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四天王の巻 第四章

  一

 藤原時雅の屋敷には、重く湿った空気が垂れ込めていた。その中を、三つの影がするすると移動していく。ひとつは時雅の子、伴雅。ひとつは時の陰陽博士、御門紫苑。そして最後は一回り小さく、華奢な女であった。
 先導する伴雅は、やはり末尾を行く女が気にかかるようで、ちらちらと肩越しに視線を送っている。紫苑の白い直衣の奥に見え隠れする、銀の髪と水晶色の瞳をもつ白拍子装束の女──見覚えのあるその顔に驚く伴雅に、紫苑は悠然と「式神です」と言い切った。確かに、烏帽子に押さえられた前髪に隠れて額の文様や尖った耳などは見えていないが、伴雅は確信を持ってその女を例の水龍だと断定できた。それでも、紫苑には何か思惑があるのだろう、と伴雅がそれ以上追及することはない。かつて紫苑の手によって救われた自分、そして亡兄。伴雅はこの禁忌の存在とされる陰陽師を、いつの間にか信頼するようになっていた。
「伴雅どの」
 紫苑の声に、伴雅は足を止めて振り返った。辺りに家人の姿はない。おそらく、なりを潜めて紫苑らの姿を窺っているのだろう。彼ら一般の人間たちは、陰陽道やあやかしについてあまりにも無知だ。あやかしの血を引くと言われる紫苑が案外ふつうに見えて、驚いているかもしれない。実際、紫苑がひとと違って見えるとしたらその紫電の瞳だけであって、他はひとと全く変わりがない。妖力がどうのこうのという話を聞いたような気もするが、そんなものは見た目ではわからない。とはいえ、彼の従えている少女が最強のあやかしだと聞いたら、皆どうするだろう……。
 伴雅の思考をよそに、紫苑は眉を潜めて周りを見回した。
「少し、妙な感じが致します」
「妙な感じ……とは」
 伴雅もつられて中空を眺めるが、別に変わったようすはない。視線を戻すと、紫苑は背後のあやかしに何事か囁いていた。それを受けて、彼女は何か返答している。──そのやりとりは何気ないものなのに、甘やかで、どことなく色を含んでいるようですらあった。
 やがて、紫苑は伴雅に向き直った。
「そういえば、時雅どのが床に就くきっかけになった例の桃……置いてありますか」
「え、ええ。蛇はどこかに逃げ去りましたが」
 うなずく伴雅に、紫苑は満足げに微笑した。
「わかりました。まずはそちらから拝見しましょうか」
「は」
 伴雅は踵を返し、方向を変えて歩み始める。
「…………」
 紫苑はそれに付き従いながら、時雅の眠っている大殿(おおとの)の方をちらりと見遣った。薄く瞳をすがめて見ると、何か不吉な気配が漂っているようでもある。一体どこがおかしいのか、言葉にならないのがもどかしい。ただの勘かもしれないが、それは無視してしまうにはあまりにも強すぎた。
「紫苑?」
 いつもとは一風変わった、白拍子の装束に身を包んだ桔梗に不思議そうに見上げられ、紫苑は軽く首を横に振った。
「……行こうか」
 桔梗には紫苑のいう「嫌な感じ」とやらがわからない。妖気なら自分が感じられないはずがないから、何かが潜んでいるというようなことはないのだろう。だが、紫苑にはきっと何か心当たりがあるに違いない。桔梗は信頼と愛情を込めて彼の背中を見つめた。──だいじょうぶ、私は必ず紫苑を守ってみせる。

