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藤原の巻 第四章

  一

「兄上」
 呼び止められ、雅哉は宮中の廊を歩む足を止めた。振り返る。
「伴雅か」
「はい。……少し、よろしいですか」
「ああ」
 雅哉はわずかに伴雅から距離をとりながら、彼について小さな部屋に入った。
「しばらくお体の調子が悪かったと聞きましたが」
 一瞬、兄の表情が歪んだ……ように見えた。
「蓮が言ったのか?」
「え、ええ」
 穏やかな声に、伴雅は思い違いだったかと自分を納得させる。
「大丈夫だ。心配ない」
 兄はいつも通りの笑顔で頷いた。
「ところで、話とは──」
「はい」
 伴雅は声を落とす。
「小夜子の、ことです」
「……そのことか」
 雅哉は鷹揚にうなずく。伴雅は兄の言葉を待つように彼をじっと見つめた。兄はどこかうつろな眼差しを宙に向け、唇を開く。
「小夜子が望むのなら……致し方あるまいな」
「…………」
「お前も父から聞いたのだろう」
「は、はい」
「小夜子は承諾したと聞いている。彼女も、いつまでも乳母の世話になっているわけにもいくまい」
 伴雅は眉を寄せた。――これは、本当に兄上か? 父と話したときには、雅哉は強い口調で縁談に反対したと聞いていたのに。常になく、小夜子の体調を気遣うこともない彼の様子が、伴雅には不可解だった。
「先方にはまだ話が通っていないようだな。やはり蘇芳どのは紫苑どのに弱い」
「……そのことですが」
 反対するどころかむしろ積極的な様子をみせる兄に、伴雅は口を挟んだ。
「小夜子からひとつ頼みごとをされたのです」
「頼みごと?」
 雅哉は片眉を上げた。伴雅は見慣れない兄の仕種に戸惑いながらも、頷いてみせる。
「はい、実は――」
 伴雅の話す内容を聞いていた雅哉は、やがて首を縦に振った。
「いい考えだ。そういうことなら協力しよう」
「は……」
「小夜子にとっても良い判断材料になるだろう。なあ?」
「え……ええ」
 ――結局戸惑いを残したまま、伴雅は兄と別れることとなった。

