりの中でもはっきりとわかるほど、日向の唇は青ざめていた。燐はそれをそっと人差し指の爪でなぞる。
 ――以前、燐が日向の部屋で眠ってしまったことがあった。それ以来、日向は夜半でもふらりと彼の部屋にやってくる。時には書を読みながら眠ってしまうこともあって、そんなとき燐は彼女を敢えて起こそうとはしなかった。さほど近い距離にいるわけではなくても、同じ部屋の中に自分以外の人の気配があるとどこか安心する。寂しさを埋めるために日向を都合良く利用しているような、そんな罪悪感がないわけではなかったが、それでも燐は彼女を突き放せなかった。
「ごめんね、最低の先生で」
 燐はそうっと日向の頬を、髪をなでた。
 自分は今もさくらを愛しているのだろうか。それとも、彼女と過ごした過去の日々を愛しているのだろうか。かつて、彼がさくらを愛していたことは間違いない。だがそれももう数年前のことになる。いつまでも過去に縛られていては……とも思う。さくらは、彼にそれを望むだろうか。わからない。忘れてはいけない、とは思う。燐が彼女を忘れては、誰もその存在を覚えているものがいなくなってしまう。だから、決して燐は彼女を忘れるわけにはいかない。その記憶を思い出に変えてしまっていいものかどうか、それがわからない。
 こんな気持ちのまま、日向と近しくなってはいけない。それは良くわかっていた。さくらに対しても、日向に対しても失礼だからだ。けれど――そもそも自分は日向をどう思っているのか、それもわからない。
 彼女の利発さを好ましく思っている。優しさに心癒されている。明朗な笑顔をいつでも見ていたい。それは燃え上がるような情熱とは一線を画した、ほんのりと暖かな温度をもつ感情だ。家族としては、多分燐は日向を愛している。それでは彼女をおんなとして愛しているのか、と問われれば――良くわからない。
 そもそも日向は――燐をどう思っているのか。
「ん……?」
 ぴくり、と彼女の瞼がふるえ、燐は慌てて手を離した。日向は何度か小さく瞬きを繰り返し、やがてつぶらな黒い瞳が燐を見上げてうっすらと微笑む。
「せんせい……」
「起きてしまった? ごめんね」
 平静を装い、燐は彼女を見下ろした。
「自分の部屋に帰れるかい?」
「……かえらないと、だめですか」
 ――どきん、と鼓動が跳ね上がった。
「でも、日向ちゃん」
「おれは……おとこでいるから」
 日向の顔が、泣きそうに歪んだ。
「先生のために、おれはおとこでいるから」
「…………」
「だから……」
「日向ちゃん……」
 日向は寝具に深くもぐりこんだ。燐はそれを追おうとして、手を止める。――先生のために、おとこでいる。その言葉の意味を、良く考えなければならないと思った。
「……おやすみなさい」
 日向のか細い声が、厚い寝具を通して伝わってくる。燐はその肩とおぼしき場所をとんとん、とたたいた。
「おやすみ」
 燐は自分の寝具に戻り、月と日向に背を向けて唇を噛んだ。――昔の自分は、何をえらそうに紫苑に説教していたのだろう。自分より彼の方がよほど、誰に対しても誠実に向きあっているではないか。今の自分は、日向に甘えているだけだ。妻を失った痛み、息子を手放す悲しみ、それらを気遣ってもらっている。自分よりもよほど年下で、しかも家を捨てた寄る辺ない彼女に。
「情けないな……」
 そのつぶやきは冷たい大気の中で溶け残ったかのように、燐の胸にとどまり続けた。