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凶兆の巻 第二章

  一

 流行りやまいが収まった頃には、五月雨の季節はとうに過ぎ去っていた。やがて訪れた、光溢るる夏──しかし都を覆う暗雲は、未だ晴れぬままであった。
 じんわりと熱に包まれた宮中では、ひそひそとした囁きと噂話が行き交っている。
「今度は六条に出たそうな。夜な夜な不気味な唸り声が響いておると言うぞ」
「なんと。先日堀川の調伏が済んだばかりだったのではないのか」
「もののけが跋扈しよると思うと、夜は外にも出られぬな」
「いい機会ではないか、女遊びもほどほどになされればどうか?」
「何を言うか、そなたこそ……」
「これ、それくらいにせぬか」
「そうじゃそうじゃ。何はともあれ御門どの、お頼み申しますぞ」
「そなただけが頼りです」
 口々に発せられる嘆願の言葉とすがりつくような眼差し。紫苑は彼を囲む殿上人たちの話を聞きながら、めまぐるしく思考を回転させていた。
 水無月に入ってからというもの、都ではもののけによる被害が跡を立たない。無人の屋敷が荒らされたとか、牛車に繋いでいた牛を貪り食われたとか……死人は出ていないものの、怪我をしたものは数知れない。出没しているもののけそのものはさほど手強い存在ではなく、祓うのも紫苑にとってはただ手間が掛かるだけのことであったが、問題はその頻度である。今まではひと月に一度調伏の依頼があるかないか程度だったものが、今月だけでも無数に発生している。ただごととは思えない。
 また、気になることは他にもある。そもそも、都には紫苑ら陰陽寮の陰陽師たちによる結界が張られている。紫苑が最近相手にしているようなもののけたちに、それを打ち破って侵入するほどの力があるとは到底思えなかった。時折都で発生する程度の数のもののけは、都人の怨念や情念が凝り固まったものだと解釈できる。だが、今の場合はきっとあてはまらない。誰かが意図的に結界内に発生させているとしか……。
 ――何か、強い力を持ったものが事態の裏にいる。紫苑のそれは既に疑惑ではなく、確信の域に達していた。それが何を企むのか、どういった存在なのか、今のところは何もわからない。だがそれはきっと遠からぬうちに自分の前に姿を現すのであろう。その予感が、漠然と紫苑の胸を占めていた。
 
 
  二
  
 夕暮れ時、紫苑は焔を連れて屋敷を出る準備をしていた。別に朱雀の力を借りずとも調伏できる程度のもののけに決まってはいるのだが、彼を連れて行くことで桔梗を安心させるという意味もある。とはいえ、焔を連れて行ったからといって、桔梗の不満がすべて解消されるという訳でもなかった。
「私を連れて行ってくれればいいのに」
 唇をとがらせる桔梗に、紫苑は穏やかに笑ってみせた。
「そんなに私は信用されていないのか?」
「そういうわけじゃありません。でも……紫苑が帰ってくるまで、心配で心配で……」
「……やれやれ」
 式神に用意をさせた牛車が既に外に待っているのだが、紫苑に急く様子はまったくない。不機嫌なままの桔梗を残していくと留守番の壬や癸らに被害が及ぶらしく、結局回りまわって壬に紫苑が叱られる。
 紫苑は視線を落とした桔梗の目の前にしゃがみこみ、無理やりに視線を合わせた。
「お前を連れて行ってしまえば、私はお前が心配でそちらに気をとられてしまうだろう。かえって危険なのだよ」
「大丈夫です。私が紫苑を守りますから」
 紫苑は笑みを零し、桔梗の髪を優しく撫でた。
「気持ちは嬉しいが……何も側にいることだけが互いを守ることではないと思う」
「え……?」
 不思議そうに首を傾げる彼女の両手をとり、そっと壊さぬように握りしめる。
「お前が待っていてくれるから、私は無事で帰らねばならぬと思う。それに、この屋敷には私の張った結界がはりめぐらされている。もののけがお前たちの強い妖力に引き寄せられぬように――お前を守るために、私が張ったものだ」
「紫苑……」
 桔梗の目が少しだけ潤んだ。その透き通った水晶の瞳の中に、穏やかに微笑む紫苑の顔が映っている。
「私はいつもお前に守られている。お前を守りたいと思っている。そのことを、忘れないでくれ」
「……はい」
 桔梗は紫苑の両手をぎゅっと握り返した。
「では私は紫苑の妻として、このお屋敷をちゃんと守りますね」
「気持は嬉しいが……屋敷など」
 紫苑は首を横に振った。
「どうなってしまったって構わない。ただお前が無事でいてくれれば――私の家族が、無事でいてくれたら、それでいいんだ」
「……かぞく……」
 桔梗はつぶやく。――紫苑の、家族。生まれながらにして父母を知らなかった、紫苑の家族。それは桔梗であり、壬であり、癸であり、燐であり、朔であり、昴であり、透流であり、加乃であり、日向であった。
「お前に出会うまで、私には何もなかったのに」
 紫苑は彼女を抱き寄せ、つぶやいた。
「今ではこんなにたくさんのものに囲まれている」
「紫苑」
「お前が、連れて来てくれたのだろうか」
「…………」
 ――もしかしたら、それこそが一連の運命の流れなのかもしれない。桔梗はそう思ったが、口に出すことはなかった。きっと紫苑は運命などという言葉を好まない。桔梗とて、そんな曖昧なもので自分たちの絆を表現されたくはない。出会ってから乗り越えたいくつもの出来事――喜びと、怒りと、悲しみと、そして何よりも、ともに育んできた愛しさ……。
「桔梗」
 名を呼ばれて顔を上げると、そこには彼女を優しく見つめる紫電の瞳があった。見慣れたはずのそれに、どきりと胸が高鳴る。
「お前が私の運命なら――」
 ささやかれた言葉が、桔梗のこころを愛撫する。
「私はその総てを、受け入れるから――」
「…………!!」
 桔梗は無言で紫苑にしがみついた。離れたくない。もっと深く、もっと近く、紫苑に寄り添っていたい。――いっそ、このままひとつに溶けてしまえればいいのに……この肉体の境界線が、どうしようもなくじれったかった。

