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都落の巻 第九章

  一

 覚悟はしていた。そのはずだった。朔はひとではない。あやかしでもない。──生きてはいない。
 母の胎内で、朔は産声をあげることなく死んでいる。神獣の白虎がその魂をひとがたに封じて甦らせた、不自然ないのち──かりそめの、いのち。
 それでも、朔はふつうの子供とほとんど同じだった。笑い、怒り、遊び、眠り──常に傍らにいる白虎さえ、猫と戯れているようにしか見えなかった。亡き妻と同じ色を持つ朔は、燐にとって可愛い我が子であると同時に、妻のたったひとつの忘れ形見だった。ひとと色を違える朔は、橘家を継ぐことはできない。それでも良かった。そんなことはどうでも良かったのだ。ただ朔が側にいてくれれば、それだけで良かった。──それなのに。
「先生……?」
 物音で彼の帰宅に気付いたのだろう、日向の声が暗闇に響いた。燐は火を灯すこともなく、ただじっと床に座り込んでいる。涙は出ていなかった。
「お帰りですよね?」
 日向の澄んだ声。意図的に低めているのだろうが、確かに彼女の音には少年のような張りと瑞々しさがある。少女というほど繊細ではなく、とはいえ少年にしては華奢に過ぎた。
 締め切られていた帳が、日向の手で開けられる。
「先生、どうしたんですか? こんな暗いところで……」
 燐は彼女の声に背を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。
「朔が、行ってしまうんだ」
「え?」
 日向が驚いたように聞き返す。
「朔くん、しばらく御門のお屋敷にいるって聞きましたけど……そのことですか?」
「違うよ」
 燐はかぶりを振った。
「そうじゃない。……そうじゃないんだ」
 闇の中に、さくらいろをした彼の希望がぼんやりと浮かび上がる。幻だとわかっていてなお、愛しかった。
「紫苑たちと一緒に……戦を止めに(あずま)に行くんだって。僕は、一緒に行ってはいけないって」
「…………」
 背後の日向が絶句している。燐は泣き笑いのように表情を歪めた。
「それだけなら、まだいいよ。でも……朔は……」
「朔くん、は……?」
 ――そういえば、日向は朔のことをどれくらい知っていただろう。ちゃんと話したことはなかったような気がする……だが、日向は尋ねることもなかった。朔が燐の息子なのだということが判っていれば十分だというように、彼のさくら色の髪のことも特に気に止めてはいないようだった。
 燐の唇から、ぽつりぽつりと言葉が零れ落ちてくる。
「朔は、僕の息子だ。だけど、この世には生まれてこなかった息子なんだ……」
「……え?」
「僕の妻は、彼を身ごもっている時に命を落とした。その時、あの子も一緒に死んでしまったんだよ」
「…………」
 何かに憑かれたように話し続ける燐の背中には、日向の眼差しが注がれている。今彼女が一体どんな顔をしているのか、燐にはわからなかった。ただ彼女がそこにいてくれるという安心感、それだけが彼の頼りだった。
「だから……今あの子がいるのは、神獣がかりそめの命を与えたからで……、決してそれは永遠じゃなくて……」
 燐の拳が震える。
「きっと……終わりが、近い……。そんな気がするんだ……」
「…………」
 寒い。今や拳だけではなく、彼の体中がかたかたと音を立てて震えていた。寒い。冷たい。苦しい。痛い。悲しい。つらい。つらい。つらい。つらい。
「せんせい」
 ふるえが、止まる。それが何か暖かいものに触れたからだということに、燐はややあって気付いた。
「先生」
「ひなた……?」
 燐はつぶやいた。自分の背中に、彼女が触れている――いや、抱きしめている。
「朔君は、何て言っていたんですか?」
「え?」
「『もう帰らない』って、そう言ったんですか?」
「……いや」
 燐は首を横に振る。先ほどまでの恐慌が嘘のように去り、今はただ静かなものが体中を満たしている。それは悲しみに彩られてはいたけれども、決して燐を内側から食い破ろうとするものではなかった。
「じゃあ、待っていましょう」
「え……?」
 思わず振り返ると、息を飲むほど近いところに日向の顔があった。月の光に照らし出された、静謐で穏やかな微笑。
「朔くんが一度生き返ってきてくれたのは奇跡でしょう? だったら、もう一度奇跡が起きないなんて保証はどこにもないんですよ」
「ひなた」
「おれも一緒に待ちますから。ずっと、朔くんを待っていますから」
「…………」
 燐は困ったように微笑した。細めた目尻から涙が零れ出す。
「そうだね……可愛い子には旅をさせろっていうし。ずっと手元に留めておこうとするのも、不毛かもしれないね」
「ええ。それに、朔くんには最強の守り神さまがついていますよ」
「守り神? 白虎?」
「違います」
 何故か、不意に燐はさくらと出会った夜を思い出していた。雪の降る、月のない寒い冬の夜。今夜も寒いけれど側には火鉢があって、雪は降っていない。そして、何よりも月が明るい……。
 その幻想が、打ち破られた。
「燐さんの奥さんが、絶対に朔くんを守ってくれます!」
 燐は大きく目を見開く。やがて、それがじわりと潤んだ。――さくら。君に、話がしたいんだ。
「先生?」
 日向の声を塞ぐように、燐は彼女の小さな体を抱きしめた。
 ――君はどんな顔をして僕を見つめるだろう。
「一緒に、朔を待ってくれるのかい?」
「はい!」
 ――君は、日向をどう思うだろう。
 燐はごく小さな声でつぶやく。
「……君には勝てないな」
 ――君は、僕をどう思うだろう。
 
