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都落の巻 第四章

  一

 翌朝日向が目覚めたとき、庭の雪はすっかり溶けてしまっていた。ぼんやりと廊下に足を踏み出し、見慣れない景色に戸惑う。──そうだ、ここは御門の屋敷だ。思い出すと同時にちり、と小さな痛みを胸に感じた。ほら、やっぱり先生は迎えになんて来ない……来るはずがない。昨日、紫苑は妙に自信たっぷりに「来る」と言い切っていたが、正しいのは日向の方だった。文句のひとつも言いたいが、こうして世話になっている身ではそれもままならぬ。そういえば、屋敷の主は今どこにいるのだろう。しんと静まり返った屋敷には、ほとんどひとの気配がない。
「日向さん!」
「うわっ」
 突然背後に出現した影に、日向は悲鳴を上げた。振り向いて、ほっと胸を撫で下ろす。
「なんだ……桔梗か……」
「おはようございます、日向さん」
 桔梗はやわらかく微笑した。こうして並んでみると、ふたりの背丈はあまり変わらない。日向はきまり悪そうに桔梗を見返した。
「悪いな……邪魔して」
「いいえ」
 桔梗が首を横に振るのに従って、銀髪がさらさらと空間に弧を描いた。
「この間ふたり出て行ってしまったでしょう? 少し、寂しかったんです」
「…………」
 日向は口をつぐんだ。──ふたり。その水龍の双子とは、あまり言葉を交わしたことがない。闊達な印象の兄と、温和そうな弟。「水の殺戮者」とのふたつ名を聞いて思い描いていた印象とは全く違っていて、少しも怖くはなかった。一度橘家にやってきたふたりを物珍しそうに見つめていたら、兄の方が「ひとの顔をじろじろ見るな」と顔を赤らめて目を背けたのを覚えている。意外に初心(うぶ)な反応で驚いたのだが――そういえば、彼らは日向の性別を知っていたのだろうか。
「日向さん」
 桔梗の声に、日向は彼女を見返した。
「ご飯の準備ができていますよ。食べましょう?」
「紫苑は……?」
「出掛けています。……あ、もう昼ですから、昼ご飯ですね」
「ごめんな。朝ご飯、無駄にして」
 恐縮する日向に、桔梗は柔らかく微笑む。
「気にしないで下さい。残ったご飯は紫苑が食べて行きましたから」
「……意外に良く食べるんだな」
 紫苑の細身の体を思い浮かべてつぶやく日向に、桔梗はすました顔で答えた。
「紫苑は着痩せする方なんですよ」
「……へ、へえ」
 そういえば、このふたりは夫婦(めおと)だった。先導するように廊下を歩んでいく桔梗の背中を追いながら、日向は何か眩しいものを見るように目を細めた。
 日向が紫苑らと知り合ってから、さほど時間が経っている訳ではない。それでも、紫苑と桔梗の間にある絆の深さは何となく伺い知ることができた。半妖であるがためにきっと幼い頃から孤独であったろう紫苑の、初めての家族が桔梗だったに違いない。――恋人だとか夫婦だとか、そんな言葉だけでは語り尽くせないような気がした。敢えて言うとするならば、きっと、「運命」をともにする同志。たとえその「運命」がどんなに苛烈なものであろうとも、固く結ばれた手が離れることなどないのだろう。ともに歩み、ともに戦う。守り守られながら、ふたりの未来(あす)を目指していく――それは世間でこうあるべきと言われる夫婦の姿とは全く違っていたが、きっと母である霧雨が父に望んでいたのはそういった関係だったのではないか。そして、「女」としての日向が望むのも……。
 日向の唇からため息が漏れた。
「日向さん?」
 振り向く桔梗に、日向は首を横に振る。
「――何でもない」
 ふと、脳裏に燐の顔が浮かんだ。彼が愛する妻と過ごした時間は、あまりにもわずかであった。さぞ無念だったことであろう。もう、彼は誰も望まないのだろうか。その横でともに歩く人間を、望むことはないのだろうか……。
「ひとりは、寂しいですよね」
「え……?」
 日向は思わず足を止めた。まるで自分の思考が読まれたかのようで、鼓動が跳ね上がる。
「紫苑が出かけて家にひとりでいると、やっぱり寂しいんです。式神さんがいてくれるから、気が紛れるけれど……」
「あ……、そうか……」
 日向はほっと安堵の吐息を零し、歩みを再開した。
 ――ひとりは、寂しい。
 燐は、ひとりではない。朔もいるし、加乃もいる。同じ屋根の下には昴や透流もいる。だからきっと、寂しくなどないだろう。日向は視線を落とし、ぽつりとつぶやいた。
「寂しいのは……おれか……」

