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都落の巻 第二章

  一

 藤原伴雅邸、奥の一室。屋敷の主である伴雅と、彼とほぼ年齢を同じくする客とが向かい合って座している。客の名は、藤原正年。伴雅が正年と話を交わすのは久しぶりのことだった。姓を同じくするとはいえ本家と分家ではあまり交流もないし、どちらともなくお互いを避けている様子ですらあった。かつて、伴雅が妾腹であるがゆえに雅哉に抱いたような複雑な感情を、正年も己が分家であるという意識のもと抱いているのかもしれず、またきっと伴雅もそれを敏感に悟ってしまっていたのだろう。そんなふたりが顔を合わせた理由──それはとりもなおさず、派兵に関することである。瞬く間に坂東の地を手中におさめたあやかしの軍。その詳細について、ひとの側はあまりに無知であった。
 伴雅はひとつきほど前に手飼いの忍びを坂東に送り、彼らは数日前に戻ってきた。彼らの無事は喜ばしいことだが、伴雅の胸にはちらりと不審の影が差していた──もしかすると、敢えて見逃されたのかも知れぬ、と。彼はあやかしを多少なりとも知っている。いくら気配を絶つことに長けた忍びとはいえ、彼らの目を欺くことなど可能なのだろうか……。
 伴雅の胸の内など知るはずもなく、正年は忍びからの報告書をただひたすらに目で追っていた。派兵までもう日がない。少しでも情報を、と焦るのも無理はなかった。
「彼らは坂東に城を築き、その周りに村を構えているとか」
 伴雅はつぶやいた。
「全国に散り散りになっていたあやかしがそこに集まってきているそうだ。彼らはこれまでの戦では非戦闘員だったものたち──あやかしはこれ以上動かないかもしれませんな」
「……つまり?」
 言葉少なに促す正年に、伴雅はややためらいを見せた。
「つまり……、あやかしたちは坂東以北で満足したのかもしれない、ということです。全面的な戦は避けられるやもしれぬ」
 正年の表情の変化に、伴雅は口をつぐんだ。その薄い唇は、はっきりと冷笑の形に歪んでいる。
「伴雅どのは、あやかしどもに坂東を割譲してやれとのお考えか」
「…………」
「今上は何と仰せになるでありましょうなあ」
「……私は」
 正年の軽侮の眼差しに、伴雅は真っ向から対抗した。
「無駄な死を避けたいだけだ」
「既にたくさんの民が害されている。彼らの敵討ちが無駄だと? 我らひとの誇りを、土地を守ることに意味などないと、そう仰せか」
「……我らがあやかしに戦いを挑み、その血を流させれば、彼らもまた同じ論理で戦いを望むようになりますぞ」
「望むところ」
 血気にはやる若い瞳を、伴雅は冷ややかに眺める。
「さすれば……、この世からどちらかの種が消え果てるまで、争いは絶えませぬな」
「あちらはもとよりそのつもりなのでしょうよ」
 正年はせせら笑った。
「だからこそ、通る村すべてでひとを皆殺しにしている」
「…………」
 伴雅は口をつぐんだ。正年は視線を逸らし、報告書に目を戻した。
「ところで、忍びはあちらから何か盗んできたらしいですな? それは一体何です?」
「古い記述の書かれた紙の束だそうだ。かなり貴重な──そして重要な秘密かも知れぬと期待しているようだが、さてさて」
 気の乗らぬ様子の伴雅とは逆に、正年はかなり興味を持ったようだった。やや身を乗り出し、問いを重ねる。
「それは今、どこに?」
文章(もんじょう)博士の──」
「橘燐どの、か」
 正年は小さく鼻をならす。それがかつてあやかしを愛した彼への不信の現れだと悟り、伴雅はわずかに顔を歪めた。──どちらかの血が絶えるまで、と正年は言った。その果てに勝者が手にするものとは、どれほどの価値があるのなのだろう。争いの中で喪われるであろう無数の命──それよりも大切なものなのだろうか。
 伴雅は庭に目をやり、吐息を漏らした。今年、まだ都に雪は降らない。

  二

 坂東の地は、この冬既に二回ほどの降雪を経験している。そしてこの日、三回目の雪が灰色の空を舞っていた。白い粉雪の下に静かに佇む城。壬がそこを訪れるのは、珍しいことである。
「さて、本日はどのようなご用件かな?」
 夜雲の問いに答える前に、壬は床にどっかと腰を下ろした。そして、おもむろに口を開く。
「何故、見逃した?」
「…………」
 夜雲は口元に笑みを含み、静かに壬を見返している。
 壬が夜雲と相対するのは、遥の死以来であった。二三日前、断られることを覚悟の上で面会を申し入れた壬に、夜雲は拍子抜けするほどあっさりと承諾の返事を返してよこし、今日この時間を指定したのだった。
「……見逃した、とは?」
 ややあって、夜雲は口を開いた。余裕に満ちたその口調に、壬は顔を歪める。
「十日ほど前まで、付近をひとがうろついていた。気が付いていただろう」
「さあ、とんと」
「嘘だ。俺に気付けてお前が知らぬはずが──」
「壬どの」
 夜雲がふ、と笑みを消した。
「間諜に気が付いていたのなら、何故取り押さえなかったのです? 見逃したのは貴方の方では?」
「…………」
 壬が口をつぐんだ隙をついて、夜雲はさらに言い募る。
「さようにひとの肩を持たれては困りまするな……先日の『警告』を──」
 みどりがかった黒い瞳がぬらり、と光る。
「お忘れでもありますまいに」
 壬の肩が小さく震えた。「警告」──それが何を指すのかわからぬほど、彼の勧は鈍くはない。だが、あからさまな挑発に乗るほど浅はかでもなかった。
「先ほど『間諜』──と言ったな」
 壬は低い声でつぶやく。
「俺は『ひとがうろついていた』としか言わなかったのに、何故『間諜』だと?」
「…………」
 夜雲は小さく舌打ちを漏らしたが、やがて笑みを浮かべた。
「なるほど、それで私を出し抜いたつもりか?」
「まさか」
 壬は肩をすくめる。
「だが、お前が何らかの意図であの『間諜』を見逃したことがわかった──それで十分さ」
「……おい」
 話を打ちきり立ち去ろうとした壬に、夜雲は背後から声を掛けた。
「『間諜』なら、随分前から見逃しているがね」
 壬が振り向く前に、夜雲は続きを投げつける。突然の荒い口調――それが本来の夜雲の気性なのやも知れない。
「お前たちふたりという名の『間諜』を──な」
「…………」
 壬は答えを返すことなく、早足でその場を後にする。その唇の端は自らの犬歯で傷つき、わずかに血が滲んでいた。

