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都落の巻 第一章

  一

 派兵の予定は年明けにずれ込んだ。大将軍の人選がもつれたのも一因だが、それだけではない。暫し(いくさ)から遠ざかっていた都にとって、それなりの軍容を整えるのは甚だ困難だったのである。しかも、相手はひとにはない夢幻の力を使うあやかし。陰陽寮は急遽、術者を増やすよう命を受けた。簡単な術で良い、とにかくあやかしに対抗できれば、と。本当にあやかしを知る者にとっては現実味のない話であったが、ひとの側とて必死なのだった。何しろ、あやかしの軍勢は打ち負かした相手総てを皆殺しにしてしまうのだから。
 大将軍に任ぜられたのは藤原家の分家筋で、関白時雅の従兄弟の息子にあたる藤原正年(まさとし)であった。若い、才気走った青年で、野心に満ちている。藤原の姓を名乗りながらも権勢の表舞台に立つことのない分家──ここで手柄を立てれば、という思いもあったことだろう。とまれ、正年の元に地方の農民あがりのものや陰陽師、また陰陽道の見習いなどが集められた。その数、数千。あやかしの軍は千を下回るというから、数の上では既に圧倒的であった。
 派遣を予定されている陰陽師の中に、御門紫苑の名はない。彼の、その余人を遥かに凌ぐ能力を鑑みれば不自然なことではあったが、藤原伴雅が推挙を取り止めたことで、その名が表立って取り沙汰されることはなくなっている。
 暗い話題が続く都に、珍しく祝い事が起きた。それは、年明けを待って藤原蓮が橘加乃を正妻として迎え入れるという、若いふたりの新しい門出を知らせるものであった──。

 加乃は、ぼんやりと東の方角を見ていることが多くなった。橘の屋敷を訪れた蓮は、その背中をじっと見つめている。近頃では、数日にあげず蓮は加乃の部屋を訪れていた。
「兄君のことが……心配ですか」
「…………」
 加乃は振り向くことなくうつむいた。蓮の言う兄とは、癸のことである。本当の兄ではないが、蓮は彼をそう呼ぶことにしている。──彼が都を離れる直前、蓮に見せた真摯な青い眼差しは、まだ記憶に鮮やかだ。――加乃ちゃんを、よろしく頼みます。しあわせにしてあげて下さい。
 彼は……加乃を愛していただろう。それが肉親に寄せる情の類いだったか、あるいは男と女のそれであったか──そこに踏み込んではいけないような気がした。
「蓮さん……」
 加乃がつぶやいた。
「神さまがいるならなぜ、ひととあやかしを同じ世界にお作りになったのでしょう」
「…………」
 蓮が言葉につまっていると、加乃は振り向いてかすかに微笑んだ。
「こういうの、責任転嫁って言うんですよね?」
「加乃さんは学びが早いですね」
 重い空気を吹き飛ばすように茶化す蓮に、先生がいいから、と加乃は照れたように笑う。その脳裏には、蓮の知らない昴の姿もあった。
 蓮が橘邸で会ったのは燐と透流、日向のみ。朔や昴は姿を見せていない。壬や癸を知る蓮が今更驚くわけもないような気もするが、何となく彼らは避けずにはおれないようだった。加乃にはまた、それが悲しい。誰もが彼女の大切な家族であることには変わりはないのに──。
 皆が同じ、ひとであったなら。あるいはあやかしであったなら。
「でも」
 蓮が不意に口を開いた。加乃はその黒い瞳でじっと彼を見つめる。蓮は穏やかに、微笑っていた。その笑みが、近付く。
「僕は貴方があやかしであったとしても──やはりこうしていたかったと思います」
 温かな抱擁、加乃はそれに身を任せる。
「誰かを愛するのにひともあやかしもないのだと、自分が恋をして初めて気付きました」
 加乃は蓮の腕の中で、はにかんだように微笑する。今は遠く離れた兄が、彼女を心配しなくてもいいように──いつか帰ってくる彼を、笑顔で迎えられるように。

