instagram

都落の巻 第五章

  一

 顔を伏せた日向の頭上から、やや戸惑いを含んだ桔梗の声が降ってくる。
「燐さんが……怖い……?」
「…………」
 日向は袖口を目もとにあて、ごしごしと拭った。──そういえばこの着物も袴も、昔燐が着ていたものだ。それを思い出した日向は頬を紅潮させ、膝を強く握りしめる。
「先生は、悪くない……」
 口を開くと同時、せっかく拭った涙が再び溢れ出した。
「おれが、先生に頼りきりで、甘えてるから……家出して押し掛けて、きっと邪魔だと思われてる……、だから」
 ──先生のひとことが、ちょっとした仕草が、ひどく気になる。少し邪険にされただけで、落ち込んでしまう。傷ついてしまう。唯一の居場所を奪われるのではないかと、怖くなる……。
「日向さん……」
「先生には感謝してるし、尊敬してる。でも……、おれは所詮、先生のお情けで置いてもらっているだけで」
 優しい日常の中、ついそのことを忘れそうになってしまう。そして──何かの折に痛切に思い知るのだ。自分の居場所は、ひどく脆いものなのだと。
「おれが本当に男なら……」
 日向は疲れたように呟いた。
「そうしたら、こんなことに悩まずに済むのかな……もっと、強くいられるのかな。おれが男だったら、もっと堂々と世間に出ていけるのに……それって、母さんが言ってたとおりだ」
「そういうものではないと思いますよ」
 桔梗はやんわりと否定した。
「みんな、日向さんが本当は女であると知っている……でも、誰も貴方に女の装いを強制することはないし、言葉遣いだって私は気になりません。日向さんは日向さんです。そのことに、男だとか女だとか、そんなことは関係ない」
「…………」
 日向は床に視線を落とした。
 ──僕は君を弟子にしたんだ。君が男でも女でも、そのことにかわりはないんだよ。
 それは、かつて彼女の師匠が告げた言葉だった。優しい言葉。嬉しかった言葉。──信じられない、言葉。
「ねえ、日向さん」
 桔梗は優しく微笑して、彼女を見つめる。
「尊敬するひとに認められたいと願うのは、誰でも同じです。私も紫苑に認めて欲しくて──力になりたくて、必要としてもらいたくて、今でも一生懸命ですから」
「桔梗が?」
 日向は驚いて顔を上げた。
「ええ、もちろん。それに……」
 桔梗はやや照れたように笑う。
「それって大切なことだと思うの。紫苑の横で歩いていくために、私は努力し続ける……紫苑の側にいたいって──その気持ちだけは、絶対に変わらないから」
「…………」
 日向はうつむき加減になって黙った。桔梗はその肩に優しく触れる。
「こころは弱いもの。何かに寄りかかりたくて、頼りたくて、甘えたがる。でも同時に──強くもある。私はそう信じています」
 弱くて強いひとびとを、桔梗は思い出す。──己による己への呪いを断ち切った藤原伴雅。最愛のものたちの死を乗り越え、生きることを選んだ橘燐。狂気に蝕まれながらも我が子を想い続けた蘭妃。突然の悲劇と長い孤独を生き抜いた壬、そして癸。父のために生死の狭間に蘇った、橘朔。邑を守り滅ぼした異端の巫女、上宮昴。弟妹のしあわせを願い逝った、藤原雅哉。その身を呈して兄を亡霊の内より呼び戻した、藤原小夜子。
 そして……先帝とあやかしの姫巫女との間に生まれ、朱雀に選ばれた陰陽師──数奇で非情な運命に翻弄されながらも、その手に守られているものの何と多いことか。彼の優しさ、甘さ、厳しさ、そのすべてを桔梗は愛してやまない──御門紫苑。
「何が信じられなくても、自分のこころは信じられるはずですよ。だって、自分ですもの」
「……おれの、こころ」
 日向は鸚鵡返しにつぶやいた。桔梗がうなずく。
「ええ。日向さんが望むことは、何ですか?」
「…………」
 日向はじっと視線を一点に集め、考え込む。
「おれの……望みは……」
 ──からからから。静寂を打ち破る牛車の音に、桔梗は顔を上げた。
「紫苑が戻ってきたようですね」
 日向を見遣ると、彼女はしっかりと頷き返してくる。その視線に、迷いはなかった。

  二

 燐を伴って帰宅した紫苑を、奥から駆けてきた桔梗が出迎えた。
「おかえりなさい!」
「……ん」
「お邪魔します、桔梗ちゃん」
「いらっしゃい」
 燐に向かい、桔梗は微笑む。
「日向さんなら奥にいますよ」
「ああ、うん」
 燐は苦笑する。やはり、この澄みきった瞳の御子は、すべてを見透かしてしまうらしい。
「じゃあちょっと行ってくるよ」
「ああ」
 紫苑は燐の背中を軽く押した。
「行ってこい」

