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四天王の巻 第五章

  一

「なるほどねえ……」
 遥の話を聞いた壬と癸は、深く考え込むように視線を落とした。遥はひとり、きょとんとした表情でふたりを見ている。癸はそれに気付き、重い雰囲気に包まれた場を取り繕うように笑みを浮かべた。
「話してくれてありがとう。でも、僕らとした話については内緒にしておいてね」
「はい! もちろんです」
「遥。お前そろそろ戻った方がいいぞ」
 壬に促され、遥は素直にうなずいた。陣営の中で、あやかしたちはそれぞれの属性に従い、小さな群を作っている。遥は水属の群のうちのひとつにいた。
「わかりました。……お役に立てましたか?」
 期待に満ちた澄んだ瞳に、壬は微笑んだ。
「ああ。感謝してるぜ」
「へへ」
 くすぐったそうに笑って、遥は身を翻す。壬はその背中に声を掛けた。
「遥。……いつか、お前に会わせたいやつがいるんだ」
「御子さま、ですか?」
 期待に満ちた表情で振り返る遥に、壬は曖昧に首を横に振る。
「それもそうだが──もうひとり、な」
 彼の脳裏に浮かぶのは、懐かしい紫電の瞳だった。冷たくも熱い、優しくも厳しい、そんな目をした男。いつか、遥に会わせたい。そのとき遥は一体何を感じるだろうか。
 遥は戸惑いを浮かべながらも、はっきりとうなずいた。
「楽しみにしております!」
「おう。……またな」
 駆けていく小柄な後ろ姿を見送った双子の顔から、やがて笑みが消えた。
 黒鷹と白蛇──否、夜雲と真雪は何を企んでいるのか。何故出雲の「封印」に手を出そうとしているのか……そもそも何故、夜雲は紫苑に接触したのか。夜雲の紫苑に対する態度は、明らかに何か意味深長なものであった。彼らの中で、紫苑はどういう意味をもつ存在なのだろうか。
「遥の話では真雪とやら、『強大な力』を求めに出雲へ下ったとのことだったな」
 壬はつぶやく。癸はうなずいた。
「ええ……夜雲のあの自信は、それに基づくものなのかも」
「そりゃあ、ふつうに戦って、ひとを根こそぎ滅ぼすなんて無理だろ。どれだけやっても討ち漏らしはある。……俺たちみたいにな」
 夜雲に似た良くない冗談を飛ばす壬の横顔は、しかし真剣そのものだった。
「あの『封印』は四聖獣が揃わないと開かねえ……開いたところで、湧き出てくるのは怨霊だ。ひとだとかあやかしだとか、あれは区別しなかった」
 以前「封印」が開いたときのことを思い出し、壬はぶるりと身震いする。癸もまた、重々しくうなずいた。
「彼らの企みがただの無謀なものなのか、もしくは何らかの勝算があるのか……」
「どちらにしても」
 壬は遠く、西の方角に視線を投げた。
「奴らが『封印』を狙っている以上、あいつらが心配だな……」
 癸もまた、兄と同じ方向を向く。まだ離れてからひとつきも経たないのに──覚悟を決めて出てきたはずなのに、都に残してきた彼らが懐かしく、胸を締め付けられるように切なくてならない。いつかまた、皆で暮らせるように……せめて、無事に再会できるようにと。癸は祈った。
 ――突然、瀑布の外側が慌ただしい気配に包まれた。壬が顔を出してみると、数人のあやかしたちが険しい表情で行き交っている。
「どうした? 敵襲か?」
 壬の大声に、蒼白な顔をしたひとりが足を止めた。
「遥が、事故に遭って……!」
「何だって?!」
 つい先刻まで遥はここにいて、全くの無傷だったのに……! 嫌な予感に突き動かされるように、壬は瀑布を跳ね退け飛び出していく。
「兄さん!」
 癸が慌ててその後を追った。

