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凶兆の巻 第五章

  一

 突然の夜雲の来訪を受けたその夜、桔梗は目が冴えて寝つくことができなかった。隣に身を横たえている紫苑はじっと黙っているが、きっと彼もまた眠りについてはいないだろう。いつもより短い間隔で身じろぎを繰り返している。
 夏の短い夜が終わりかけた頃、重苦しい沈黙にいよいよ耐えかね、桔梗はおもむろに口を開いた。
「紫苑、起きていますか」
「……ああ」
 はっきりとした返事を聞き、桔梗はやはり紫苑は眠っていなかったのだと確信した。
「あの夜雲という男――あやかしの力を結集して、ひとを世界から駆逐するつもりのようでした」
「やはり、な」
 紫苑は軽く寝返りを打って、桔梗に向き直った。その表情は案外と穏やかで、桔梗はほっと安堵する。
「あえて聞かなかったのは、既に想像がついていたからですか?」
「…………」
 紫苑は答えないまま、桔梗の髪をやわやわとなでた。視線を彼女の顔から、遠くへと投げる。
「お前は、どうしたい?」
「……え?」
 思ってもいなかったその問いに、桔梗の答えはわずかに遅れた。戸惑って彼の顔を見上げても、紫苑は目を合わせようとはしない。
「ひととあやかしが争うようなことがあれば……、お前はどうしたい?」
「…………」
 桔梗はそっと、紫苑の胸に耳を押し当てた。頬から伝わるのはいつもよりも少し早い鼓動の音と、優しい温もり。
「私は……ひとの未来にも、あやかしの未来にも、興味はありません。……でも」
 桔梗は再び彼を見上げると同時に、その頬へと掌をあてた。紫苑がぴくりと震え、おそるおそるといった調子で視線が降りてくる。桔梗は彼を安心させようとするかのように、やわらかな微笑を浮かべてみせた。
「紫苑の未来がしあわせであること、そしてその未来の中に私がいられること。それが、私の望みです」
「……桔梗」
「そのためなら何だってします。紫苑が望むのなら、どんなことだって」
 腕を伸ばし、紫苑の広い背中に回す。そのまま桔梗は、強く強く抱いた。
「だから、私に紫苑の望みを教えて下さい……」
「…………」
 紫苑はただじっと黙っている。桔梗の体に回された腕もいつになく力ない。
「……紫苑?」
「――わからない」
 ぽつり、と紫苑はつぶやいた。
「私の望みはどうすれば叶うのか、わからないんだ」
 誰ひとり失いたくはない。桔梗も、燐も、朔も、壬も、癸も、昴も、透流も、加乃も、日向も……誰ひとり失いたくはない。彼らは皆、紫苑の家族――ずっとずっと欲しかった、焦がれていた、大切な家族なのだから。
「紫苑……」
「あの男が言っていたな」
 紫苑は唇を歪めた。
 ――貴方がひとの側につくか、あやかしの側につくのかによって、歴史の行く末は大きく変化する。すべて、貴方が握っているということだ。
「私には決められない。ひとだとかあやかしだとか、そんなことで未来を分けたくはない……」
 自分がひとなのか、あやかしなのか、今でも紫苑にはわからない。だが、最近では以前ほどそのことについてこころを悩ませることはなくなっていた。自分は自分なのだと、それでいいのだと、そう思う。彼の家族は、誰も彼をひとかどうか、あやかしなのかどうか、そんな目では見ないのだから。彼らはただ、彼を「御門紫苑」という一個の人格として捕えている。「御門紫苑」が一体どんな人格で構成されているのか、それがわかっていれば十分ということなのだろう。それなのに、今更のようにその問いが紫苑の眼前につきつけられている。――自分はひとなのかあやかしなのかを、決めろという。
「そんなことは、決められない……」
 紫苑にきつく抱きしめられながら、桔梗は唇を噛んだ。――掛ける言葉が、見つからなかった。

