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四天王の巻 第三章

  一

 戦闘の合間の、穏やかなひととき。その時間は短く、貴重なものだった。瀑布と木組みで作られた陣営の隅に、壬らは部屋を持っている。彼らが水龍であること、そしてやはり一時期都に住んでいたためにやや異端視されていることで、そこを訪なうものはほとんどない。──だが、ひとりだけ例外がいた。
「壬さあん!」
 入り口に掛けられた布を引き上げ、少年の澄んだ声が空間を満たした。奥で作業をしていた癸が手を止め、顔をあげる。
(はるか)、兄さんは今出かけているよ」
「そうですかあ……」
 しょんぼりと肩を落とす遥に、癸は笑った。
「何か伝えておこうか? それともここで待つ?」
「お邪魔じゃないですか?」
「ちっとも」
 その言葉を聞いた遥は、喜色満面で癸の近くまでやってくると、すとんと床に腰を下ろした。肩の辺りで無造作に切り揃えられた藍色の髪が、ふわりと弧を描いて落ちる。
 遥は年若い、水属のあやかしであった。滅びたはずの水属の長、伝説の水龍族が生きていた──彼ら双子に向けられるまっすぐな眼差しは素直な畏敬の念を宿し、癸にはひどくまぶしく見える。遥は兄貴肌の壬に特に懐いていて、ふたりの様子はまるで年の離れた兄弟のようですらあった。
 遥は好奇心に目を煌めかせながら、癸を見上げる。
「癸さんは、昔ひととあやかしが共に生きる邑に住んでいたと聞きました。ほんとうですか?」
「……うん。本当だよ」
 癸の答えに、遥は身を乗り出す。
「その邑はどこにあるのですか?」
「いや。今はもうない」
 癸はきっぱりと言い切った。そして、言葉を選びながらとつとつと語る。
「恐ろしいものを封じ込めていた『封印』……それを緩めてしまったために、その呪いを受けて、滅びた……」
「『封印』……ですか」
「うん。あの邑では、確かにひととあやかしが共に生きていた。だけど、すべてが上手くいっていたというわけではなかったんだよ。もう少し時間があれば、あるいはもっと良い邑になったかもしれないのだけど……あの邑は『封印』を守るための、結界のような存在だったから」
 癸の脳裏に浮かんだのは、あの気丈でありながらひどく脆い、金髪碧眼の巫女であった――いや、今はもう彼女は巫女ではないが。
「……『封印』」
 遥は眉を寄せてつぶやいた。
「そういえば、以前夜雲さまと真雪さまがそんなようなことを……」
「まゆき?」
 癸は聞き返した。遥は顔をあげる。
「はい。白蛇族の姫御子さまです。夜雲さまとともに挙兵されたのですが、今は軍を離れ、出雲のくにに出向いておられるのです。その理由が、確か『封印』がなんとか……」
 癸はかっと目を見開いた。
「遥!」
 癸は思わず遥の肩を強く掴んだ。痛みと驚きに体を固くする遥に、慌てて力を緩める。
「僕も多少白蛇族の動向については調べていたのだけれど、『封印』がらみの話は初耳だ。兄さんも気に掛けいたし……良かったら、詳しく教えてくれないか」
「は、はい」
 癸の勢いに面食らいながらも、遥は素直に頷く。──このときひとつの悲劇の幕が切って落とされたのを、未だ誰も知りはしなかった。

