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都落の巻 第三章

  一

 夜を待たずして、都に初雪が舞った。御門の屋敷の庭も、徐々に白い化粧(けわい)を施されていく。縁に座ってその様子をぼうっと見ていた日向に、背後から屋敷の主が声を掛けた。
「そのようなところで、寒くはないか」
 門の前で佇んでいた日向を紫苑が迎え入れたのが、先刻。泣き腫らしていた目はようやく治ってきたようだが、顔色は優れないままだった。
「だいじょうぶ……です」
 答えた日向は、しかしここに来た時の素足のままでいかにも寒々しく、指の色も真っ白である。紫苑は眉を寄せた。
「お前、橘の屋敷を出る時に何も履いて来なかったのか」
「…………」
 日向はじっと黙っている。紫苑はそれ以上追求することもなく、彼女に聞こえないように小さくため息をついた。

 ――ひなたちゃん、入ってもいいかい。
 自室に籠もっていた日向は、彼の声を聞いた瞬間どうしようもなく怖くなって――返事もせずに、そのまま逃げ出した。日が翳ってひとけの減った都大路を走り抜け、そして気がつくと紫苑の屋敷の前にいた……。
「どうして、おれが外にいるって判ったんですか」
 無表情な声の日向の問いに、紫苑は苦笑を浮かべた。
「私は陰陽師だぞ。気配くらい読めないわけがない」
「あ、そうか」
 日向は素直に頷き、そして再び視線を庭に向けた。白に覆われ、寒そうに震える裸の枝。それが何故か、今の自分と重なった。
「飯、食うか」
 紫苑に尋ねられた日向は、膝を引き寄せて顎をその間に埋めた。
「いいです。何だか、申し訳ないし……」
「そうか、食うか」
「えっ、おれいらないって……」
 驚いて振り返った日向に、紫苑は淡々と告げた。
「ここは私の屋敷だ。私の言うようにしてもらう」
「……じゃあ、最初から『飯食うか』なんて聞かなくても良かったんじゃ」
 ぶつぶつとつぶやく日向を無視し、紫苑はくるりと踵を返す。そして、静かな声があたりに響いた。
「燐が迎えに来たら、どうすればいい」
「…………」
 日向は額を膝に押し当てる。
「来ませんよ……そんな、最近忙しいのに」
「いや、来る」
「来ません」
「来る」
「来ません」
「来る」
「来ま……」
「必ず来る」
 紫苑はきっぱりと言い切った。
「あいつはそういう男だからな」
「…………」
 日向は顔を上げないまま沈黙した。紫苑は声を和らげる。
「帰りたくないのか」
「……はい」
「じゃあ、気が済むまでここにいろ。飯さえちゃんと食って、夜はちゃんと寝るというのなら……ここにいてもいい」
「……はい」
 日向の返事を確認し、歩み去る紫苑。その背に、日向はつぶやいた。
「ありがとう……」
 自分は橘の屋敷に帰ってはいけない。帰るわけにはいかないのだ――。

  二
  
 紫苑の予想に反して、その夜燐が御門邸を訪れることはなかった。しかし、夜半過ぎ――ひどく慌てた様子の透流が門を叩いた。
「どうしたんだ、こんな時間に」
 既に眠っていたところを式神に起こされ、紫苑は不機嫌もあらわに透流に相対した。桔梗や日向の目は覚まさせずにすんだようだが、彼自身も決して心地良い寝覚めというわけではない。
「燐さんに頼まれて……えっと、手紙を」
「…………」
 差し出された手紙を受け取り、紫苑はしばし視線を落として考え込んだ。――燐らしく、ない。もし紫苑に用事があるのなら、彼は彼自身で足を運ぶだろう。この時間ならなおさらだ。彼に動けない理由でもあるというのか……。紫苑は(ふみ)を解き、さっと紙面に目を走らせた。

 ――伴雅どのの忍びが持ち帰ったのは例の「封印」に関する資料だったようだ。まだ途中までしか読み解いてはいないけれど、とりあえず早く総てを判読する必要があると思う。そのまま伴雅どのに伝えるのがまずい内容なら、話し合って対応を決める必要があるかもしれない。
 正年どのがいたく結果を心待ちにしておられて、今宵も屋敷に遅くまでいらっしゃっていた。その接待と作業が遅れていることの弁明に追われて、君に連絡をするのがこんな時間になってしまった。本当に申し訳ない。ただ、以上のことをひとまず君に知らせておきたかった。
 それから――……。
 