  二
  
 霜月に入ってから、あやかしの進軍はぴたりと止んだ。坂東を掌握して満足したかのようにも見えるが、決してそうではないことを紫苑は知っている。彼らの目的は、ひとの滅亡に他ならない。そのために――紫苑を利用しようとしている。
 関白を暗殺し、その罪を紫苑に被せることで彼をひとの世から放逐されるよう仕向ける。その策が白虎の妨害によって失敗したからといって、簡単に諦めるとは思えない。必ずや次の手を考えてくる――それは紫苑にとって予感などというおぼろげなものではなかった。相手はまだ見ぬ白蛇族。知らぬ相手に狙われているという状態は、知らず知らず精神に大きな負担が掛かっていく――それでも、彼は表向きいつも通りの生活を続けていた。今は宮中へも足を運ばず、自分の屋敷で時を過ごすことが多い。その傍らには、常に桔梗の姿があった。
「紫苑ー、朝ですよう」
 近いはずなのに遠くから聞こえてくるような、優しく甘い声。紫苑はそれから逃れるように身を丸め、それでいて声の主から離れるつもりは毛頭なく、頬を強く押し付けた。
「……寒い。眠い。寝る」
 紫苑をその両の(かいな)で押し包みながら、桔梗は唇を尖らせる。
「朝ご飯冷めちゃうじゃないですか。折角小雪さんたちが用意して下さったのに……」
 昨年も出会った式神の名を挙げて紫苑を促すが、それでも彼は身動きひとつしなかった。業を煮やした桔梗は、ふたりを覆っていた寝具を蹴り飛ばした。
「ほら紫苑、起きて!」
「寒!」
 紫苑はぶるりと体を震わせると、暖をとるようにさらに桔梗に密着した。彼女を寝具の代わりにしたいとでもいうように、彼女の全身を自身の上にかき抱く。彼女の頬がかっと火照った。
「し、紫苑……っ」
 紫苑の大きな手に背や腰をゆっくりと撫でられると、桔梗の体から力が抜けていく。それに気付いた紫苑は、小さく含み笑いを漏らした。
「お前の起こし方は温いなあ」
「…………」
 彼の声音の中にある寂寥。それに気付いた桔梗は、はっと息を飲んだ。――紫苑、起きやがれ! 桔梗もだ、お前らが起きねえとこの家の一日が始まらねえんだよ。そう怒鳴り込んでくる男は、今はいない。――兄さん、たまにはゆっくり寝かせてあげたら。そうとりなす彼の弟も、遠く離れてしまった……。彼らは今、どこでどう過ごしているのだろうか。夜雲とはどのようなやりとりがあったのだろう。白蛇族のことも、少しは知っているのだろうか。何よりも、元気でいるだろうか――辛い想いをしていないだろうか――。
 黙りこんだ桔梗の髪を梳いていた紫苑は、やがてぽつりとつぶやいた。
「……仕方ない、起きてやるか」
 桔梗を体の上に載せたまま腹筋だけを使って起き上がり、紫苑は彼女の頬に手をあてる。
「桔梗」
「……はい」
「そんな顔をするな」
「…………」
 俯き加減になる彼女に、紫苑は苦笑したようだった。
「お前は彼らの御子だろう。お前が信じてやらないでどうする」
「信じてはいます。でも……心配で……」
「ああ、そうだな」
 紫苑は彼女を強く抱きしめる。
「だが、あいつらはかつてほとんどの水龍が滅亡した時にも生き残ったんだぞ。きっと並大抵の生命力ではない」
「それは、そうですが……」
「それに」
 ふ、と紫苑の表情が引き締まった。紫電の瞳が遠くを見つめる。
「夜雲にとって、あいつらは我々への切り札だ」
「え……?」
 桔梗が驚いたように顔を上げた。紫苑は強い眼差しで虚空を睨んでいる。
「あいつらは人質にするには強すぎるが、我々への切り札に使うことはできる。だから、今は――大丈夫だ」
「…………」
 絶句した桔梗を膝の上に座らせたまま、紫苑はすいと視線を逸らして庭を見遣った。
「なあ、桔梗。また、冬が来たな」
 桔梗の答えも待たぬまま、紫苑は言葉を紡ぐ。
「ひとは花を見て儚いといい、去りゆく季節を惜しんで歌などをこしらえているが、実のところ花も季節も、必ず次の年にまた巡ってくる。落ちた葉も土に還り、枯れた木も根元に若芽を吹かせる……何一つ無駄になる生命などなく、姿かたちを移ろえながらも、この世のどこかに存在し続けている。歌詠みが来年の花に巡り合えるか、季節を迎えられるかはわからぬものを……」
 桔梗は紫苑を見上げる。彼の口元に浮かんだやんわりとした笑みは、ひどく切なげであった。
「本当に儚いのは――我らかもしれぬな……」
 晩秋――初冬の冷たい風が、彼らの側を吹きぬけていく。季節は確実に、移ろうていた。
 
 
  三
  
 橘邸の離れ。蓮をはじめとする来客が決して足を踏み入れない場所に、小さな悲鳴が響いた。
「ああっ、またお顔に傷を作って……!」
「おおげさね、すぐに治るわよ」
 悲鳴の主は透流、うるさげに眉をひそめるのは昴である。
「鍛錬鍛錬って、何をなさっているんです?! 朔くんも、ちょっとやり過ぎなんじゃないですか?!」
 透流に詰め寄られた朔は、申し訳なさそうに頭をかいた。
「ごめんなさい、僕も加減が良くわからなくて……」
「いいのよ、朔。あれくらいがちょうどいいわ」
 不敵に微笑む昴の横顔に、透流はため息をもらした。
 ――鍛錬がしたい。そう昴が言い出したのは、秋も盛りの頃であった。彼女は玄武の巫女であるが、あくまでもその身はひと。扱える力の大きさは限られているし、制御も甚だ不安定だ。力の器は生まれ持った大きさからたいして変わらないかもしれないが、精神と肉体の鍛錬でその不足を少しでも補えるのではないか。彼女はそう考えたのだという。
 当然透流は反対したのだが、頼まれた本人である朔が半ば押し切られるようにしてその頼みを受けた。以来、ふたりはしばしば都の外れまで出かけては修行と称した特訓を行っているのだが、帰ってきた昴はたいていふたつみっつの傷を作っていて、それを見るたび透流は胸を痛めるのである。
「でも、昴さんは本当にお強くなられましたよ」
 朔はまっすぐな眼差しでそう言った。
「身のこなし、集中力――見事です」
「褒めても何も出ないわよ?」
 照れたように言う昴の隣で、透流は彼女の手当てに余念がない。朔はそんな彼の姿を見てふ、と微笑んだ。
「昴さんが強くなったのは――透流さんのおかげかもしれませんね」
「え?」
「な、何でそこに透流が出てくるのよ?!」
 慌てる昴と、怪訝そうな透流。朔は笑みを深めた。
「守るものがあるひとは、強くなれますから」
「昴さん……」
 真っ赤になった昴を見、透流はばっと朔に向き直った。
「朔くん、おれも鍛錬をしたいですっ! おれも昴さんのために……」
「ば、馬鹿、何言ってんのよ?!」
「あははははは」
 朔はお腹を抱えて笑い転げる。その胸の上に白い猫がひらりと飛び乗り、いつになく優しくにゃあと鳴いた。――朔の胸は、温かかった。