instagram

凶兆の巻 第三章

  一

 ──ぞわり、と肌が粟だった。壬は飛び起きるように立ち上がり、廊下に飛び出した。同じように部屋から出てきた癸と警戒の視線を交わし合う。
「近くに何か……いるね」
「ああ」
 頷いてから、壬ははっと息を飲んだ。
「桔梗は……?」
 彼ら三人の中で最も強い妖力を持つ彼女。まさかこの気配に気付いていないとは思えない。だが、屋敷はしんと静まっている。
「探そう」
 癸の声を合図に、彼らは桔梗の部屋へと駆け出した。

 廊下を進むにつれ、気配は次第に濃く強くなってくる。徐々に足を早めながら、やがて壬らは桔梗の部屋に踏み込んだ。
「…………!!」
「ふたりとも、来たんですね」
 彼らに背を向けていた桔梗がちらりと振り返る。その表情はひどく険しいものだった。
 壬はごくりと唾を飲み、問いかけた。
「お前……何者だ……?」
 問いを投げかけられた人影は、水龍らを目の前にしているとは思えないほど、悠然とたたずんでいた。口元が、ゆるむ。
「さあ……な」
 それは笑みすらたたえて、じっと彼らを見返している。──あやかし。髪はみどりがかった黒。肌は浅黒く、闇色の文様が刻み込まれている。目は薄くすがめられているせいで色までは読み取ることができなかったが、この特徴的な姿に、壬も癸も覚えがあった。
「黒鷹族……?!」
 黒鷹族――あやかしの中でも四天王と呼ばれた強力な四つの種族、その一。すなわち、水の水龍、火の鳳凰、風の白蛇、地の黒鷹。前者二種族は既にひとによって討伐され、世間的には滅亡したことになっている。後者は都から離れた地に住み着いたことにより、ひとまず難を逃れた。永らく姿を潜めていたはずの黒鷹が、何故都に……? 壬と癸は不可解な表情で視線を交わす。
「水龍の御子よ」
 黒鷹族の男は傲然と頭をもたげて言い放った。
「我らと手を組まぬか」
「え……?」
「……まず、名を名乗られてはどうです」
 桔梗は落ち着き払って問い返す。男は苦笑を浮かべた。
「おう、それは失礼を致した。我が名は夜雲(やぐも)。黒鷹族の長、夜月(やづき)の嫡子である。以後お見知りおかれよ」
「私は桔梗」
 彼女はすっと立ち上がり、鋭い眼光で夜雲を睨み上げた。
「ここが誰の屋敷なのかは、ご存知の上なのでしょうね?」
「ああ、もちろんだ」
 夜雲は笑みを深める。
「もしここの主が望むのなら、彼と共に来れば良いのだよ――『桔梗』どの」
「…………」
 桔梗は眉を寄せて目を細めた。夜雲の申し出にこころを揺らしているようでもあり、ただその真意を計りかねて困惑している様子にも見える。
 壬は意を決して口を開いた。
「『我ら』……といったな?」
「ああ、言った」
「お前たちは徒党を組んでいる、と? 一体仲間を集めて何をするつもりだ?」
「何――と」
 夜雲は肩を揺らして笑った。壬は眦を上げる。
「何がおかしい!」
「いや、まさか水龍にその質問をされると思わなかったのでな」
 体格の良い夜雲は上背が壬と同じくらい、威圧感はそれ以上であった。壬の放つびりびりとした殺気もものともせず、余裕たっぷりの微笑みを浮かべている。
「私がわざわざ都まで物見遊山のために来たとは思うまい。水龍の御子――彼女を守る双子星――そして鳳凰の血を引く半妖――それらを誘う目的とは、ただひとつではないか」
「……まさか」
 桔梗がぽつりとつぶやいた。
「今都で起こっている怪異は――」
「ご明察」
 夜雲は小さく鼻息をふく。
「我らの手によるものだ」
「なるほど」
 じっと黙っていた癸が口を開いた。その水色の視線は冷ややかに落ち着いて、それでいながら熱っぽく燃えている。
「反撃――というわけですか」
 かつてひとの手により大幅に数を減らされ、力をこそぎ落されたあやかし。それが今、ひとに牙を向こうとしている――。
 壬はぶるりと体を震わせる。彼の体を駆け抜けたものが恐怖か、不安か、それとも期待にも似た何かなのか――自分でも良くわからなかった。
 
 
  二
  
 屋敷の結界が破られた。紫苑は焦りを滲ませて焔を見遣る。
「何か感じるか?」
「何やら気配がひとつ……増えております」
「増えている……か」
 どうやら何者かがあの屋敷に侵入したらしい。おそらくは、招かれざる客。
 もののけを討伐するために紫苑の集中力が逸れたのを利用して、結界を破ったのだろうか。とすれば、その相手は紫苑がここに出向いていることを知る相手――すなわち、都を襲っている者の仲間、もしくはその本人ということになる。
「ちっ」
 紫苑は舌打ちし、懐から紙を取り出して器用に一頭の馬を折り上げた。ふっと息を吹きかけて掌から浮かすと、それが地面につく頃には既に本物の馬になって地面を蹴立てている。白いたてがみがふわふわと揺れるさまを見れば、まさかそれが元は紙でできているなどとは誰も思うまい。
「朱雀、屋敷に戻るぞ!」
「はい」
 紫苑はひらりと馬にまたがり、脇腹を蹴った。あぶみもくつわもない裸馬ではあるが、紫苑は苦もなく乗りこなす。
 屋敷にいるのは三人の水龍である。まさか彼らが危険な目に遭わされているとは考えにくい。彼らが本気を出せば、この都など消し飛んでしまうであろう。とはいえ、相手がそのことを知っていながら仕掛けてきたとすれば――そこにはまた別の思惑があるのだろう。表立って彼らと対立しようとはしないに違いない。
 ――それでは、相手の目的は一体……? 紫苑の額にじわりと汗が滲んだ。
 鳥の姿に戻った焔はふわりと浮き上がり、紫苑の頭上高くを飛んでいる。その黄金色の瞳が何を見ているのか――地上を駆ける紫苑には知るべくもないことであった。
 
