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宿業の巻 第一章

  一

 ──やあさま。わたくし、やあさまがだいすきですよ。
「────っ!!」
 夜雲ははっと目を覚まし、閨の中に起き上がった。
「夢……か」
 今宵、真雪は側にいない。夜雲は乱れた息を整え、己の肩を抱いた。
「何故、忘れられぬ」
 苛立ちを含んだ声が、独りきりの閨に響く。
 幼い頃の夢は、きまって同じだ。何故、夢に見るのは母ではなくあの女なのだろう。あの女だけの使った忌まわしい呼び名が、懐かしいものであるはずなどないのに。あの女は、母を殺したのに。
 ──やあさま。あなたのおかおを、わたくしみてみたいわ。この目がひらいたなら、どんなにかうれしいでしょうね。
「やめろ!」
 夜雲は耳を塞ぐ。その甘い声音の記憶が、彼にはどうしようもなく恐ろしく、それでいて逃れる術はないのだった。
 ──やあさま! わたくし、目が……!
 その瞼の下に映った光景を思い描くまいとするかのように、夜雲は闇の中で強く目をつぶる。だが、それも徒労に終わり――夜雲は独り、体を震わせていた。

  二

 大地は白く、雪に閉ざされていた。木々に咲くのは霜の花。
 無彩色の世界を二頭の馬と一頭の巨大な獣が行く。しかし、雪の上に残る足跡は馬のものだけだった。獣は白い虎で、周囲の景色にすっかり溶け込んでいる。──それは、(あずま)への道を行く、紫苑ら一行であった。
「桔梗、寒くはないか?」
「私は大丈夫です」
 紫苑の腕の間に包まれている彼女は、ぐるりと首をめぐらせて振り向いた。先日通りかかった村で紫苑が入手した綿入れは、彼ら一行を大いに救った。桔梗もまた、それに暖められている。
「昴さんは?」
「寒くはないわよ」
 桔梗と良く似た格好で透流に抱えられている昴は、物珍しげに雪景色を見回していた。都で何度か雪が舞うのを見てはいるだろうが、こうして世界が真っ白に彩られるのを見るのは初めてらしい。
「透流は、雪が珍しくはないの?」
「ええ、邑の冬は寒かったですからね」
「そう……」
 金糸の睫毛がうつむいて震え、透流は黙って彼女を抱える力を強くした。彼女の邑での記憶はほとんどがあの社でのもので、自由に出歩くことなどできなかった。彼女は邑にとらわれた、囚人だったのだ。結果、彼女の憎悪が邑を滅ぼし、透流はそれを悲しんだ。だが、こうして彼女を今抱きしめることができるのは、彼女から邑という枷がなくなったお陰である。とするならば、自分に邑人を悼む資格があるのか、どうか──。
「都も今頃は雪が積もっているかもしれないな」
 紫苑はことさらにのんびりした口調でつぶやいた。寒さに赤くなった彼の手に、桔梗はそのやわらかな手のひらを重ねる。
「父さん、風邪を引いていないといいけど」
 白虎に跨がった朔は、心配そうにそらを仰ぐ。それを聞いた桔梗は、明るく言った。
「もし引いても、きっと日向さんが看病してくれていますよ」
「そうよ、仲良くやってるに決まってるんだから、心配するだけ損だわ」
「そうですね。……ありがとうございます、昴さん」
 朔は笑みを浮かべた。昴の言葉が真実ではないことは、彼には良くわかっている。ただ、彼女は彼を元気付けたかっただけだ。
 紫苑は黙って笑みを浮かべる。都には羽櫻などの式神を幾人か残してきた。燐らに何かあれば、すぐに連絡が届くようにはしてある。
 ──ところで、紫苑どの。
 その声は、大気を経由することなく彼ら皆の頭に響いた。白虎である。
「何だ?」
 ──東では、どう動く?
「…………」
 水晶、濃青、琥珀、漆黒。色とりどりの眼差しに見つめられ、紫苑はやや背筋を伸ばした。考えは、ある。
「黒鷹の御子、夜雲──彼はまだ、一族の長を継いではいないらしい」
 夜雲自身が、黒鷹の長、夜月の嫡子であると名乗ったのを、紫苑は覚えていた。
「しかし、どうやらあちらをまとめているのは夜雲と真雪のふたりという。……白蛇の事情は知らんが、黒鷹の長が表に出てこないのは、少々不思議ではないか? いくら立派に成長した嫡子がいるとはいえ、な」
「そういえば、そうですね」
 朔がうなずく。
「あの夜雲が都に来たときも、父親の遣いという感じではなかった……」
 桔梗もまた思い出すように目を細めた。夜雲と直接会ったことがあるのは、紫苑の他には彼女だけだ。一方、真雪を知るのは朔のみである。
「なるほど、そこのところから交渉の取っ掛かりを得ようってわけね」
「ああ」
 昴の言葉にうなずきながら、紫苑は水龍の双子を想う──彼らは今、元気にしているだろうか。今なお、紫苑を家族と思ってくれているだろうか。
 白虎が低く唸る。
 ──もう少しだ。
 木々の隙間から漏れ入る光は、少しずつではあるが、雪を溶かし始めていた。