  三
  
 今宵のそらに月はない。ひとときに比べると、日の入りは随分と遅くなった。夏の夜風に袖をなぶられながら、紫苑は焔を従えて歩みを進めている。二三日前から六条に出没しているというもののけ――それを、打ち滅ぼさねばならぬ。
「なあ、焔」
「はい」
 背後につき従う赤い男に、紫苑は静かに言葉を投げた。
「こうも妖異が続くのは、やはり裏に何かあるのだろうか」
「何か、と申しますと?」
「……焔」
 紫苑は少しだけ語気を強め、彼の名を呼んだ。
「私は神獣、朱雀であるお前に尋ねているのだ」
「…………」
 焔はその赤い視線を伏せた。紫苑は振り返らない。ふたりが歩むかすかな物音だけが、静まりかえった辺りに小さく響いている。
「……まあいい」
 続いた沈黙を一体どうとらえたのか、やがて紫苑は大きく息をついた。
「陰陽寮の星見が言っていた」
 ――凶星が、都に近付いておりまする。
「そして、私の周りにも不穏な気配があると……」
 紫苑は口を噤んだ。星見の老人、菅野の言葉を思い出す。――あなたさまの周りで、星が瞬いておりまする。それが吉と出るか、凶と出るかは未だわたくしにも見分けられませぬが……何かがきっと、変わってしまうことでございましょう。
 変わる……一体、何が……?
「紫苑さま」
 焔の声に、紫苑は足を止めた。辺りを包むぼんやりとした瘴気――おそらく、これはもののけが放っているものだ。
「何が狙いかは知らぬが」
 紫苑はつぶやく。振り向いた視線の先にうごめく、異形の存在。宝刀を抜き、彼は手早く呪を唱えた。刀身に刻み込まれた護法の文字が浮かび上がる。もののけは紫苑に気付いたのか、闇を纏う歪な手足を彼に向けて伸ばし来た。だが――遅い!
「破ッ」
 ――ざん! 吐き出された気迫とともに、紫苑は枯れ枝のようにねじくれた細い指をほとんど切り払っていた。それらはぱらぱらと地面に落ちるやいなや、ずぶずぶと泥のように崩れていく。
 ――るろおおおおおおおおおおおおおおお!!
 奇怪な悲鳴が辺りを揺るがす中、紫苑はさらに間合いを詰めた。懐から取り出した呪符に念をこめ、陣を描いて飛ばす。
「…………」
 薄い唇の中でつむがれる呪に呼応して、陣はかっ、と炎を発した。もはやもののけにそこから抜け出す余力はなく、このまま燃え落ち滅びるだろう――紫苑がそう安堵して肩の力を抜いた時。
「紫苑さま!!」
 焔の緊迫した声が飛んだ。紫苑ははっと顔を上げる。御門の屋敷に掛けていた結界が――破られた。
「ききょう……?」