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凶兆の巻 第六章

  一
  
 京の都は山々にぐるりを囲まれている。それは中に住まうものを何かから守るためなのか、それとも外へと逃がさぬためか……誰にもわからぬことである。昨今のように不吉な暗雲が都を覆うようになっては尚更だ。
 その日、日も上らぬうちから西の山をひたすら登っていく人影がひとつ、あった。立派な上背と均整の取れた肉体、そしてそれらには似つかわしくないほど繊細な銀髪――壬である。汗ばんだ額を時折拭いながらも、足取りが止まることはない。山の中腹に差し掛かり、朝日が眩しく目を射るようになった頃、壬は不意に声をあげた。
「いい加減にしろよ癸――俺が気付いてないわけがないんだからな」
 がさり、と木の葉のこすれ合う音。
「……それは、そうだけど」
 いつの間にやら壬の隣に、彼と良く似た背格好の、少しばかり線の細い青年が並んだ。壬の双子の弟、癸である。
「勘違いされたら嫌だなと思ってたんだ……僕は」
 ひりつく喉を宥めるように、癸はごくりと唾を飲んだ。
「兄さんを止めに来たわけじゃないから……」
「なら、何だ? 一緒に行くとでも言うつもりか? ……お前を兄と慕う、加乃を放って」
「…………」
 沈黙した弟の横顔をちらりと見遣り、壬は低くつぶやいた。
「悪い。言い過ぎた」
「……兄さん」
 癸は顔をあげ、やや控えめな笑みを見せた。
「昨日、藤原蓮と話をした――覚えている? 加乃ちゃんを気に入ってくれている、藤原家の末弟」
「あ、ああ」
 突然のことに面食らう兄をしり目に、癸は淡々と話をつむぐ。
「昨夜遅く、彼はちょうど宮中から退出するところだったから、僕は夜闇に紛れて……。彼は落ち着いて話を聞いてくれたよ。そういえば、兄さんに会ったことがあるというようなことを言っていたっけ」
「…………」
 あれは確か、まだ紫苑と敵対していた頃だ。壬は苦い顔で思い出す。――忘れたふりをしていたが、紫苑の出自を暴き、都からしばらく離れざるを得ないように追い込んだのは、他ならぬ自分だった。紫苑はそのことで自分を責めたことなどないが……。
「彼は、いい男だよ。僕のことを義兄として慕う準備があると――彼が元服した暁には加乃ちゃんを正式に妻としたいと、そう言っていた。加乃ちゃんは、今では『橘加乃』だ。彼の父親も恐らく反対はしないって」
「…………」
 黙して答えぬ兄に、癸はただひたすら語り掛けた。
「それに、加乃ちゃんには家族がいる。燐さんも朔くんも、彼女を想ってくれているよ。僕がいなくなっても、そのあとはきっと誰かが十二分に埋めてくれると思う」
 癸の口元を彩るのは、優しい笑みだった。
「僕はねえ兄さん、誰もが自分にしかできない役割を担って生きていくべきだと思うんだ」
「役割……?」
 壬は、ようやく顔を上げた。その藍色の瞳に、弟の凛々しい横顔が映り込む。
「加乃ちゃんの『兄』の役割は、僕にしかできないかもしれない。でも彼女の『家族』は僕以外にもいるんだよ」
「じゃあ、お前にしかできない役割ってのは……」
「……かつて住んでいたあの邑では、危うい均衡ではあったけれど、ひととあやかしが共存していた」
 癸は、壬の問いに直接答えようとはしなかった。
「邑のひとは、確かに最初は僕を恐れていたよ。僕も人間に対して拒否感があった。だけどお互いがお互いを知るにつれて、少しずつそういったものは薄れていった。だって、同じなんだもの。家族がいて、友達がいて、恋人がいて……愛したり憎んだり、悲しんだり喜んだり。全部、同じなんだ」
「お前……」
 ついに足を止めた兄の側で、癸もまた歩みを止めた。藍の瞳を、まっすぐに見つめる。
「だからね、兄さん。もし兄さんがあやかしの側にたってひとを殺そうっていうなら、僕はそれを止めるよ。命を懸けてでも、兄さんを止めてみせる。もし何なら――この場で――」
「癸」
 目の中に青い炎をちらりと見せた弟に、壬は静かな声を掛けた。
「俺はまだ、何も言ってないぞ」
「……え?」
「確かに、俺はこのまま都を離れる。そして、あやかしの集う場所とやらに行ってみようと思っている」
「じゃあ――」
「だが」
 気持ちをはやらせる弟を視線でとどめ、
「俺は何もひとと戦おうって言うんじゃない。殺し合いをする気なんて毛頭ない」
「……にいさん」
 壬はふい、と視線を逸らし、辺りの木の一本に背中を預けた。
「考えてみろよ。加乃だけじゃねえ、燐も昴も透流も、みんなひとだ。あいつらを殺すことなんて、できるわけないだろうが。え? できると思うか?」
「…………」
「紫苑が、言っただろう」
 壬は声の調子を変えてぽつり、とつぶやいた。
「みんな、『家族』なんだと」
「…………」
 癸は言葉を失った。
「俺もお前も、もちろん桔梗も、燐のことも、……みんな、あいつの『家族』なんだって」
 壬は深く俯いた。その足元に、朝露とも紛う雫がぽたりぽたりと落ちる。
「その『家族』が殺し合うなんて――俺は嫌だ」
「――にいさ」
「俺たち、やっぱり兄弟だな」
 癸の声を遮り、壬は顔を上げた。その細めた目からは、何も読み取ることができない。
「考えることが良く似てる」
「じゃ、じゃあ」
「そうだ」
 壬はきっぱりと頷いた。
「俺はひとの側についていたくはない。人間共の中には、あやかしの討伐なんてことを考える馬鹿なやつらがいるからな。だが、それは決して全員じゃないんだ。それを根こそぎぶっ殺すなんざ、野蛮な下等生物の考えること――あやかしはそうじゃねえ」
 癸の頬にさっと血の気が差した。瞳を輝かせ、嬉しそうに頷き返す。壬は弟の肩をぱあん、と叩いた。
「大丈夫だ。さいわい、案外とやまとのくにの国土は広い。まずはうまく棲み分けることを考えればいいんだ。その後、少しずつ交流を始めてもいいし、相変わらず互いにそっぽを向くというのならそれでも構わない。ただ、まずはお互いの存在を認め合うこと――そこからだ」
「うん、……そうだね」
 癸の震える声を背後に聴きながら、壬は眼下に広がる京の街並みを眺めた。都の北東に位置する御門の屋敷は、既に遠くかすんでいる。今頃紫苑は自分たちがいないことに気付いただろうか。そして自分たちのこの想いを察してくれただろうか……。
「いつか、必ず帰って来るから」
 壬は口の中で小さくつぶやいた。
「『家族』だと思っていてくれるなら……、待っていてくれよな」
 勝手な言い分だとはわかっている。思惑がどうあれ、夜雲と行動を共にしようとしていることにはかわりがないのだし、紫苑の立場から見れば自分たちは裏切りものと呼ばれても仕方がないだろう。
 それでも――壬は信じている。紫苑を、信じている。
 