 紫苑は末尾まで目を通すと、強張っていた口元をわずかに緩めた。
「透流」
「はい」
「燐に伝えてくれ――『日向はここにいる。しばらくはとどまるだろう』とな」
 文の最後、まるで付けたしのように添えられた一文。「それから、日向はそこにいるだろうか」――屋敷を飛び出した彼女がどこに行くのか、燐はおそらく予想していたのだろう。正年の来訪さえなければ迎えに来るつもりだったのか……真意はわからないが、深夜になってまでわざわざ透流を寄越したのは、日向が本当に紫苑の屋敷にいるかを確かめたかったからだろう。燐が自ら来なかったのも、もしかすると日向の心情を思い遣ってのことかもしれない。手紙の前半の内容はもちろん深刻で大切なことだが、何もこの深夜に遣いを寄越すほどの話ではない――今のところは。
「全く、自分で来ればいいものを」
 苦笑してつぶやく紫苑に、透流もつられたように笑った。
「紫苑さんはお見通しなんですね」
「燐とは長い付き合いだからな。……お前も」
 紫苑は面白そうに透流を見つめた。
「その様子では、気付いていたようだが」
 透流は肩を軽くすくめてみせる。
「そりゃあ、わかりますよ。日向ちゃんがいなくなって、燐さんが明らかに落ち込んで――お客さまが来ていらっしゃる時も、何やらそわそわとしておられましたから」
「昴は何か言っていたか?」
「『女の子を泣かす男はとりあえず死ぬべきだ』って」
「……燐が昴に殺されないよう、守ってやってくれ」
「はい」
 苦笑した透流に、紫苑はふと問い掛けた。
「ところで――ふたりに何があったのか、お前は知っているのか?」
「いいえ」
 透流は首を横に振る。紫苑はため息をついた。
「そうか……」
 眠気がまだ頭にまとわりついていて、どうもすっきりとしない。――日向のこと、燐のこと、「封印」のこと……。
「紫苑さんはもっと『封印』のことに注目すると思っていたんですけど……日向ちゃんを心配していただけて、何だか嬉しいです」
 ぽつりとつぶやかれた透流の言葉に、紫苑は顔を上げて微笑んだ。
「根のところは、同じだからな」
 自分が戦うのは、愛するものを――「家族」を守るためだ。敵ばかりに目を向け、その守るべきものたちが苦しんでいるのを看過しては意味がない。
「どんな理由であれ、燐が苦しむのも、日向が泣くのも、私は嫌だ」
「……そうですね」
 透流がこの深夜にわざわざ御門邸まで来た理由も、結局は同じなのだろう。燐のため。日向のため。そして、彼らを心配する昴のため。
「それでは、おれもそろそろ戻ります」
「ああ。気を付けてな」
「はい。――それから」
 透流は一瞬だけまっすぐに紫苑を見つめ、やがてぺこりと頭を下げた。
「日向ちゃんのこと。よろしくお願いします」
「……ああ」
 紫苑は頷く。――明日、燐の屋敷に出かけている間にでも、桔梗には日向と話をしていてもらおうか……、そんなことを思いながら。
 
 
  三
  
「おかえりなさい」
 透流を送り出して閨に戻った紫苑を、桔梗の声が出迎えた。紫苑は驚いて尋ねる。
「起きていたのか」
「だって……」
 暗闇の中、手探りで床を探していた紫苑の手を、桔梗のあたたかな手がとらえる。知らず知らずのうちに、随分体が冷えてしまっていたようだった。
「紫苑がいないと、寒いんですもの」
「すまん」
 隣にもぐりこみ、互いの体温を分け合う。桔梗は紫苑の胸元に頬を寄せ、小声で尋ねた。
「日向さんのことですか?」
 ――日向がしばらくうちにいるそうだ、と。紫苑から夕餉の席で告げられた桔梗は、紫苑にも日向にも何も聞かなかった。それでも、日向と橘邸に住む誰かが――おそらくは燐と、何かがあったのだろうと察するのは難しいことではない。
「……それも、ひとつだ」
 紫苑はとつとつと燐の手紙の内容を話した。黙って耳を傾けていた桔梗だが、やがて深いため息をつく。
「そうですか……『封印』の記述が、ひとの手に……」
 彼女の表情は見えない。だが、その声音は暗く沈んでいた。
「まだ渡ってはいない。渡ってはいないが……」
「でも、時間の問題でしょうね」
 桔梗はすっと体を起こした。帳の隙間から洩れるわずかな月の光が、彼女の銀髪を星屑のようにきらめかせる。
「紫苑が以前言っていた通り、忍びのものを無事に帰らせたのは、きっとわざとでしょう。――『封印』のことをひとの側に知らせるため」
「だが、やつらはあれを手中におさめることを目的にしているはずだ。何故、わざわざそんなことを」
「…………」
 紫苑のもっともな疑問に、桔梗は俯き加減に視線を落とした。――確かにその通りだ。夜雲らが「封印」をひとを滅ぼすための道具と考えるなら、それをひとに教えてしまっては何ともならない。そればかりか「封印」を巡る余計な争いがひとつ、生まれるだけではないか……。
「まあ、いい」
 紫苑は上体を起き上がらせ、桔梗の背中をふわりと包み込んだ。
「明日、私は燐に直接話を聞いてくる――日向のことも含めて、な」
「……はい」
「お前は日向の側にいてやってくれ」
「そのつもりです」
 振り返った桔梗の唇を軽く啄ばみ、紫苑はその長い髪を指に絡める。愛しい、つま。彼女が側にいてくれさえすれば、きっと何にでも立ち向かえると思った。「封印」も、運命も――何も恐れはしない。
「紫苑……」
 彼の名を囁く桔梗の声は甘く、紫苑の胸の深い場所を痛みにも似た心地良い痺れが走る。紫苑はただきつく、彼女を抱きしめた。