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凶兆の巻 第七章

  一

 加乃がその(ふみ)に気が付いたのは、夜が明けてまだ間もない頃であった。日向とともに朝餉の用意をしようと起き出したところで、帳の紐にくくりつけられていたそれに目が止まったのである。──昨夜眠るときには、たしか何もなかったはずなのだが……。加乃は背伸びをして、それをほどいた。現れた筆跡には、見覚えがある。
「癸さん……?」
 その名をつぶやいて紙面に目を落とした彼女は、やがて驚愕に息を飲んだ。

 ──急で申し訳ないのだけれど、兄とともにしばらく都を離れます。お父上の言うことを良く聞いて、元気に暮らして下さい。蓮どのにもよろしく。

 おそらく、出立は昨夜だったのだろう。ここまで来たのなら、なぜ自分を起こしてくれなかったのか。加乃は唇を噛んだ。
 癸と過ごした数年間、加乃は彼を兄と慕ってきた。だが今、彼は彼女に何の断りもなく行ってしまう──実の兄とともに。自分の癸への想いは一方通行だったのだろうか。彼を家族だと思っていたのは、自分だけだったのか。──やはり、他人同士が家族なんて……。そこまで考え、加乃は体を強張らせた。彼女を迎え入れた橘家。それもまた、元はといえば他人に過ぎない。
「私……ここにいてもいいのかな……」
 つぶやいたとき、背後にひとの気配がした。
「加乃、何してるんだ?」
 振り向いた先に佇むのは、日向である。いつまでたっても起きてこない加乃に業を煮やし、様子を見に来たのだろう。相変わらず男の装束に身を包んでいるが、現在の加乃にとっては昴と同じく姉のような存在である。──それでもやはり、血のつながりのない他人には代わりがないのだけれど……。
「どうした? 気持ちが悪いのか?」
 加乃が妙な顔をしているのに気付いたのか、日向は心配そうに眉をひそめて近寄ってきた。
「あ、いえ何でも……」
 誤魔化そうとして手を振った拍子、癸からの文がぱさりと床に落ちた。あわててしゃがみこむ加乃の頭上から、日向の声が降る。
「手紙? あの蓮、とかいう男からか」
「……いえ、違います」
 加乃はのろのろと立ち上がり、文を日向の前に差し出した。
「これは、癸さんからなんです」
「おれが見てもいいのか?」
 加乃はうなずく。日向はさっと視線で紙面をひとなでした。その表情が、わずかに曇る。
「壬も……一緒なんだな」
「…………」
 うつむいて答えない加乃に、日向は紙をくるくると巻いて返した。
「三日ほど前、壬が何やら先生のところに話をしに来たらしい。少し様子がおかしかったと、心配されていたよ」
「壬さんも……?」
 癸をやや骨太にしたような印象の彼は、加乃にとても優しかった。まるで兄がもうひとり増えたようだと、そう思ったほどである。その彼が、彼女の養父である燐に一体何の話をしたのだろうか。
「なあ、加乃」
 日向は加乃の背中を軽く叩いた。
「きっと、癸さんは加乃との別れがつらすぎたんだよ。だから何も言わなかったんだ」
「え……?」
 思わず顔をあげる。視線の先、日向は柔らかな表情で微笑んでいた。
「加乃が寂しがったり、泣いたりしたらきっとあのひとは行けなくなる。決意が揺らぐ。でも一目顔を見たくて──ここに来たんだろう」
「…………」
 加乃は手にした文をぎゅっと握りしめた。──脳裏に、癸の穏やかな笑顔が浮かぶ。目の縁に、熱いものが溜まった。
「今はとにかく、待っててやれよ」
 日向は加乃の横顔を優しく見守りながら、その頭をぽんぽんと叩く。
「帰って来るって書いてあるもの。信じて便りを待ってやれ」
「──そうですね」
 加乃は微笑した。
「日向さん、ありがとう」
「どういたしまして」
「日向さんって、お母さんみたいです」
 それは、唐突に浮かんだ言葉だった。亡き母と日向、どこが似ているというわけではないのだが、日向には何となく安心感を感じる。
「お、お母さん?!」
 加乃の言葉に、日向は案の定目を剥いた。その表情を見てくすりと笑った加乃は、遅れた朝餉の用意をすべく、廊下をぱたぱたと走っていく。
「何だっておれが……」
 残された日向はぶつぶつとつぶやいた。そんなに自分は老けて見えるのか。――やがて、ふと顔をあげる。
「母親……か……」
 それは寂寥をにじませた、か細いおんなの声だった。