 式神のひとりに(いざな)われ、燐は日向のいるという部屋の帳の前まで歩みを進めた。
「こちらです」
 ささやくような声に謝辞を返そうと顔を上げると、もうそこには誰もいない。燐はひとり、廊下に立ち尽くしていた。胸が早鐘を打つ。自分でも驚くほど、燐は緊張していた。
「日向くん、そこにいる? 僕だけれど」
 返事をしてもらえるだろうか、燐はおそるおそる声を掛ける。だが、その心配は不要だった。
「はい、先生」
 いつも通り、張りのある日向の声。燐はほっと息をつく。
「入ってもいいかい?」
「はい」
 燐はするりと部屋に入り、そして足を止めた。早々に傾き始めた陽が、橙に部屋を染めている。その暖かな色に浸るように、日向が座っていた。黒目がちの大きな瞳が、じっと彼を見上げる。
「先生……」
 燐は思わず息を飲む。その視線の先、日向は深々と頭を下げた。
「無理やり弟子にしてくれとお願いしておきながら、逃げ出すような真似をして申し訳ありませんでした」
「……え?」
「今後はよりいっそう学業の道に励むことを誓います。だから──」
 日向は再び、燐を見つめた。毅然とした強い──それでいて儚げな眼差し。
「どうか、これからもおれの先生でいて下さい……」
「日向くん……」
 燐はつぶやき、そして慌てて首を横に振った。
「いや、君は悪くないんだ。僕がいらいらしていたのを、八つ当たりしてしまって……悪いのは僕の方だよ」
 しゃがみこみ、やや強張った日向の肩に触れる。
「昨日来れなくてごめん。本当はもっと、早く謝りに来るべきだったのにね」
「…………」
 日向は食い入るように燐を見つめる。
「おれは……」
 唇が、かすかに震えながらもゆっくりと開いた。
「先生の弟子でいたいです……ずっと、お側で教わりたいです……おれは、先生を尊敬していますから」
「…………」
 燐の顔にぱっと朱が差した。
「べ、別に僕はそんなたいした学者じゃ」
「いえ、何も学業のことだけじゃありません」
 日向の目はきらきらと輝いている。夕日のせいだけとは思えなかった。
「おれは……橘燐というひとを、尊敬しているんです」
 朔に対するときの、そして加乃と話すときの、優しい父親の顔。紫苑や桔梗、昴など、ひとくせもふたくせもある友人たちに見せる、生き生きとした表情。大学寮に勤める文章博士としての手腕、学問への深い見識。――日向はそのすべてを傍らで見、知った。
「昔、母さんが言っていました。『貴族なんて馬鹿ばっかりだけど、橘家の家長は見所があっていい青年らしい』って。だからおれ……先生にどうしても弟子入りしたかった」
 燐は目を細めた。
「そう……霧雨さんが……」
 才女の誉れの高かった彼女に評価してもらえていたということが、純粋に嬉しい。
「一度、お会いしてみたかったな」
「……ありがとうございます」
 日向は寂しげに微笑した。燐は彼女の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「一緒に、帰ってくれるかい?」
「……いいんですか?」
「当たり前だろう?」
 燐は微笑んだ。
「みんな、君を待ってる。帰ってきて欲しいと願ってる。もちろん、僕もだよ」
「……は……い」
 日向の顔がくしゃりと歪んだ。ぽろぽろと零れ出す涙を、燐はそっと指先で拭ってやる。日向は腕を伸ばし、燐にしがみついた。
「ひなた……」
 燐はその名をつぶやきながら、彼女の体をしっかりと受け止めた。柔らかな温もり――その感触が不意にさくら色をした古い記憶を呼び起こし、彼はぶるりと身震いする。
「先生?」
 顔をあげた日向に首を横に振ってみせながら、燐は小さなため息をついた。――大丈夫、僕はさくらを忘れない。決して裏切らない……。
 
 
  三
  
「燐さん」
 日向を連れて屋敷に戻った燐に、透流が声を掛けた。いつになく深刻そうなその様子に、燐は眉をひそめる。
「どうかしたの?」
「今日街に出た時に噂で聞いたんですけど――最近、『白髪(しろかみ)の巫女』という女が現れて、(うらない)をしているんだそうです。それがものすごく良くあたるので、まるで予言みたいだと騒がれているとか」
「『白髪の巫女』……? おばあさんかい?」
 その名から想像して聞き返した燐に、透流は首を横に振った。
「いえ。若い女だそうです」
「若い女なのに、髪が白いって……?」
 燐ははっと顔をあげた。
「もしかして!」
「ええ。おれもそう思って」
 透流の表情は険しかった。
「もしかしたら、あやかしが都に入り込んでいるのかもしれないなって……」
「…………」
 燐は唇を噛んだ。――次は一体何だというのだろう。何をしようというのだろう。
「わかった。ちょっと宮中で聞いてみる。紫苑にも知らせておくよ」
「はい。お願いします」
 透流はぺこりと頭を下げたあと、つと燐の側に近付いた。
「あと――日向さんのこと。良かったですね」
「あ……うん」
 燐は照れたような笑いを浮かべた。
「昨日は夜中にお遣いありがとう」
「いえ。昴さんに褒められましたから、問題ありません」
 その、透流の大切な昴はといえば、今も朔との特訓中らしい。燐にそう語ると、透流は再び浮かない顔になった。
「俺も、誰かに鍛えてもらおうかなあ……体力なら自信あるんですけど、技術はないから」
「ああ、それなら」
 燐は軽く言った。
「紫苑に頼むといいよ。彼は体術の方も一流だから」
「そうですか?」
 透流は素直に目を輝かせた。――数日後、燐の忠告に従ったことを心底後悔することになるのだが、それはまた別の話。