  三

 橘燐の屋敷にそれが持ち込まれたのは数日前。藤原伴雅が坂東に放った忍びが持ち帰ったもので、あやかしの陣営から盗んだ古文書の類だという。危険なことをするものだと紫苑は眉をしかめていたが、無事だったのだからひとまずよしとするほかないだろう。紫苑の脳裏にも伴雅と同じ懸念がちらりとかすめていたようだった。
 伴雅の依頼を受けた燐は、いつの間にか一番弟子かつ唯一の弟子となった日向とともに、解読を進めている。その日、昼過ぎに作業を始めて以来すっかり集中していた日向は、ふと燐の様子がおかしいのに気付き顔を上げた。
「先生? どうかしましたか?」
「……いや」
 言葉少なに答えて首を振る燐だが、明らかにその横顔は強張っている。いつの間にか空は夕焼けに赤く染まっていたが、それに照らされてなお燐の頬は明らかに青ざめていた。日向は手を止めて、燐を見つめる。
「気分が悪いんですか? だったら少し休まれた方が……」
「大丈夫だから」
 燐は苛立ったように言葉を返すが、日向はそれでも食い下がった。燐の様子を見る限り大丈夫とは思えない。放ってはおけない、そんな気持ちが彼女を突き動かす。
「でも、最近これに掛かりきりであまり寝てな――」
「大丈夫だって言ってるだろ!」
「…………」
 珍しく声を荒げた燐に、日向は凍りついた。――それと同時に突然目の前が雲って、何が起こったのだろうと自分でも不思議に思っているうちに、頬を濡らす何かに気付いた。
「あ……」
 燐がしまったというように彼女を見つめるが、彼が何か言うより先に日向は立ち上がっていた。
「ひなた!」
 引き止めるように掛けられた声も振り切り、彼女は部屋を飛び出す。
「きゃっ!」
 廊下で誰かにぶつかったが、彼女は謝りもせずに走り続けた。どうせ、どこにも居場所はないのに――この屋敷も彼女の本当の家ではない。帰る場所など、もうどこにもない……。
 部屋に戻り、帳を締め切る。日向は床に突っ伏した。
「っく、……うう……」
 家出して、初めての涙だった。何故か、止まらない。たかだか燐が大声を出しただけなのに、こんなにも悲しいのはどうしてだろう。彼女には、わからない。――わかりたくもなかった。
 
「ちょっと」
 茫然としていた燐は、聞き慣れた声にはっと顔を上げた。
「す、昴さん……」
 腕組みをし、背後に夕日を背負った彼女の髪は、磨き上げられた銅の色に輝いている。青い目は不機嫌そうに眇められていた。燐がしまった、と思う間もなく昴は口を開く。
「日向ちゃんを泣かせたわね? どういうこと?」
「や……その……」
「あの子、あんな格好しているけど本当は女の子なのよ? わかってる?」
「わ、わかってる……つもりだけど」
「つもりじゃ駄目でしょ、つもりじゃ。女の子を泣かせる男はとりあえず死ぬべきなの! わかる?!」
「いや、それはわかんない……かな」
 しどろもどろにつぶやいていた燐だが、やがて真顔に戻った。
「実は、それどころじゃないんだ」
「それどころ、ですって?!」
 眉を吊り上げ、昴は眦を割いた。燐は今度こそしまった、と顔を歪める。
「どれだけ重要なことか知らないけれど、ひとを傷つけておいてそれどころ?! 何それ?!」
「あああああごめんなさいごめんなさい僕が悪かったよ今のは失言だ本当に申し訳ない」
 平謝りをする燐に、昴はひとまず気を落ち着かせたらしい。大きなため息とともに言葉を吐き出した。
「まあいいわ。あとでちゃんと謝るのよ」
「もちろんです、はい」
「で? 何があったの?」
「これなんだけど――」
 燐が手元に指し示したものをみて、昴はすぐにそれが何か了解したらしい。ぺたりと床に座りこみ、燐の記した解読結果を素早く読み込んでいく。――やがて、昴の顔色が音を立てんばかりの勢いで変わった。
「これは……?!」
「困ったことになった」
 燐は小さく舌打ちする。
「これ、焼き捨てる訳にはいかないのよねえ」
 茶化すような昴の言葉だが、声音は真剣だ。燐もまた、頷いてみせる。――これはひとの手に渡したくはない。渡してはならないものだ。
「紫苑が言ってた意味がわかったよ……」
 ――忍びを無事に帰らせたのには、何か思惑があるのかもしれん。
「普段は鈍いくせに悪い予感だけはあたるんだからなあ、紫苑は」
 燐はつぶやきながら、庭の向こうに沈んでいく夕日を仰ぎ見る。――日向はもう、泣き止んだだろうか。彼女の泣き顔が脳裏に過ぎり、胸がずきりと痛んだ。