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都落の巻 第八章

  一

 紫苑が宮中を退出した後、その夜──燐が御門邸を訪れた。昴と透流、朔も伴っている。出迎えた紫苑は、恐縮の面持ちで燐を見た。
「迷惑を掛けてすまない……」
「何を言ってるんだい」
 燐は笑う。──紫苑が謝る理由は重々わかっていた。紫苑はあの場でひととあやかしの間での中立を宣言した。今上から拝命した陰陽博士という立場を、放棄したのも同じである。となれば、追って紫苑にお咎めがあるのは必至……もしかすると、それは彼と仲の良い燐にまで類を及ぼすかもしれない。しかし、燐は静かに言った。
「君はさくらのことがあったとき、身を挺して僕を庇ってくれた……宮中への復帰も、君の口添えがあってのこと。僕は君よりずっと微力だけれど、今度は僕が君の力になる番だ」
「お前はいつでも私の力だったさ」
 紫苑はぽつりと言った。
「お前がいたから、私はこの世を──ひとの世を憎まずに済んだのだ」
「…………」
 確かに、燐は紫苑を表立っては庇えなかった。橘家は名家ではあるがさほど高位ではない。公卿たちが紫苑に向ける白眼視を払いのけるほどの力は、彼にはなかった。それでも──燐はいつでも紫苑を気遣っていた。宮中でひとりぽつんといる紫苑に何かと声を掛けてくれる、そのことが紫苑のこころをどれほど和らげてくれただろう。桔梗と出会う前、燐がいたからこそ、彼は笑顔を忘れずに済んだのだ……。
 燐は静かに微笑み、やがて背後の昴らを振り返った。
「力不足で済まない……橘の屋敷では、君たちを守れる自信がなくて」
「燐さんのせいではないわ」
 昴はきっぱりと言う。傍らの朔は険しい表情でうなずいた。
「そうだよ、父さん。それに──」
 琥珀色の瞳は、哀しげな色に染まっている。
「白虎から、提案があるんです」
「白虎から?」
 紫苑が朔の肩に目を遣ると、白猫はその黄金の瞳をらん、と輝かせていた。
「桔梗さんを、呼んでください──」
 そういう朔を、燐は心配そうに見下ろした。良く知るはずの息子の顔が、まるで知らないひとのように見えて……燐はその肩に触れることもできず、ただぎゅっと拳を握りしめた。