  二

 その日、都ではようやく長雨が止んだ。紫苑は廊下から、濡れそぼった中庭を見ていた。どことなく控えめな彩りの秋の草花が、その葉や花弁の先端に雫を宿して光を含んでいる。鼻をくすぐるのは、金木犀の薫りだろうか。
「──紫苑」
 彼の背後にぴたりと止まった気配が、やがて彼の背中を優しく包んだ。あたたかでやわらかいものが、そうっと、けれど力強く触れてくる。
「桔梗」
 紫苑はつぶやき、軽く首をひねって彼女を見下ろした。愛しい銀髪の少女は彼の腰に腕を回し、背中に頬を押し付けている。その幼い愛情表現に、紫苑の表情は緩んだ。
「どうした?」
「今日……藤原時雅の屋敷に出向くのでしょう?」
「ああ。そのつもりだ」
「…………」
 沈黙する桔梗が気にかかった紫苑は、彼女の腕を優しくほどいてしゃがみこみ、視線を合わせた。
「どうした? 何か話があって来たのだろう」
 桔梗はすいと視線を逸らし、口ごもりながら答える。
「いえ、紫苑の顔が見たくなって……それだけです」
「それだけか」
「…………」
 答えない桔梗を、紫苑はしゃがんだまま抱き寄せた。彼女は腕を彼の肩に回し、髪に指を滑らせる。その様子は、どことなく不安げにも思われた。
「……連れて行ってやろうか?」
「え?」
 紫苑の言葉を聞き、桔梗は弾かれたように顔をあげた。
「時雅の屋敷に、ともに来るか?」
「…………」
 桔梗は目を見開きぱちぱちと瞬きを繰り返した。──紫苑は滅多に彼女を仕事の場へと連れて行ってはくれない。危険だからか、あやかしである彼女をひとの目に触れさせるわけにはいかないからか……それらの理由は至極もっともで、桔梗は最初は頼んでみるものの、結局留守番をしていることが多かった。それなのに、今日は紫苑から桔梗を誘っている。嬉しさよりもいぶかしさの方が先立って、桔梗は眉を寄せた。
「時雅どのとやらのご病気、紫苑には想像がついているのですか?」
「――白い、蛇」
 紫苑はぽつりとつぶやいた。桔梗ははっと息を飲む。
「時雅どのに何者かが届けた桃。その中に、白い蛇が潜んでいたという。時雅どのの病は、その蛇によるもの――恐らくは呪が仕掛けられていたのだろう」
「それをやったのが、白蛇族だと……?」
 十分に涼しい風が吹いているにも関わらず、紫苑の額は汗ばんでいた。
「夜雲らが挙兵したのは坂東。そもそも北方に住まうは白蛇だ。黒鷹は鎮西に居を置く一族であろう」
「白蛇が関わっていないはずがない──ということなのですね」
「…………」
 紫苑は黙ってうなずいた。
「紫苑」
 桔梗は静かに口を開く。
「時雅どのを救えば、紫苑は完全にあやかしたちと敵対することになる。その覚悟はもう、決めたのですか。ひとを守る――あやかしを討つ、と」
「……………」
 あくまで穏やかな、それでいて厳しい口調だった。紫苑はわずかに視線を落とす。
「……いつか、あやかしの子供が祟りか何かで苦しんでいるところへ通り掛かったなら、私はきっとそのものを祓うだろう。ひとであろうがあやかしであろうが、そこには何の違いもない」
「でも、紫苑──」
「決めたんだ」
 紫苑はきっぱりと言いきった。
「私は大将軍にはならぬ。あやかしを討伐するつもりなど、毛頭ない。私に壬や癸が討てると思うか」
 紫電の瞳は遠く一点を見つめて、揺らぐことがない。
「だが、戦地には赴くやもしれぬ。そして、休戦の道を──探る」
「…………」
 桔梗はひとつ、深くうなずいた。彼は時雅を救い、彼の意見を容れさせねばならぬ。そのためには、今回の仕事を絶対に失敗してはならない。──紫苑は、桔梗の力を必要としているのだ。四天王の一である白蛇族に対抗できる、水龍族の彼女の力を。
「わかりました。ともに参ります」
 そう答えた桔梗を、紫苑は再び抱きしめた。
「ありがとう──」
 桔梗は何も言わず、紫苑の頬に、項に、髪に、唇を落とした。紫苑にどこまでもついていく──その覚悟は、もうずっと前からできている。

  三

 ――不意に、真雪は顔を上げた。紅も差さないのに赤く色付いた唇が、きゅうっと吊り上がる。
「御門紫苑が、あの男に近付いている……」
 彼女の目の前には、切り立った崖。辺りには真新しい傷跡を残す木々があり、地面もところどころが深く抉れている。砂塵をかぶった岩肌を真雪が妖力で起こした風でひとなですると、何やら呪の刻まれたぼろぼろの札が姿を現した。それらはどうやら一面に貼り巡らされていたものらしい。
「ここが『封印』――間違いありませんね」
 つぶやき、真雪は目を閉じた。ごう、と風が巻き起こり、彼女の白い髪を逆立てる。彼女を中心にして竜巻のように渦を巻いたそれは、眼前の岩に襲い掛かった。――きん! 鋭い音とともに、風は散り散りになって消える。
「…………」
 目を開けてそれを見届けた真雪は、ふう、と吐息をついた。
「やはりあの少年が言っていた通りのようですね。私たちではこれは解けない――私がわざわざ来ることもありませんでした。全く、夜雲も一度言い出したら聞かないから」
 夜雲、とその名を刻む唇は、柔らかく微笑んでいる。だが、その表情は一瞬で掻き消え、冷ややかな憫笑が口元を彩った。
「『封印』の鍵は、総てあの男の周りにある――あの男さえ手中におさめてしまえば、『封印』を解くのも簡単なこと」
 彼女の白い袖の内から、着物と同色の細い蛇がちろりと釜首をもたげた。それは長い胴を伸ばし、真雪の頬に赤い舌を這わせる。
「そう――簡単なことよ。夜雲」
 真雪に寄り沿う蛇は、金色の瞳をらん、と輝かせていた。