  二

 まだ夜も明けきらぬ早朝に、燐はふっと目を覚ました。一体何が彼の眠りを妨げたのかはわからないが、決してその寝覚めは不快なものではなく、ごく自然に夢から醒めたような心地であった。
「ふう――」
 大きく息をつきながら寝具を除け、燐は水を飲もうと立ち上がった。簾を巻き上げ、井戸に向かって歩き出そうとしたところで――ぴたりと足が止まる。
「……壬?」
 うすぼんやりとした朝靄の中にたたずんでいるのは、確かに壬だった。燐を見て驚いたように目を見開き、やがてその眉根にぎゅっと力がこもる。最近久しく見なかった、苦しげな表情だった。
「どうしたの? こんな時間にこんなところで……」
 体の具合が悪いのだろうかと心配しながら、壬の方へと一歩踏み出すと、彼は何故か慌てたようにあとずさった。
「お、起こしたか?」
「ううん、勝手に目が覚めただけだと思うんだけど。何? どうかした?」
「…………」
 深い藍色の瞳が、燐から逸れる。
「……聞きたいことが、ある」
「僕に?」
「そうだ」
 そのためにわざわざこんな時間に来たのだろうか。しかも燐が目覚めるまで、ここでずっと待つつもりだったのか。疑問はいくつも胸に浮かぶが、燐はそれを口にすることなく壬を促した。
「何? 僕に答えられることなら、何でも聞いてくれていいよ」
「……ああ」
 壬はいつになく歯切れ悪く、躊躇をにじませながら口を開いた。
「思い出したくなければ、そう言ってくれ。……俺は」
 ゆらゆらと揺れていた視線が、意を決したように燐へと真っ直ぐに向けられた。
「昔の話が聞きたくて、来たんだ」
「昔の話……?」
「お前は」
 ――燐はぎゅっと拳を握った。壬の質問には、必ず答えなくてはならない。彼は今、何かを胸に抱えている……。
「ひとのことをどう思っているんだ。妻と息子を手に掛けた――ひとという生きものを」
「…………」
 燐はごくりと喉を鳴らした。からからに乾いた喉が痛い。先に水を飲んでおけば良かったな、などと場違いな考えが脳裏に浮かぶ。
「僕も……ひと、だからね」
 燐は力なく微笑んだ。
「ひとという種族を総て否定することは難しい立場だった。親兄弟はみんなひとだし……。友達や同僚も、ひとなんだよ。僕はひとの中でひととして、ひとによって育てられた。僕は、ひとだ」
「…………」
 壬は真剣な顔で燐の話に聞き入っている。
「だから――僕はひとを憎むというよりは、僕自身を憎んだ。ひとである、僕自身を。彼女を殺した憎い人間、それと同じ生きものでありながら彼女を愛した、その罪を憎んだ……」
 燐は目を閉じた。今でも思い出せる、あの頃の光景。彼女の笑顔、彼女の泣き顔、彼女の困ったような苦笑、彼女の寝顔……そして、彼女の死に顔――。燐は眉間に力を込める。涙をこらえるのが、ひどく苦しかった。
「でも、実際に手を下したやつらは存在したわけだろ? 探し出して復讐しようとか……考えなかったのか?」
 壬の声に、燐は目を開ける。徐々に明るさを増していく東の空を背後に背負う彼の姿は、ややぼやけていた。
「考えなかったわけじゃない。最初は半狂乱で紫苑に頼んだ。下手人を探し出してくれって。僕がこの手で殺してやる、家族全員を八つ裂きにしてやるって」
 穏やかな声で語られる過激な言葉に、壬はわずかに顔をひきつらせた。だが、燐の表情は変わらない。
「紫苑は、『お前が望むならそうしよう』って言ってくれたんだよ。だけど同時に、悲しそうな顔でこう言った」
 ――だが、気は進まない。お前に殺されたものの縁故が、きっとまたお前を殺しにくるだろうから。
 燐の唇を優しい笑みが彩る。
「『お前が殺されてしまうのは、ひどく悲しくて寂しいことだ。だから、お前を殺したやつを私は殺しに行くだろう。そしてそいつがまた私を殺しに来るだろう……そうしたら、またふたりで酒が呑めるかもしれんな。我らが落ちあう場所は、きっと地獄だろうが』って」
「…………」
 壬は息を呑んだ。燐はただ、笑っている。
「僕はもう、それ以上何も言えなくなってしまった……」
「……あいつは」
 壬はぽつり、とつぶやいた。
「俺が殺されたら……殺したやつらを殺そうとするのかな」
「それは、わからないよ。だけど」
 燐は真面目な表情で、はっきりと言い切った。
「君がいなくなったら、紫苑は悲しむと思う。――いや、彼だけじゃない。僕も悲しい。桔梗ちゃんも、泣くと思う。昴さんも、みんな。きっと、辛いよ」
「…………」
 壬は俯き、拳を震えるほどに握りしめた。
「けど……、けど、俺は……」
「ひとが、許せないのかい?」
「…………」
 その沈黙は、肯定の合図だった。
「許す必要などないよ」
 燐は静かにつぶやく。
「僕も、まだ僕を許せない。人間のことも、どこかでやっぱり恨んでいる。それでも僕は……ここで生きている。ひとに囲まれ、ひとと共に生きている」
「……なんで」
「そうだねえ」
 燐は目を細め、空を見上げた。しらじらとした朝の光が頭上を覆い、その中に溶け込むように鳥が行き交っていた。彼は一体そこに何を見ているのだろうか。亡き妻の面影か――それとも。
「彼女と過ごしたのは、ここだったからね」
「…………」
 ――聞こえるような気がした。数年前、まだ若かっただろう燐と、その妻だったあやかしの声。愛し合いながら共に生きていた、今はもうどこにもないしあわせな光景。
「壬」
 燐の声が、壬の前の幻を打ち破る。
「何があったのかは聞かない。でも」
 壬はぎゅっと目を閉じた。燐の顔を見たくはない。見てしまえば、揺らぎが大きくなるから……。
「いつでも話においでよ。相談に乗るから」
「あ……」
 思わず、壬は目を開いていた。真剣な顔で自分を見ている燐と、目が合う。
「ありが……とう……」
 ――たとえばひととあやかしが争ったとして。
「俺にはお前を……殺せねえよ……」
 燐には聞こえぬようにそのつぶやきは彼の口中で噛みしめられ、消えていった。