 
  二
  
 宮中から紫苑に何らかの処分が下される前に、紫苑らは都を抜け出す必要があった。夜闇にまぎれて、といきたいところだが今宵は月が明るい。
 準備がほぼ整った頃、桔梗はそっと朔に言葉を掛けた。
「あの、朔くん」
「何です?」
 いつもと変わらぬ屈託のない笑み――だが、どこかに影が差している。桔梗は言いづらそうに口を開いた。
「……お父さんに、ご挨拶はしなくていいの?」
「…………」
 笑みがすうっと消える。朔はつらそうに目を伏せた。
「今会ったら、お互いにかえってつらくなるような気がして……」
「…………」
「どちらにせよ、僕は本当の意味で生きている訳じゃない。この命は、所詮借りものなんです。いつかは返さなくちゃならない――しかも、それはそんなに遠い話じゃない」
 朔はきっぱりと言った。自分の命については、既に覚悟ができているのだろう。しかし……。
「父さんにとっては、僕が二度死ぬようなものだから……つらいと、思う。僕が来て……かえってつらい想いを……」
 視線を落とす朔の頭を、大きな手が撫でた。
「! ……紫苑」
 気付いた桔梗が声をあげる。朔は紫苑を振り仰いだ。
「紫苑さん……」
「燐は、そんなに弱い男ではないぞ」
 紫の瞳は、柔らかく微笑んでいる。
「あいつはお前に会えて本当に喜んでいた。それだけは、本当だ」
「……あの、さっきは父が失礼なことを」
 朔は表情を曇らせたまま頭を下げた。
 ――君にはわからないよっ……! 子を持たない、親でない君には、わからない!!
 激昂した燐の吐いた言葉。確かに、紫苑は子を持たない。半妖である限り、彼は子を持てない。親にはなれない。それは彼の望みとは関係なく、どうしようもない運命だった。紫苑はそれを恨んだことはない。少しだけ惜しいな、と思ったことはあるが、どうしようもないことだ。できることなら――桔梗の子を見たくはあったのだが……。
「別に、気にしていないさ」
 紫苑はあっさりとそう言った。
「燐はわかっている。頭では全てわかっていても、それでも納得できなくて、つい言い過ぎてしまったのだろう。その程度の過ちは、誰にでもあることだ」
「……ありがとうございます」
 朔はほっと息をついた。桔梗は心配げに紫苑を見つめる。
「このまま、行ってしまってもいいんですか? ……燐さんと、仲直りしなくてもいいんですか?」
「…………」
 紫苑は黙ったまま月を仰いだ。少しずつ地平線に近づいていく光――夜明け前には都を出たい。
「そうだな……本当なら、話をしてから行きたかったが……」
 紫苑の胸を襲う、漠然とした不安。何かが大きく変わってしまうような……何か大切なものが失われてしまいそうな……何か恐ろしいことが待ち受けていそうな……。
 ――自分は、再び燐にまみえることができるのだろうか? 不意に浮かんだそんな疑問に、紫苑は小さく身震いをした。
「紫苑?」
 だが桔梗には何も言わず、紫苑はただ首を横に振った。
「帰って来たら、ゆっくり話をしよう。それからでも遅くないさ」
「でも……」
「こちらは準備できたわよ」
 昴の声に、三人は振り返った。旅装束に身を包んだ昴と、透流。昴はその髪が目立たぬよう、白い布で頭を覆っている。
「そっちはどう?」
「こちらも大丈夫だ」
 紫苑は桔梗を遮るように一歩踏み出した。
「そろそろ出発しようか」
「…………」
 桔梗は橘の屋敷のあるほうを見遣った。空はかすかに白み始めている。
「透流、お前は昴を乗せてその栗毛の馬に乗れ。私は桔梗とそっちに乗る。朔は――」
「あ、僕はとらと一緒に」
「わかった。じゃあ、桔梗」
 差し出された手を、桔梗はぎゅっと握った。
「紫苑」
 馬に乗せるために抱きかかえられた瞬間、桔梗はささやいた。
「大丈夫。私が絶対に、紫苑を守るから」
「…………」
「ずっと、側にいるから」
「……ああ」
 紫苑は微笑んだ。
「私もだよ」

 彼らは奔る。夜明け前の都大路に響く、二頭の馬の蹄の音。そして音もなく駆ける真っ白な虎。彼らが東の門を通り抜けようとした時、透流があっと声をあげた。何事かと紫苑は首をめぐらせ――息を飲んだ。
「燐……!」
「紫苑! 朔!」
 彼はたったひとり、門の側に佇んでいた。駆け抜けていく彼らとすれ違ったのは一瞬、だがその光景は互いの瞳に強く焼き付けられる。
「僕は、君たちを、待っているから!!」
 燐は叫ぶ。――それが、自分の役割なのだと。いつになってもいい、必ず帰ってきてくれると信じて、いつまでも待ち続けるだろう。
「父さん……」
 朔の眦から涙が溢れ、白い毛並みの上にはらはらと落ちる。虎はそれに気付かぬように、ただ前を向いて駆け続けていた。