  二

 その頃、紫苑は橘邸の一際奥まった部屋に通されていた。
「来てくれてありがとう」
 燐の目の下の隈に気付き、紫苑はやれやれとため息をつく。――眠れないくらいなら、迎えに来ればよいのに……。だが、彼が口に出したのは別のことだった。
「桔梗と日向は、今頃昼飯でも食っているだろうな」
「うん……ごめん。ありがとう」
 燐は視線を落とした。
「何があったのかは聞かないが、お前はあいつを弟子にすると決めたのだろう。師匠としてのつとめは、果たさねばならんと思うがな」
「……そうだね」
 燐は少しだけ微笑を見せた。
「僕は彼女の、先生だからね……」
 「彼女」。そうつぶやく燐の横顔は、何とも形容しがたい、複雑な色に染まっていた。紫苑は目を逸らし、話を変える。
「ところで、例の文書。解読は進んだのか」
「ああ、それのことなんだけど」
 燐は表情を引き締めた。
「やっぱりあれは出雲の『封印』に関するものだ」
 燐は丸めた紙を文箱から取り出し、紫苑に渡した。
「古い上にところどころ不完全なものだから、読むのに苦労しているけれど……間違いないよ」
「そうか」
 紫苑はさっと紙面に目を走らせた。それは燐によって書かれた覚書で、神を封じた「封印」の存在、それに秘められた途方もない力、番人である四聖獣の存在などについての記述であった。そして――。
「ん?」
 紫苑はふと眉をひそめる。まだ燐も読み解いている最中なのだろう、末尾の方はかなり断片的にしか書かれていなかったが、その中に気に掛かる言葉があった。――狭間のもの。ひとと、あやかしの。
「何だ、これは」
 紫苑はつぶやいた。――これは、まさか私のことを言っているのか。動揺が胸を渦巻き、額には冷たい汗が滲んだ。
「わからない」
 燐は曖昧に首を揺らす。
「そこは特に紙の劣化が激しくて……。ただ、僕はこれが本当に古いものなのか、正直怪しいと思っているけれどね」
「それは、どういうことだ?」
 顔を上げた紫苑に、燐は説明する。
「文体は古語を模しているし、紙も古ぼけている。だけど、ところどころね――引っかかるんだ。かなり古い文法とそれほどでもないものが混ざっていて、矛盾している」
「つまり、作りものかもしれないということか」
「そうだね。……ただ、そうまでしてこんなものを持ち帰らせる、その意図は読めない」
「…………」
 紫苑は視線を落とす。――ひととあやかしの狭間のもの。神。「封印」。力。
 これを夜雲らが意図的に作ったのだとしたら、彼らの目的は一体何なのだろう。何故、ひとの側にわざわざ「封印」について教えようとするのか。そんなことをして、彼らに何の利点があるというのだろう。――あるいは、再び自分を罠に嵌めようとしているのか……。
「日向くんは、優秀な弟子だよ」
 燐がぽつりと呟き、紫苑は思考を中断して彼を見遣った。
「あの子がいると、作業の効率が違う」
「じゃあ、さっさと呼び戻すことだ」
「……帰りたくないって、言ったんだろ」
「お前は先生だろう。弟子のわがままを許すのか」
 淡々と言う紫苑に、燐は苦笑した。
「わがまま……ねえ」
 たぶん、本当にわがままなのは自分だろう。燐は口には出さずそう思う。日向は、優秀な弟子。だから、帰って来てほしいのだと、ただそれだけの理由なのだと、自分に言い訳をしようとしている……。だが、それでもいい。日向をこれ以上傷つけずに済むのなら、それでも――。
「完成したら、伴雅どのにお見せするのか?」
 紫苑の問いに、燐は彼を見つめ返した。
「どう思う? まだ途中だし、完成した時の内容にもよるかと思うのだけど……」
「…………」
 紫苑は顎に手をあてて考え込む。夜雲らの意図はまだわからない。迂闊にその手に乗るのは危険だが、だからといって虚偽の報告をするのも考えものだ。
「藤原正年どのに、かなり急かされているんだよ」
 困ったようにつぶやく燐に、紫苑はふう、と吐息を漏らした。
「正年どの……か」
 正年とはあまり言葉を交わしたことがなかったが、どちらかといえば彼の苦手な種類の公達(きんだち)だった。彼が大将軍に任じられた以上、紫苑には援助の要請は決して来ないだろう。かつて、ひとがあやかしと争ったときと同じだ。また同じことが繰り返される……。
「さて、善は急げだね」
 燐はにっこり笑って立ち上がる。心なしか目の下の隈が目立たなくなったようだが、それは彼の表情のせいだろうか。
「君と一緒に御門の屋敷に行くよ。――そして、日向くんと話をする」
「……ああ」
 紫苑は微笑み返した。それでこそ燐だ、と。
 
 
  三

 御門家の昼食は、他愛のないお喋りとともに終わった。食膳を下げるために部屋に入ってきた式神たちを見て、日向は目を輝かせる。
「すごいなあ、これが陰陽師の力なんだ……」
「ふふ」
 桔梗は口元を緩めた。日向は興奮醒めやらぬ様子で、不躾なほどにじろじろと見つめている。
「式神って言っても、見た目はまるっきりおれたちと同じなんだな」
「おれたち……」
 桔梗は呟いた後、笑みを深めた。
「そうですね。同じですね」
 ――おれたちと同じ。日向はそう言った。つまりそれは、日向が桔梗と自分を同じととらえているということに他ならない。彼女にとって、ひととあやかしにはたいした差などないのだろう。日向が最初からそうだったわけではない。当初はあやかしである桔梗のことを知りたがり、いろいろと質問もされた。だがその好奇心は決して不快なものではなく、失礼だとも感じなかった。彼女の髪のひとふさをとり、まじまじと見つめていた日向の瞳は子供のように純粋で、美しかった……。
「ねえ、日向さん」
 桔梗はできるだけ軽い調子で尋ねた。
「良かったら、教えてもらえませんか。……昨日、何があったのか」
「…………」
 日向の表情から笑みが消え、視線が床に落ちる。桔梗はそんな彼女の肩にそっと優しく触れた。
「心配なんです。貴方も燐さんも、私の大事なお友達ですから」
 日向はしばらく沈黙し、やがて口を開いた。
「……わ」
 その声は、僅かに震えている。
「わからない……んだ」
「え?」
 桔梗が聞き返すと、日向は涙に滲んだ瞳で彼女を見つめた。
「わからないけど……先生に会うのが、怖い……」
「…………」
「先生が、怖い……」
 日向の頬をひとつぶ、涙が伝って落ちた。