  二

 燭が、冬の冷たい闇を焦がしている。桔梗を加えた六人が部屋に座すと、白銀の獣はしなやかな身のこなしで朔の肩から床に降りた。
「して、提案とは?」
 紫苑の問いに、声ではない声が答える。
 ──戦を止めたいのなら、(あずま)に向かわれよ。
「東に?」
 聞き返したのは桔梗だった。
「つまり、あやかしたちに直談判せよということですか?」
「というよりも」
 白虎に代わり、朔が口を開いた。
「ひとの軍が派遣されるのは、もう時間の問題だと思うのです。だから、先回りして手を打った方が良いのではないかと」
「今、東は雪深い。派兵は雪解けを待って行われる予定だが」
「でも、それまであやかしが動かないかどうかはわかりません」
 朔はきっぱりと言い切った。
「どちらかが動くよりも先に――我々が動かなければならないと思うのです」
「…………」
 紫苑は考え込むように視線を落とした。その横顔を、桔梗は見守る。暫しの間続いた沈黙を破ったのは、燐だった。
「疑問なんだけど……、東の方にいけば『封印』からは離れてしまうことになる。それでもいいの?」
「私が出雲に居た頃」
 答えて口を開いた昴は、無表情に俯いていた。
「神有月に『封印』を祓う行事、何も目前で行う必要などなかったのよ。私は大社を離れることなく、『封印』を維持してきた」
「見立てるものがあれば、それで良いのだろうな」
「みたてるもの……?」
 紫苑の言葉に、燐が不思議そうに首を傾げた。紫苑は頷く。
「我ら陰陽の法も同じこと。異なる位相にあるものを、ひとつ接点を設けてやることで近づける――たとえば」
 紫苑は一枚の紙を取り出し、燐に見せた。
「紙だな」
「う、うん」
 頷く燐の目の前で、紫苑はそれを折り始めた。やがて出来上がったのは……。
「鳥……?」
「そう。鳥だ」
 紫苑はそれを掌に包みこみ、何やら口の中で呪を唱えた。そして、手をぱっと開く。
「あ!」
 白い鳥。羽ばたきながら天井に向かって舞い上がり、ひとしきりくるくると飛び回ったかと思うと紫苑の肩に降りてきて止まった。
「これが四角い紙だったとき、鳥との接点は限りなく無に等しかった。だが、これを鳥に似せた形にしてやることでふたつの存在の位相が近付いた。最後に掛けた術は、最後の一押しに過ぎないんだ」
「良くわからないけど……。つまり」
 燐は軽く頬を掻きながら言った。
「たとえばあの『封印』に似た場所だとか岩だとか、そういうところを使えば、あそことその仮の『封印』とを繋げることができる……と、そういうことかな」
「その通りです、父さん」
 朔が頷いた。
「特に大切なのは、四聖獣に選ばれた存在が揃っていること……」
「なるほど。まあ、朔の言いたいことはわかった」
 紫苑はふう、とため息をつく。
「ひとの側もあやかしの側も、『封印』に目をつけていることに変わりはない。どちらにも利用されまいとするなら、都に居続けるのは得策ではないな」
「でも!」
 燐が声を上げた。
「あやかしたちの今回の行動の目的は、たぶん紫苑とひとの仲を割くことだ。都を離れては、かえって彼らの思惑にのることにならないか?」
「それは……」
 紫苑は少し考えたが、すぐに首を横に振った。
「いや。彼らは結局『私』を良く知らない。ひとか、あやかしか。いずれかを選ぶなどということがあり得ないと、彼らは判っていない……」
「じゃ、じゃあ紫苑は」
 息を飲む燐に、紫苑は頷いた。
「ああ。私は都を離れようと思う」
「私も」
 静かに言葉を添えたのは、桔梗だった。
「紫苑と行動をともにします」
「私もよ。今更だけど、やっぱり私は『封印』を守る巫女なのだし――透流は?」
 昴がちらりと透流を見遣る。透流はすぐに頷いた。
「一緒に行きますよ。……俺は、昴さんをお守りしたいから」
「……朔」
 燐がはっと息子を見つめる。
「朔は、どうするの?」
「…………」
 ――不意に、燐は息子の悲しげな瞳の理由を了解した。息子は……朔は、紫苑らとともに都を離れるつもりなのだ。
「行くんだね?」
 それは問いではなく、確認だった。朔は無言で頷く。
「じゃあ、僕も――」
「いや。燐は残れ」
「え?」
 紫苑に遮られ、燐は唖然と彼を見つめた。
「だ、だって朔が」
「加乃はどうするつもりだ。日向も」
「加乃ちゃんなら大丈夫だよ、蓮君が付いてるし……」
「日向は?」
「あの子は僕の弟子だよ。息子じゃない!」
「燐」
 詰め寄る燐に、紫苑は静かな、しかし厳しい眼差しを向けた。
「いくら加乃が藤原家に嫁ごうとも、女には後ろ盾が要るものだ。わかるだろう?」
「…………」
「しかも、養父が半妖と行動をともにして出奔したなどと知れたら――彼女の立場はどうなる」
「……でも、朔が」
 燐は息子を見つめる。だが、やはり彼は悲しい目で燐を見ているだけだった。
「日向のことも同じだ。お前は彼女を弟子にすると決めたのだろう。ならば、最後まで師匠としての責任を果たさなければならん。わかるだろう、燐」
 説き聞かせるような紫苑の声。ただそれだけが、冷えた空気に響いていた。燐は――顔をあげない。だが、その肩は小刻みに震えていた。
「燐さん……」
 桔梗の心配そうな声にも、反応はない。昴と透流は痛ましげな視線を交わした。
 ――やがて、燐は消え入りそうな声で呟いた。
「……ろう?」
「え?」
 誰ともなく聞き返す。燐はもう一度、繰り返した。
「だって朔はもう、帰って来ないつもりなんだろう?」
「――――?!」
 部屋を、衝撃が駆け抜けた。視線を一身に受け、それでも朔は黙っている。
「僕には、わかるよ……、だって、僕は……」
 燐の声は、くぐもっていた。
「僕は、君の……父親なんだからね……」
「……燐」
 紫苑が名を呼んだ、その瞬間。燐は握りしめた拳で床を殴りつけた。
「君にはわからないよっ……! 子を持たない、親でない君には、わからない!!」
「燐さん!」
 桔梗が非難めいた声をあげるのにも関わらず、燐は後も見ずに部屋を飛び出した。思わず後を追おうとする透流を、昴が袖を掴んで止める。
「…………」
 取り残された朔は、ただじっと自分の膝を見つめているだけだった。