 
  二
  
 いつもよりもずっと静かな朝。食膳はふたつ、手付かずのまま下げられた。式神である夕顔、巴は何も言わないが、彼女らの主である紫苑は、浮かぬ顔で庭を眺めていた。桔梗は食事もそうそうに席を立ち、姿は既にない。
「あやつら……やはり……」
 紫苑の言葉がそらに溶けるのと時を同じくして、桔梗の足音が急いた様子で帰ってきた。
「やはり、いません。私物も総て、引き払ってしまった様子です」
 息を切らして隣に座りこむ彼女に、紫苑はゆるく頷いた。
「夜雲のところに行ったのだろう」
「え……?!」
 桔梗は息を呑む。――その可能性が頭になかったわけではない。だが、それだけは違うと否定していたかった。その考えを肯定するのが、怖かった。
「まさか……」
「――何か、考えがあるのだろうよ」
 紫苑は強いて穏やかに言うが、桔梗は激しく首を横に振った。
「でも――でも、それならどうして私や紫苑に相談してくれなかったのですか! 特に私は彼らと同じ水龍族なのですよ?! それなのに、何故」
「…………」
 紫苑の穏やかな笑みに、桔梗ははっと口をつぐんだ。――紫苑は信じているのだ。あのふたりを。
「彼らは自分の為すべきことを考え、その結果一番良いと思った行動に出たのだろう。確かに相談がなかったことは少し寂しいが、それはまた次に会ったときに責めてやれば良い」
 それはまるで自らに言い聞かせているような、ゆっくりとした口調であった。
「次に会ったとき……ですか」
 桔梗はつぶやく。――次に会ったとき。それは一体いつ、どこであろうか。願わくば、それが戦場ではないように……敵として相見えることがないように。桔梗はそれだけを切に祈った。
「…………」
 紫苑は思いつめた様子の桔梗の横顔から視線を逸らし、ふう、とため息をついた。
「この身の振り方を――決めねばならぬのだな」
 夜雲の口ぶりでは、今にも大戦(おおいくさ)の火蓋が切って落とされるかのようであった。今、都で起きている妖異はその前哨でしかないとでもいうような……。
「ちっ」
 ――ぱり。
 気付かぬうちに、紫苑は手にしていた茶器を指の間に割り砕いていた。指をつたう血に、桔梗が驚きの声を上げる。慌てて治療を施す彼女に手を委ねながら、紫苑は奥歯を痛いほどに噛み締めていた。