  三

 城の大気は冷たく澄んでいたが、それでも外気に比べると幾分あたたかに感じられた。板の間に獣の皮を引いた上に、夜雲が座している。彼の目前に並んだ他のあやかしもまた、思い思いの敷物を持ち寄っていた。
 夜雲を囲むこの数名は、四天王に次ぐ力を持つ種族の代表だ。彼らはまた、夜雲が掛けた挙兵の誘いに、始めに乗った者たちでもある。
「都にはまだ、動きがないらしい」
 夜雲は、忍びの役からもたらされた文を手にしていた。陰陽師ら――特に陰陽博士に気付かれぬよう、忍びを都には踏み入れさせていない。
「例の半妖は?」
 尋ねたのは、赤銅色の髪を持つ火属のあやかしであった。半妖、と口にする彼の顔には露骨な侮蔑の色がある。夜雲はうっすらと苦笑を浮かべた。
「陰陽博士どのは、屋敷に蟄居しておられるという話だ。ひとの軍への加勢を断ったとか」
「我らに与するつもりでしょうか」
「さあ……な。それよりも気になるのは、その陰陽博士どのが東へ向かっているという噂。とすると、都にいる陰陽博士どのは式が化けたものかもしれないということか……」
「東へ?!」
「一体何のつもりで──」
「いや、」
 夜雲の声に、色めきたった面々は一端口をつぐんだ。
「向こうからこちらに来てくれるのであれば、願ってもないことだ」
「夜雲どのは、あの半妖に何を期待しておいでなのです?」
 そう口にしたのは先ほどのあやかしであったが、他の者らも一様にうなずいている。夜雲は苦笑を深めた。
「我らの計画における彼の果たすべき役割については、既に詳しく話したつもりだが?」
「信じられませぬ。そんな半端ものが神々に選ばれた者だなどと──」
「信じられるかどうかは問題ではない」
 夜雲はきっぱりと言った。
「事実、彼は朱雀を御す。そして、彼の伴侶は青龍を魂に宿した水龍族の姫御子。異国の血を引く玄武の巫女と、白虎によって甦った子供も行動を共にしている」
 そこで彼は言葉をきり、一同を()め回した。
「彼らが我らを討ち滅ぼしたいと願ったならば──勝ち目はないかもしれぬ」
「…………」
 皆が口をつぐんだ中、ひとりのあやかしがつぶやいた。
「……彼の傍らには水龍の御子がいると仰いましたな」
「いかにも」
「我が陣の中にも、水龍がいたように思いますが……」
「左様」
 夜雲は静かに微笑した。
「水龍の生き残りは極めて貴重。巧く使わねばならぬな」
「…………」
「しかし、彼は一体どうするつもりなのか……」
 夜雲は独り言のようにつぶやき、窓の外に視線を投げた。雪は白い大地の上に音もなく降り積もっていく。黒鷹族の故郷、鎮西には見られない光景だ。――父がこれを見れば、きっと驚くだろう。昨夜の夢見を思い出し、夜雲はそっと目を伏せた。