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凶兆の巻 第一章

  一

 都を最初に襲った怪異はというと、ひとは皆藤原雅哉の無念の死を挙げた。都のはずれに住まう異母妹を見舞いに行き、その帰りにもののけに襲われた――実はその世間に知らされた真相と真実はまったく異なっているのだが、妖異によっていのちを奪われたことには違いない。そういえばあの事件以来、都はどこかおかしくなってしまったようだった。そのひとつが、桜の散る頃から流行り始めた熱のやまいだ。そしてその原因を突き止めたのは時の陰陽博士、御門紫苑だった――ということになっている。
「……この井戸もか」
 夜、人気のない場所でぼそぼそと会話を交わすひと組の男女。五月雨の季節ながら久方ぶりに雨も止み、月のひかりがぼんやりとふたりの影を浮かび上がらせている。それに照らされた女の髪は、銀色にきらきらと輝いていた。
「はい。おそらく」
 男の問いに答えた女は、じっと井戸の奥を覗き込んだ。まるでその視線によって突発的に沸騰したかのように、水面がぶつぶつと泡立ち始める。男は紫電の瞳でその様子をじっと見守っていた。
「――ふっ」
 ばしゃり。女が力を込めると同時に、水面から何か黒っぽいものが飛び出した。ふたりは驚かない。既に見慣れてしまっていた。
「また、同じ毒……」
 男――御門紫苑は、ぽつりとつぶやく。井戸の中から取り出されたその黒いものはしばらくふたりの目の前に滞空していたが、紫苑が軽く手を振るとぱちぱちと音を立てながら燃え始めた。やがて灰が地面に落ち、辺りは何事もなかったかのように静まり返る。
「…………」
 紫苑の隣に立つ桔梗は、じっと紫苑の表情を見つめていた。きゅっと顰められた眉、噛みしめられた唇――はっとするほど美しく、それでいて険しい表情。紫苑の手は硬く握りしめられている。それは迫り来る悪い予感に、じっと耐えているようにも見えた。
 都を襲った流行りやまい、いや、それは実のところやまいではない。原因は何者かが井戸に仕込んでいた毒だったからだ。そのことに気付いたのは、桔梗ら水龍族のあやかしであった。都に満ちる水の気が乱れ始めたのだという。紫苑自身ではそれを感じ取ることはできなかったのだが、すぐに今上に上申して都のすべての井戸の使用を一度禁止させた。そうしておいて、紫苑は桔梗を連れてひとつひとつの井戸を確認に出向いたのである。
 毒の混入は、既に十箇所以上で確認されている。井戸を使用させないようにしたことでやまいの流行はおさまったが、下手人がはっきりとしないことが都びとを怯えさせていた。
 毒を用いることはひとにもできるがあやかしにもできる。一度紫苑は毒を持ち帰り、陰陽寮をはじめ皆で調べてみたのだが、誰もが首を傾げて「このような毒は見たことがない」というばかり。結局その正体はわからなかった。
 一体誰が都を襲っているのか――無言の無差別な悪意に晒されながら、やがて都は夏を迎えようとしていた。
 