  二

 一室に通された紫苑の背後で、伴雅は厳重に帳を閉める。――やはり時雅の身に起きたことは、ほとんど誰にも知らされていないようだ。紫苑自身も燐に確かめてみたが、殿上でも軽く体調を崩した程度の話しか伝わっていないとのことだった。
「これです」
 伴雅は部屋の奥から一抱えほどの木箱を取り出した。蓋を開けると、芳醇な桃の香りがふんわりと漂ってくる。
「伴雅どの」
 紫苑はその木箱を警戒の眼差しで見つめた。
「その桃が届けられたのは、いつのことでしたか」
「十日ほど前ですね」
「……それなのにまだ、桃は腐っていないと」
「あ!」
 伴雅は小さく叫んだ。紫苑の指摘されてはじめてその異常さに気付いたのだろう、腕の中の箱を恐ろしげに見下ろす。紫苑はゆるく腕を組んだ。
「呪の本体が蛇で、桃はただそれを運ぶ器かと思っておりましたが……あながちそうとも言い切れぬかもしれませんな」
「と、言いますと?」
「まだ他にも術が掛けられているかもしれません。つまり――時雅どのを病に伏せさせることのほかに、何か目的があるのかもしれない」
「…………」
 紫苑は伴雅に近付き、木箱に手を伸ばした。――その途端、
「痛っ……!」
「紫苑!!」
 桔梗が声を上げ、伴雅も息を飲んだ。紫苑の手が、木箱に至るまでの空中で何か白い薄い壁のようなものに弾かれたのである。紫苑は目を細めて自らの指を見つめた。小さく裂けた傷から、赤い血がぷくりと浮いてくる。
「大丈夫ですか?!」
「たいしたことはない」
 紫苑は桔梗にそう告げると、その長い指を軽く唇に含んだ。そしてそのまま、何事かを考えているようすである。
 桔梗はくるりと振り返り、木箱を見遣った。
「桔梗!」
 紫苑の声に構わず、手を伸ばす。
「あれ?」
 彼女の手は拒まれることなく、木箱のふちに触れることができた。そもそも、伴雅は何の問題もなく木箱を抱えているのである。桔梗はそのまま中身を覗き込んだ。大きな、熟れた桃である。見た目は何の変哲もないが、いったん刃を入れておきながら十日間以上腐らずにみずみずしさを保っているというのは、やはりただの桃ではない。
「その術……私だけを対象に掛けられているのか?」
 紫苑は自問するようにつぶやいた。
「桔梗。その桃、細かく刻んでみてくれ」
「はい」
 桔梗は頷くと、伴雅を見上げた。
「すみません、しっかり持っていて下さい」
「わ、わかった」
 わずかに気圧されながらも伴雅が頷くと、桔梗はわずかに微笑んでみせた。
「最初にお会いした時から思えば、本当にご立派になられましたね」
「あの節はそのほうに助けられた」
 伴雅はぽつりとつぶやく。
「あれからどれほどの時間が経ったのか――」
「もうすぐ二年ですよ、伴雅どの」
 紫苑の声に、伴雅は深く頷いた。
「たった二年――いや、もう二年か」
「では、いきますよ」
 桔梗の声に、伴雅は木箱を抱えなおした。彼女の瞳が、淡い光を宿す。次の瞬間、木箱の内側を薄いきらめきが踊った。小さな、水の刃である。
「おお」
 伴雅は驚嘆の声を漏らした。刃はまるで意思あるもののように縦横無尽にかけ巡り、桃の果肉を切り裂いていく。やがて、部屋中を甘ったるい匂いが満たした。
「何か、桃の中に入っているか」
 桔梗は再び木箱を覗き込んだ。中には細かく刻まれた桃。それより他には何もない。
「何も……ないようですね……」
「そうか」
 ひとの術者が呪を掛けるときには、ほとんどの場合何か媒介を用いて力を増幅する。たとえばそれが呪符だ。そういったものが見つからないということは、やはりこれを為したのはあやかしか――。
「紫苑どの?」
 伴雅が不安そうな声で尋ねる。紫苑は顔を上げた。いつの間にか血の止まった指を、唇から離す。
「伴雅どの。この桃に掛けられた、私を排除する術――何やら嫌な予感が致します。もしかすると、この呪を為したものは、私に対しても良からぬ企てを持っているかもしれませぬ」
「なんと」
「しかしお父上はお救い申し上げねばならぬ。そこで、です」
 紫苑は一度、唾を飲みこんだ。
「我が義父、蘇芳に遣いを出されてはいかがでしょうか。私のたっての願いだと言えば――いえ、そうでなくとも関白どののお頼みとあらば、よもや断ることはありますまい」
「なるほど」
 伴雅は何度もうなずいた。
「それではそう致しましょう」
「で、この桃」
 紫苑は視線で木箱を指した。
「いただいて帰ってもよろしいですか。調べたいことがありますので」
「構いませんが……さて、そこの彼女に持たせるのは酷なことですし」
「焔」
「はい」
 紫苑がその名をつぶやくと、どこからともなく赤を全身に纏った男が姿を現した。伴雅は一瞬怯んだものの、その腕に素直に木箱を渡す。
「これは強力な呪が編んでありますな」
 焔がぽつりと言った。その赤い瞳はらんらんと輝いている。
「少し、調べてみましょう」
「頼む」
 焔は軽く一礼すると、荷を抱えたまますっと姿を消した。伴雅がふう、と息をつく。
「お力になれず、申し訳ない」
 謝罪する紫苑に、伴雅は首を横に振った。
「とんでもない。……こちらこそ、お越しいただけて良かった。蘇芳どのにお頼みした後の首尾は、またお知らせ致しますゆえ」
「吉報をお待ちしておりますよ」
 告げて踵を返そうとする紫苑に、伴雅は慌てた様子で声を掛けた。
「紫苑どの、先日の大将軍の話は――」
「申し訳ないが」
 紫苑は穏やかな声で遮った。
「私は武人ではない。争いによって道を決するのは、性に合いませぬ」
「し、しかし……」
「伴雅どの」
 紫苑はもう一度彼を遮った。
「貴方もご存知の橘燐――彼は私の古い友人だ。そして貴方とも。友人になれれば良いと思っている。貴方が望まれるかどうかはわからないが……」
「……紫苑どの」
「しかし、私の妻は」
 桔梗がはっと顔を上げる。
「あやかしです。そして他にも、あやかしの友人たちがいる。そのどちらかを選ぶことなど、私にはできない。――どちらも、私の大切なものなのだから」
「…………」
 伴雅が桔梗を見遣り、合点がいったというように頷いた。
「そうですか。それでは、私は貴方の『友』として――」
 紫苑の目の前で、伴雅は微笑んでいた。
「貴方を大将軍に推挙するのは、やめておきましょう」
「――かたじけない」
「いいえ……」
 自分のこと、兄のこと。それらを通して、伴雅は紫苑という男について学んだ。彼の寂しさ、悲しさ、強さ、そして――優しさ。かつて仇を為した自分に対して「友」になりたいとまで言う、その懐の深さに、伴雅は一種の感動すらおぼえていた。それはあやかしであるとかひとであるとか、まして半妖であるとかいうことには全く関係がない。御門紫苑という男はそういう男なのだ。ただそれだけのことだろう。
「戦いが終わったと、早く兄に報告できるよう――最善の力を尽くしましょう」
 つぶやく伴雅に、紫苑は厳しい表情のままうなずいた。