  二

 壬らが都を離れて数日が経った。御門邸の奥、ぴたりと締め切られた部屋の中に、むん、と湿気がこもっている。外の蝉の鳴き声が、遠くじわじわと聞こえていた。部屋の中にいるのは紫苑、桔梗、朔、昴の四人。それぞれ四聖獣と関わりを持つ者らだが、ひとりは半妖であり、ひとりはあやかしであり、ひとりは一度は死したものであり、ひとりはひとである。
「壬さんたちは、行きましたか……」
 朔の言葉に、桔梗は浮かぬ顔で目を伏せる。紫苑はそんな彼女の横顔をちらりと見遣ったが、口に出したのは別のことだった。
「あれらは四天王で、夜雲とは対等といえる。今後のあやかしたちの動きに良い影響を与えてくれるかもしれない」
「でも」
 昴が声を上げた。
「その夜雲とかいうの、わざわざ紫苑さんのうちに押し掛けてきて、仲間になれって言ってきたんでしょう? たぶん目的は紫苑さんや桔梗ちゃんだけじゃないでしょうに。きっと、壬たちのことも取り込みたかったんじゃないかしら。だとしたら――」
「夜雲はあいつらを知らない」
 紫苑は昴を遮り、口を開いた。やや薄暗い部屋の中、紫の瞳にぼうっと神秘的な光が灯る。
「だが、私は知っている。――お前たちもみんな、そうだろう。あいつらのことは良く知っているはずだ。少なくとも、夜雲よりは」
「……そうですね」
 朔が頷く。紫苑はしっかりと頷き返した。
「それならば、私たちはあいつらを信頼してやらなければならない。そしてあいつらがどんな決断をしようとも――たとえ、ひとと敵対することになろうとも」
 その言葉を聞いて、桔梗の肩がぴくりと震えた。
「私はそれを、尊重する」
「紫苑さん。貴方はどうするおつもりなんですか?」
「――さて、どうするか」
 紫苑はふう、とため息をついた。
「あやかしが都に攻め上ってきたとしても、ぎりぎりまで私は都にとどめおかれるのではないかな。かつてもそうだったから」
「……そういうものなのかしら」
 二十数年の人生をずっとひとの世で生きてきたにも関わらず、紫苑はやはり半妖なのだ。そのことを、都びとは決して忘れない。ただその身にあやかしの血が流れているという理由だけで、紫苑が見も知らぬあやかしたちの元に奔るかも知れぬと考える、その思考が昴には良くわからない。
 紫苑は苦笑した。
「まあ、そういうものだ」
「僕がお聞きしているのは、そういうことではないんです」
 再び朔が口を開いた。
「宮中のひとたちがどういう風に紫苑さんを扱うつもりなのか、もちろんそこは重要なことです。でも、もっと大切なことがあるのではないでしょうか」
「大切なこと……?」
 紫苑が眉をひそめる。と、それまで沈黙を守っていた桔梗がゆらりと顔を上げた。朔は彼女に向かい、言葉を投げかける。
「桔梗さん。おわかりですよね」
「……ええ、わかります」
「桔梗?」
 不思議そうに首を傾げる紫苑の腕に、桔梗はそっと触れた。彼を映す薄水色の瞳が、静かに瞬く。
「紫苑は、一体誰のために戦うのか――もしくは戦わないのか。誰を守り、誰を攻めるのか。一体どんな未来を、紫苑は望んでいるのか」
「…………」
 紫苑は息を飲んだ。
「簡単なことですよ。紫苑さん」
「――私はもう、決めているわ」
 昴はすっと顔を上げた。
「私はかつて、大きな過ちを犯した。再び繰り返すつもりはない」
「というと?」
 紫苑の問いに、昴は真っ直ぐ答えた。
「この都を、守るわ。ほとんど外に出たことはないけれど――それでもやっぱり、私の暮らすところだもの。私の毎日は、ここにあるのよ」
「僕も、決めています。――父とその家族を守る、と。加乃さんや、そして藤原蓮さん……。僕はそのために戻ってきたのですしね」
 朔はそう言って、少し寂しげに微笑んだ。その肩には相変わらず白い猫が乗っていて、金色の瞳を薄く細めている。ふたりの言葉を受け、紫苑の視線はおのずと桔梗に向かった。彼女はそれに気付き、微笑む。
「ずっと紫苑とともに在ること――それが私の願いです。それがどこであろうが、私は構いません。ただ、紫苑と一緒にいられて、紫苑がしあわせでさえいてくれれば……」
 優しい表情と声音でありながら、彼女のまとう空気にはどこか凄みがあった。――まるで自らの望みが叶わないのなら、この世などどうなっても構わないというような……。
 同じことを感じたのか、昴がやや引きつった笑みを見せた。
「極端ね」
「そうですか?」
 桔梗は薄く微笑んだまま、昴に相対した。
「紫苑のいない世界など、私には何の意味もありませんから」
 絶句した昴にかわって朔は軽い調子でひとつ頷き、紫苑にその琥珀色の視線を向けた。
「では、紫苑さんは?」
 紫苑は静かに目を閉じた。先ほどの桔梗の言葉の意味――つまり、彼の決断によって桔梗の運命は大きく変化するということだ。体の奥深いところで、何かが小刻みに震える。大きく息を吐き出しながら、紫苑は言葉を押し出した。
「私は……」
 紫苑の脳裏に、桔梗との祝言の宴の光景が蘇った。あの夜、誰もが笑っていた。しあわせそうに、笑っていた。あの場にいたのは、みな紫苑の大切な家族だ。あのうちの誰かひとりでも、紫苑は失いたくない。泣いて欲しくはない。誰よりも――桔梗には。
「私は…………」
 ――蝉の声が、止んだ。その不自然な静寂の中、慌しく鳴り響く馬の蹄の音が、徐々に近付いてくる。紫苑は口を閉ざし、視線を門の方角へと投げた。
「あれは、ここに来るのかしら……」
 そうつぶやいた昴の予感は、まさに的中した。
 宮中からの使いがもたらした知らせ。それは、坂東であやかしたちが兵を挙げたというものであった――。