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凶兆の巻 第四章

  一

 肌を焼くような緊張感があたりを包む。壬が唾を飲んだ音さえもが、大きく響いた。
 夜雲は組んでいた腕をほどき、紫苑に向かって一礼する。わざとらしい慇懃さだ、と桔梗は思った。彼女の体を強張らせていた緊張感は、紫苑の帰還によってやや和らぎはした。だがまだ安心するには早過ぎる。
「留守中にご無礼を致して申し訳ない――鳳凰族の御子どの」
「あいにくだが、形ばかりの礼儀を重んじるのは馬鹿な貴族らで十分だ」
 紫苑は憮然とした表情で夜雲を見つめた。
「意に添わぬ無礼をしたのならば、自らの落ち度に対して謝罪するのももっともなことだ。だが、そうではあるまい。はじめから無礼を働くつもりであった者の謝罪など、受け入れようがないではないか」
「ほう……?」
 夜雲は黒々とした眉を跳ね上げた。声音に好戦的なものをにじませ、夜雲は唇を笑みの形にゆがめる。
「私が故意に無礼を働いたと?」
「屋敷の結界を打ち破って侵入したであろう。主のおらぬ隙に勝手な真似をしようとするなど、礼節を知る者のすることか?」
「お、おい紫苑」
「居候は黙っていろ」
「う……」
 珍しく敵意を剥き出しにする紫苑に、壬は目を白黒させた。癸は落ち着かない様子で視線をうろうろとさまよわせているが、桔梗は対照的にじっと夜雲に視線を据えて微動だにしない。
 夜雲はそんな彼らを興味深げに見守っていたが、やがて大きく息をついた。
「なるほど。話に聞いていた通り、鳳凰の御子どのはひとに取り込まれておるご様子だな」
「なに?」
 紫苑の目に剣呑な光が灯った。夜雲は挑戦的な口調で続ける。
「鳳凰族といえばあやかしの中でも高貴な血として尊ばれている四天王のひとつ……だが、貴方にその誇りは存在していないようにお見受けする」
「何が言いたい……?」
 地を這うような低い唸り声にも、夜雲はひるむ様子はない。
「ひとの世はさほど住み心地が良いものですか? ――御門紫苑どの」
 夜雲が彼の名を呼んだのは、初めてのことだった。紫苑は警戒の色もあらわに聞き返す。
「私の名をご存知か」
「当然のこと。貴方は自分の存在の特異さに気付いていないとでもいうのか」
 夜雲は傲然と頭をもたげた。
「ひととあやかしの間に生まれた禁忌の半妖――鳳凰族の御子でもあり、ひとの世のおおきみの血筋でもあるという。さらに貴方は神獣である朱雀さえをも従えた……並大抵のあやかしでは太刀打ちできるわけもない。そして」
 彼の視線が、桔梗を撫でた。桔梗は小さく体を震わせる――何だというのだろうか、何故かひどく嫌な感じがした。
「傍らには水龍の御子どのが在る。これがどういうことを意味するか、おわかりか」
「さあな」
 紫苑は一言の下に切り捨てる。夜雲はその彫の深い顔立ちに苦笑を浮かべた。
「貴方がひとの側につくか、あやかしの側につくのかによって、歴史の行く末は大きく変化する。すべて、貴方が握っているということだ」
「…………」
 紫苑は沈黙を守り、じっと夜雲を見つめた。夜雲はその表情から何かを読み取ろうとするかのようにじろじろと眺めていたが、やがて諦めたのかふ、と視線を逸らした。
「貴方が帰ってくる前に、水龍の御三方とはお話をさせていただいた。我らの目的は彼らから聞かれるとよろしいでしょう。……今日のところはひとまず退散させていただく」
「名を」
 紫苑は小さく、しかし鋭い声を放った。
「名を、まだ聞いていないぞ」
「――我が名は夜雲」
 しなやかな長身を翻し、夜雲は庭へと飛び出して行く。
「黒鷹族の、御子だ」
 ――そう。貴方と同じ、ね。囁きは闇の中に溶け、紫苑はまるでその軌跡を空間の中に探しているように、何もない虚空をじっと睨みつけていた。
 