  二

 秋の日差しの中、日向はゆっくりと墨をすっている。この時間が彼女は一番好きだった。背筋がひとりでにしゃんと伸び、体の奥底から深い吐息が漏れ出す。雑念は硯と墨の間に溶け、透明な漆黒にただ塗り潰されていく──。このひとときだけは、すべてを忘れていられた。亡き母のことも、家出してきたことも、男装のことも、それから彼女の「先生」のことも……。
「日向さんっ」
「わ、」
 どことなく「先生」に似た声に、日向は思わず声をあげた。視線をやれば、それは「彼」の息子である朔と知れる。日向は表情を和らげた。
「なんだ、帰っていたのか。先生なら参内中だし、昴や透流は御門の家に出掛けているから、今はおれひとりだぞ」
 朔はうなずいた。その桜色の髪がさらりと零れる。
「はい。でも僕が用事のあったのは、日向さんだから……」
「おれに?」
 そういえば、いつも朔の側にいる白猫がいない。日向は不思議そうに朔を見返した。
「おれに用事? なんだ?」
「日向さん……」
 朔はやや躊躇うように目を伏せたが、それも短い間のことだった。
「父を……よろしくお願いします」
「せ、先生を?!」
 日向の声が上ずった。
「そ、それは一体どういう……」
「どんな形でも構いません。でも、どうか」
 朔の表情は真剣そのものだった。
「父の側にいてやってください」
「で、でも、先生がおれにそれを望むとは限らないし」
「日向さん、僕は橘燐の息子ですよ」
 朔は茶目っ気たっぷりな目付きで、日向を軽く睨んだ。
「その僕が、貴方を見込んでお願いしたいと思ったんです──貴方にしか頼めないって」
「で、でも……」
 日向は完全にうろたえてしまっていた。
「先生の周りにはおれ以外にもたくさん……」
「ええ。今のところは」
 朔の表情が険しいものに変わった。
「だけど、それもいつまで続くか……」
 日向ははっと顔をあげた。
「そうだ、お前は?! お前らは父子(おやこ)だろ、ずっと一緒にいろよ!」
「…………」
 朔はその言葉に目を見開き、やがて悲しげに微笑んで俯く。その一連の動作が、はっとするほど燐に似ていた。
「朔?」
 次に顔をあげたときには、朔は何でもないように明るく笑っている。
「……まあ、父があんまり情けないようなら見捨てても構いませんし」
「え?」
「それはあくまで日向さんの意志ですから……。それじゃ」
「お、おい、朔!」
 彼女の制止も聞かず、朔はひょいひょいと塀を乗り越えていってしまう。その小さな背中を呆然と見送りながら、日向は拳を握りしめた。
「あいつ、子供のくせに……!」
 年齢に似つかわしくない、遠くを見据える琥珀の瞳。彼は一体未来に何を見ているのだろう。日向は深くため息をつく。
 墨はもう、半ば以上乾いてしまっていた。

  三

 ──にゃあ。
 藤原時雅の屋敷を訪れていた御門蘇芳は、ふと祈祷の手を止めた。小さな、しかし鋭く響いた獣の声。
「蘇芳どの?」
 背後に座していた伴雅がいぶかしげに声を掛ける。蘇芳はそれにも気付かぬ様子で、じっとその白い猫を見つめた。──何か、ただならぬものの気配を感じる。あれはきっとただの猫ではあるまい。どこか、紫苑に従う朱雀に似たような、神々しい威圧感を纏っている……。
 ──さすがだ、御門蘇芳。
 あっ、と声をあげそうになった。だが、唇はただ弱々しく吐息を溢したに過ぎない。知らぬ間に術を掛けられ、操られている──焦りはしたが、恐怖はなかった。その白猫からは、全く敵意を感じなかったからである。
 ──この屋敷の主に掛けられた術。我が解いてやろう。
 何故だろうといぶかしむ蘇芳の思考を読んだか、猫は言葉を続けた。
 ──この術は御門紫苑を罠に嵌めるためのもの。捨て置くわけにはいかん。
 突然の義理の息子の名に、蘇芳は息を飲む。ひとのおおきみとあやかしの姫御子との間に生を受けた、高貴な血を引きながらも禁忌とされた半妖。だが彼は朱雀を従え、今またかくも強大な存在から守られようとしている。彼は一体何に巻き込まれているのだろう。
 蘇芳は紫苑を理解していないし、理解しようともしてこなかった。無口で無愛想な彼を疎んじこそすれ、愛することはなかった。だが、何故か今脳裏に浮かぶのはまだ幼い頃、ひとりきりで大雨の降る庭を眺めていた小さな背中──あのとき彼の肩を抱いてやっていれば、何かが変わっていただろうか。
 ──そなたはこのまま祈祷を終え、屋敷を立ち去られよ。
 蘇芳はそれに素直にうなずきながらも、やはり尋ねずにはいられなかった。──貴方は誰なのです。何故紫苑を守ろうとするのです。
 答えを期待した問いではなかったが、案外にもあっさりと声は返ってきた。
 ──我は白虎。そして、我らの運命を担う男こそが……。
「蘇芳どの?」
 蘇芳ははっと顔をあげた。いつの間にか彼の唇は呪を刻み終わっていたようで、その余韻だけが残っている。
「祈祷は終わり申した……」
 声はややひび割れていた。喉にはまだ鈍い違和感が残っている。
「このまましばらく様子を見ていただければ」
「はい。ありがとうございました」
 頭を下げる伴雅を見る蘇芳の表情は、何とも複雑なものであった。