 
  三
  
 いったん部屋を満たした沈黙を破ったのは、癸であった。
「黒鷹は鎮西に棲んでいると聞きます。白蛇は道奥国(みちのく)を本拠とする――今動いているのは黒鷹だけですか?」
「鋭いな」
 夜雲は癸をじっと見つめる。
「名は?」
「――癸」
「ほほう。なら」
 視線が壬をとらえた。
「そちらは壬、か」
「そうだ」
「癸よ。お前の質問には今答えるわけにはいかない。なぜなら――」
 夜雲の瞳がすうっと細められる。
「お前たちは今、我々にとっては裏切りものなのだからな」
「何……?」
 気色ばむ壬を、癸が止めた。夜雲はひるむ様子もなく言い募る。
「当たり前だろう。お前たちは今、どこにいるのかを良く考えることだな。そして、誰の屋敷に住まうのかも」
「…………」
 壬は唇を噛んだ。――確かに夜雲の言う通りだ。今自分がいるのはひとの築いた都の中。そして、ここは陰陽博士、御門紫苑の屋敷。いくら紫苑が半分あやかしの血を引いているとは言えども、今の彼はひとを守るべく存在している。つまり、自分たちはひとの側に立っているも同然……。
「先ほど私は」
 夜雲の低い静かな声が、壬の胸に染み渡った。
「『まさか水龍にその質問をされると思わなかった』と言った。我らが仲間を募るといえばすることはひとつ。決まりきっている。しかも……」
 壬は顔を上げない。その横顔を癸が心配げに見つめている、そのことに気付いてはいても、やはり壬は体を硬くしたままであった。
「水龍はひとに滅ぼされた種族であろうが。その恨み、悲しみ、怒り、憎しみ……忘れてしもうたのか?!」
「――だから、今度は」
 桔梗が口を開いた。
「ひとにそれを与えよう、というわけですか? 恨みと、悲しみと、怒りと、憎しみを。自らの体験した痛みをそのまま返そうと? そうしてまたそれが私たちに返ってくるのに」
「返っては来ない」
 夜雲はきっぱりと言った。
「返ってくるはずがないさ。何故なら……」
 ――ごくり。つばを飲む音が、壬の体中にひどく大きく響いたような気がした。
「ひとは滅ぼされるべき種族だ。この地はすべて、あやかしのためのものとなる」
「な……何を……」
 桔梗が息を飲み、癸が呻いた。夜雲は動じる様子もなく淡々と言葉を紡ぐ。
「何を驚くことがある? そもそもこの世界にひととあやかしが混在しているから争いが生まれるのだ。憎悪の連鎖を何度も繰り返し、決してそれは断ち切ることができない。それなら、強い方がこの地の覇権を手にすれば良いではないか。弱いものは追われ、強いものが君臨する。それが自然界の摂理」
「なるほど」
 桔梗は乾いた声で言った。
「貴方のいう強さとは、相手を殺す強さですか? たくさん殺した方が強い、と。そういうわけなのですね」
「わかりやすくて良かろう?」
「そういうことでしたら――」
 壬の視界に、桔梗の微笑が映った。
「私は貴方がたの仲間にはなれません」
「……ほう?」
 夜雲は気にした様子もなく問い返す。
「それは何故だ?」
「いくら力があろうとも――貴方がたの言うような強さを持っていようとも、それに溺れて身を滅ぼしたものを、私は知っています」
 桔梗は何かを思いだすように目を細めた。その瞳の裏には何が映っているのだろうか……。
「反対に、何の力もないか弱いものが、驚くほどの強さを発揮することがある――何かを守るために、その身を投げ出すこともいとわない。そこには何の計算もありません。ただ、こころがあるだけ……何よりも強い、こころが」
「…………」
「私はそのこころをひとの中に見る。そして、そのこころを愛しいと思う。ですから――」
「ひとの側につく、と? 決して貴方を受け入れない、ひとの側に?」
「どちらにつくとか、そういうことは考えていません。ただ」
 かすかに馬のいななく声が聞こえた。青ざめていた桔梗の頬にさっと血色が戻る。
「私は貴方がたの考え方が気に食わない。それだけです」
「…………」
 夜雲はしばらく桔梗を睨みつけていたが、やがてその視線を壬や癸の方に投げた。
「お前たちは、どうだ?」
「……俺は」
「兄さん?」
 癸の声が聞こえているのかいないのか、壬はただじっと床を見つめていた。
「俺は…………」
「私の屋敷で、一体何をしている?」
 夜雲はやや表情を動かし、振り返った。――彼を映すのは、紫電の瞳。ひととあやかしの血を宿すという、禁忌の子の証。
「紫苑!」
「紫苑さん」
「……紫苑」
 彼を呼ぶ三つの声が、重なった。