 
  二
 
 部屋を満たした沈黙を打ち破ったのは、壬だった。
「なあ、紫苑。覚えてるか?」
「何をだ」
 振り向きもせずに答える紫苑に、壬はやや苛立ったような表情をみせる。
「俺は昔お前に聞いた――『もしひととあやかしが争うようなことがあればどうするんだ』って。覚えてるか?」
「……ああ」
 紫苑がゆっくりと振り返る。その顔からは、何の感情も読み取れない。
「覚えている」
「俺は、もう一度聞きたい。もし……」
 壬の傍らで、癸が体を強張らせている、それを、紫苑は視界の端にとらえていた。
「もし、ひととあやかしが争うようなことがあれば……どうする」
「…………」
 紫苑は口を噤んだ。――かつて、自分がした答えを覚えていないわけではない。あのとき、自分は「誰も殺さない」と言った。自分は誰も殺したくはないのだと。その気持ちに変わりがあるわけではない。だが、きっと壬はそれでは納得しないのだろう。
 あの夜雲という男……都に怪異をもたらしていたのが彼らだとするならば、この屋敷を訪れたことを考え合わせても、目的はただひとつ。ひとと敵対するつもりであることは明確――もしかしたらそれ以上のことを考えているのかもしれない。
 そもそも、壬はひとを許したわけではない。自らの一族を滅ぼした仇として、今でもきっと憎んでいる。都に住むこと自体も、決して喜ばしく思っていないはずだ。他に行くあてがない上に、壬は紫苑や燐らにはこころを開いている、それがここにいる理由といえよう。そんな壬がこの質問を紫苑にぶつけてきたということは、つまり彼の中に迷いが生じているのに他ならない。
「紫苑……」
 桔梗が心配げに見上げてくるのを、安心させるようにゆるく頷いてみせる。――やがて、紫苑は口を開いた。
「かつて、ひととあやかしが争ったとき。私はまだ幼かったが、術者としては既に都で並ぶ者がないほどの腕前があった。それでも、私は一度も戦に狩り出されなかった。何故だかわかるか」
「…………」
 一瞬言葉に詰まった壬の答えも待たず、紫苑は即座に続けた。
「私があやかしの血を引くからだ。裏切るのではないかと恐れられた。私はひとと同じようにひとの中でひととして育った――だが、私はひとだと思われていなかった」
「…………」
「もし、私があやかしの中で育っていたらどうだっただろうか。私はあやかしとして皆に受け入れてもらえたのだろうか。……壬、どう思う」
「……それは……」
 壬は歯切れ悪く言葉を濁す。――正直、わからない、と思った。今でこそ自分は紫苑を受け入れている。だが、はじめは決して相容れない存在だと思った。ひとの血を引くなど汚らわしい、半妖はあやかしなどではない。そういう思いがなかったとは言えない。そして、きっとそれは自分だけではないだろう。多くのあやかしたちがそう考え、紫苑が都で疎外されたように、あやかしたちの間でも彼は馴染むことができず、苦悩することになったに違いない。さらに悪いことには、陰陽術によって鍛えられる前の紫苑の妖力、つまり生来の妖力は、四天王ら強力なあやかしたちに比べると見劣りする。都ではそのひとにはない妖力が彼を守ったが、彼があやかしたちの間に混じればその逆のことが起きてしまう。身の危険がないともいえなかった。
 壬の表情から紫苑はたいていのことは読み取ったのだろう。やや表情を和らげてみせた。
「そんな顔をするな。ひととあやかしのどちらがよりいいとか、悪いとか、そういう話をしているのではないのだから」
「……じゃあ」
「ひとであろうがあやかしであろうが、私と――その家族に仇をなそうとする者がいれば、排除する。それだけのことだ」
 紫苑ははっきりと言い切った。壬はその言葉の一部を繰り返す。
「かぞくに、あだを……」
「ああ」
 紫苑は大きく息をつき、軽く首を回した。張り詰めていた緊張がようやく解れてきたのだろう、薄く整った口元を、自然な笑みが彩った。
「私は本当の家族を知らない。父も母も、共に過ごしたことなどない。義父にも特に情は持っていない。それでも」
 その場にいるひとりひとりに、紫苑は視線を合わせる――桔梗、癸、そして壬。
「私には家族がいる。その家族はそれぞれひとであったり、あやかしであったりするが、そんなことはどうだっていいことだ。何故なら――家族なのだから」
「…………」
「壬」
 目を伏せた彼に、紫苑は言葉を投げかけた。
「お前は、私の家族でいてくれるか?」
「…………」
 ぴくり、と壬の肩が震えた。
「兄さん……」
 心配げに声を掛ける癸を制し、壬はそのままの姿勢で口を開く。
「ありがとな、紫苑。それから……」
 ――ごめん。
「兄さん!」
 癸を振り切り、踵を返して足早に部屋を出て行く壬。その背中を、紫苑は深い紫の視線でじっと追っていた。

  三
  
 嵐山の奥深くの荒寺。夜雲は仮のねじろであるそこの母屋に戻り、中で待つ仲間に声を掛けた。
「おい、戻ったぞ」
「夜雲さま!」
 二三のあやかしたちがばらばらと集まり、恭しくこうべをたれる。夜雲は羽織っていた着物を放り投げ、どっかと床へと座り込んだ。
「意外に一筋縄ではいかぬようだ」
 細くとがった顎を撫で、夜雲はひとりごちる。
「もう少し、やつの周りを調べてみる必要がありそうだな……」
 最高峰の陰陽道と失われた鳳凰の力を宿す、禁忌の半妖。そして最強のあやかし、水龍の御子。その力は、何としてでも手に入れたい。
「それと、もうひとつ」
 細めた夜雲の瞳の中に、別の影が宿った。――壬、とかいったか。
「あの男、落とせるやも知れぬな」
 そのつぶやきを聞いたものは、夜雲自身の他に誰もいなかった。