 
  二
  
 昼下がり。地響きのような遠雷の音に、日向は寝具の中で肩をすくめた。しんと静まり返った橘の屋敷に、ひとけはない。昴らは離れにいる。先ほどまで側にいてくれた加乃はどこへ行ったのか……。
「やだな、雷苦手なのに」
 日向はつぶやき、寝具で耳元を覆った。彼女が床についてから数日。熱は既に下がっていたが、まだ起き上がるほどには快復していない。
「まあ、流行りやまいじゃなくて良かったけど……」
 最初に彼女が倒れた時は、誰もがそれを心配した。しかし橘邸と御門邸は真っ先に井戸を調べた場所でもある。案の定彼女の症状は都で流行っているそれとは違っていて、皆ほっと胸をなでおろしたものだった。それでも、日向の体がつらいことには変わりはない。
「ふう」
 日向のため息を打ち消すように辺りが一瞬白い光で染まり、やがて轟音が大気を引き裂いた。
「ぎゃあああ!!」
 雷は嫌いだ。話の創作が得意だった母が、調子に乗って怪談まがいの逸話を聞かせたせいだろうか。とにかく怖い。理由などない。日向は寝具をかぶって体を丸め、ぎゅっと目をつぶった。こればかりは耳を塞ぎ、ただ行き過ぎるのを待つより他にない。だが、目と違って耳は完全に閉じることができないものだ。抑えた手の隙間から、笑みを含んだ声が聞こえた。
「随分と色気のない悲鳴だね」
「え?」
 目を開けて寝具をそっと頭から退けてみる。彼女のとなりで、燐が笑っていた。日向が無理やりに押しかけて弟子入りした、彼女の若き師匠。
「先生……」
「雷が苦手なのかい? それともまだ体調が良くない?」
 笑いながらも心配げに眉を寄せ、燐は彼女の額にぺたりとその手のひらを当てた。
「熱はないようだけど……」
「あ、はい。そっちは大丈夫です」
 日向は恐怖を忘れてこくりと頷いた。とりあえず誰かが側にいれば、少しは我慢できる――そう思った時。先ほどよりも激しい光が目を焼いた。
「うわあああ!!」
 日向は叫び、まもなく響き渡るであろう音が聞こえないようにと手近なものに頭をうずめた。
「ひ、日向くん」
 何やらやわらかいものにしがみつき、ぎゅっと目を閉じる。轟音は思ったよりも少しだけ遠くに聞こえて、日向はほっと息をついた。
「これはひどい雨になるかもしれないねえ」
 ため息まじりの燐の声に同意しようと顔を挙げ、日向は目を瞬いた。――自分が腕を回しているもの。それは彼の、腰だった。
「きゃああああああ!!」
「今度は何なんだい」
 燐はくすりと笑った。たぶん、彼女の悲鳴の原因などとっくにお見通しだろうに……この男、案外ひとが悪い。
「ご、ごめんなさい、わたし、とっさに」
 ――先生に抱きついてしまった。あわあわと口を開閉させる日向に、燐は軽く首を傾げた。
「『わたし』?」
「いや、おれ、おれですおれ! いやーびっくりしちゃったなー」
 がはははは、とわざとらしく男を装う日向に、燐は苦笑のような表情を浮かべる。
「何なら無理しなくても良いんだよ。『日向ちゃん』」
「…………」
 日向はぴたりと動きを止めた。――やはり、先生は気付いている。彼女が男のふりをしていること。そしてもしかしたら、彼女の出自すらも……。
 日向の脳裏に過ぎったのは、橘家に住まう女たちが纏う装束だった。彼女のような素っ気ない男物ではなく、精緻な刺繍や色合わせの施された綺麗な着物。彼女とておなごである、それらに興味がない訳ではない。しかし、彼女は首を横に振った。
「いいえ。おれは決めたんです。男として生きていくって」
 ――ひなた。おんなはかなしいものね。あなたがおとこなら良かったのに……。そう言って死んでいった母を、彼女は忘れられない。
「そう……」
 燐は優しく微笑み、日向の髪をそうっとなでた。
「でも忘れないで。僕は君を弟子にしたんだ。君が男でも女でも、そのことにかわりはないんだよ」
「…………」
 ぐ、と喉がつまった。とっくにおさまったはずの頭痛――だがそれは熱ではなく涙の前兆。
「ありがとう、ございます……」
 先ほどと同じように、手を伸ばしてしがみつく。燐はまるで自分の息子を抱擁するかのように、やさしく彼女を包みこんだ。――あたたかい。そのおだやかなぬくもりに、日向はそっと目を閉じた……。
 
「……ひなた?」
 燐の声に、返事はない。どうやら日向は眠ってしまったようだった。まだ体調も悪いのだ、仕方があるまい。彼の膝の上にある彼女の体を、そうっと寝具に戻す。華奢なその骨格は、やはりおんなのものだった。
「きみも、重いものを背負っているんだね」
 美しいさかりの年齢も関わらず、女を捨てる決断をした日向。
「……せん……せ……」
 眠りの中にいる日向が彼を呼ぶ。その目元を一筋の涙が伝った。
「ひなた……」
 燐は手を伸ばし、そうっとその頬を拭ってやった。
 雷の去った後のそらは嘘のように晴れて、雨のひとつぶも降らせはしなかった。

  三
  
 都のとある場所の井戸に仕込まれていた毒――紫苑に頼んで屋敷に持ち帰ってもらったそれを、癸は険しい顔でじっと見つめていた。口にした人間は激しい高熱を発し、体中に赤い皮疹が生じて三日三晩苦しむ――半数はそのまま治癒し、半数は命を落とす。恐ろしい症状を引き起こす毒だ。
「癸」
 弟の様子に気付いたのか、壬が気遣わしげに声を掛けてきた。
「何か心当たりがあるのか」
「……ううん。でも、気になることがある」
 実は、御門邸の井戸には毒が仕掛けられていた。だが、誰もやまいを発症することはなかった。
「つまり」
 癸は兄を見つめ、強張った声を発する。
「この毒はあやかしには効かない――人間だけを狙ったものなんだ」
 御門邸に住まうものは誰も皆あやかしの血を引いている。紫苑ですら、半分はあやかしだ。彼らが誰も被害にあわなかったのは、そのためかもしれない……。
「だからって」
 壬はわざとらしく笑い飛ばした。
「犯人があやかしとは限らないだろ。人間だって自分たちの使っている毒のどれがあやかしに効いてどれが効かないかなんて、知らないはずだ」
「それは、そうだけど……」
 人間の毒なら、調べればそれが何かくらいはすぐにわかるはずではないか。何故陰陽寮にいる者たちにすらその正体がわからなかったのか。癸は浮かんだ反論を飲み込んだ。
 まさか、あやかしが今更人間に攻勢をかけるなど。四天王のうち水龍族と鳳凰族を失い、残った白蛇族と黒鷹族は今も昔も沈黙を守っている。
 ――あり得ない。それが現実や真実ではなく、ただの自分の願望に過ぎないことも自覚しないまま、癸はその言葉だけを胸中に繰り返していた。