「――面白いことを考えたぞ」
 独りになった雅哉の口元に、しゅるんと牙が生える。にやりと笑った口の中で、その鋭い切っ先はかちかちと音を立てた。
 
 
  二
  
 橘邸。燐に借りた書を読んでいた昴はふと顔をあげた。今日は桔梗らが遊びに来ている。あの双子がどこにいるかは知らないが、庭には透流と桔梗がいて何か花のことを話しているようだった。時折鈴を転がすような桔梗の笑い声が響いている。冬の柔らかな陽射しに照らされたふたり――なぜか、見ていられなくて昴は視線を外した。
 桔梗はいつだって紫苑しか見ていない。そんなことはわかっている。桔梗にとって透流は手先の器用な面白いひと、という認識だろう。式神に懐くのと変わらない。では……透流は? 透流とて紫苑と桔梗の仲に割って入るような馬鹿な真似はしないだろう。あのふたりのどこにそんな隙があるというのか。そんな隙があったら、とっくに私が――私が?
「何を考えているのかしら、私」
 つぶやいた昴の背後に、突然気配が出現した。
「何を考えているのですか?」
「――――?!」
 昴は慌てて振り返る。
「……やだ。癸じゃないの」
 見慣れた顔に安堵し、昴は行儀悪く文机に肘をついた。
「何をぶつぶつおっしゃっているんです?」
 癸は長く伸びた銀髪を頭頂部にまとめ、昴の隣に腰を下ろす。
「別に。何でもないわ」
「…………」
 癸が首を傾げた。
「機嫌悪いですね」
「……そう?」
 昴は書に目を落とした。しかし文字は一文字だって頭に入って来ない。隣の癸がぽん、と手をたたいた。
「なるほど」
「何よ」
「……別に」
 癸はくすくすと笑う。昴は眉をしかめた。
「感じ悪いわよ、癸」
「それは失礼」
 不意に、癸の手が伸びる。同時に彼は腰を浮かせ、昴ににじりよった。
「昴さん、髪に何か――」
「え?」
 癸の吐息が髪にかかる。ぞわり、と皮膚が粟立った。――いくら何でも近過ぎないか。そう思ったとき。
「昴さん!」
 透流の大声が響いた。昴が振り向くのと同時に、癸は何事もなかったかのように体を引く。
「取れましたよ」
 しかし、昴は癸を見ていない。離れた場所にいたはずの透流が、何故今彼女の目の前にいるのだろう。部屋の前の縁に立つ透流は、少し顔を引きつらせている。
「何?」
 昴が尋ねると、透流は目を何度か瞬かせた。
「いや――その」
 癸が何かおかしくてたまらないといった表情で立ち上がる。
「さて、僕は兄さんのところに行って来ようかな。桔梗さんはどうされます?」
 不思議そうな顔をしていた桔梗は、癸の言葉に頷いた。
「私も行きます。透流さん、いろいろ教えてくれてありがとう!」
「どういたしまして」
 透流は履物を脱ぎ、縁に上がって昴の前に座った。昴は癸らが遠ざかっていくのを目で追うことすらなく、ただ透流の横顔をぼうっと眺めていた。
 癸と桔梗の気配が遠ざかった後、昴はもう一度尋ねた。
「どうしたの?」
「え?」
 何か考え事をしていたのか、透流は目を瞬いた。
「大声で私を呼んだでしょう? 何かあったの?」
「あー……いや」
 透流は困惑したように視線をそらす。昴は眉を寄せた。
「何か変よ。どうしたの」
「…………」
 透流はふと真顔になり、昴に問い掛けた。
「癸さん、どうされたんでしょう。さっき」
「何か髪についていたんだって言ってたわよ」
 昴は自分の髪を手に取りながら言う。いつも通りこがね色にきらきらと輝く髪に、異変はない。
「そうですか……」
 なぜか安堵したような表情で透流はつぶやく。
「それが気になったの?」
「いや……それは」
 透流はぼりぼりと髪を掻いた。
「怒らないで聞いてくれますか」
「内容によるわ」
「じゃあ言いません」
「何よそれ!」
 眉を吊り上げる昴に、透流はくすくすと笑う。
「ちょっと、言いなさいよ!」
「嫌ですー」
「こ、この!」
 膝立ちになり、殴ってやろうと手を振り上げる。その手首を透流に軽くつかまれて、昴は体勢を崩した。
「きゃ……!」
 昴の体は何かかたい――床よりは少し柔らかい、そんな生温いものの上に着地した。
「…………?」
 体を起こそうとする、しかし何かがそれを阻んでいる。
「昴、さん」
 声は前下方から聞こえた。ということは……。
「は、離して!」
 昴は慌てて腕をつっぱった。今度はあっさりと解放される。どうやら先ほど昴は透流を押すようにして倒れこんだらしい。
「…………」
 床に横たわる透流は不思議な瞳で昴を見つめていた。昴は目をそむける。顔が熱い。顔だけではなく、体中がひどく熱かった。
「昴さん……?」
 透流が体を起こし、彼女の顔を覗き込む。昴は慌てて飛び退ろうとするが、透流に腕をつかまれてそれはかなわなかった。
「な、何……」
 声の震えを悟られていなければいい。昴は顔を伏せ、強く願った。
「……大丈夫ですよ」
 頭上から降り注ぐ透流の声は、優しい。
「おれは、ずっと昴さんを見ていますから」
「…………」
「昴さんだけを、ずっと……」
「そ、そんなこと言われても」
 昴はつぶやいた。
「困る……」
「…………」
 透流は昴から手を離した。その温もりを名残惜しいと思う自分に、昴は驚く。
「でも、いつか貴方がずっと見ていたいと思うひとが現れて、そのひとが貴方のことも見ていてくれるのなら……」
 透流の声は寂しそうに曇った。
「おれはただ、祈るだけにします。昴さんのしあわせを……遠くから……」
 ――何を言っているの? 昴は顔を上げて、息を呑んだ。透流の顔が驚くほど近い……。
「…………」
 透流が立ち上がり、庭に再び降りて行く。昴はただその後姿を呆然と眺めていた。あの広い背中が心地良いことを自分は知っている。あのごつごつとした指先がどれほど繊細かを知っている。体中に刻まれた傷跡を、自分は知っている。
「でも」
 昴は唇を押さえた。
「こ……こんなの」
 何故か目に涙がにじんだ。
「こんなの、知らないっ……」
 どういう意味か問い詰めたい。でも、できない。振り向いてくれないだろうか。冗談だって笑ってくれるのなら、一発殴って許してやってもいい。ただ、手を振ってくれるだけでも……。
 しかし、透流が振り向くことはなかった。
 
 
  三
  
 紫苑の元に蘇芳からの使者が訪れたのは、既に日も落ちてしまった頃だった。ひと型をした式神――それは牛車と共に現れた。蒼白い顔をした式神は、面食らう紫苑に告げる。
「さるお方のご祈祷をして欲しいとの依頼です――」
「それはどなたの」
「申し上げられません」
「ならば行けぬ」
「蘇芳さまたってのお願いにございます」
「知らん」
 紫苑はつっぱねた。そもそも義父にはあまり良い感情を持っていないし、縁談の話を燐に聞かされて以降はそれに拍車がかかっている。
「どうぞお願い申し上げます――」
「行ってやれば?」
「?!」
 紫苑は振り向いて絶句した。壬がのんびりと顔を出している。
「お前――」
「敵は少ない方がいいぜ。そうだろう?」
「その通りなのだがお前に言われると納得できんというか」
「悪かったなどっちかっていうとむやみに敵を作る性格で」
 顔をしかめる壬に、紫苑はくすりと笑った。
「しかし――そうだな。恩を売るいい機会かもしれん」
「だろ?」
 紫苑は式神に向き直る。
「外で待っていなさい。準備をしてすぐに向かいます」
「ありがとう存じます」
 紫苑は桔梗のいる部屋に向かった。帳を上げ、声を掛ける。
「すまない。少し用事ができた」
 顔を上げた桔梗は一瞬表情を曇らせたが、すぐにそれは笑みに取って代わられた。
「わかりました。気をつけて下さいね」
「……できるだけ急いで帰る」
 無理をして気持ち良く送り出そうとする桔梗が、愛しい。紫苑は彼女をぎゅっと抱きしめた。
「紫苑?」
 抱き返してくれる彼女の腕の中は柔らかく、暖かかった。
「どうしました?」
「……何でもないよ」
 紫苑は彼女の白い頬に口付けを落とし、立ち上がる。
「遅くなるようなら先に寝ていろ」
「はい」
 桔梗はうなずいた。――実は毛頭そのつもりはない。紫苑が帰ってくるまで、いつまでだって待っているつもりだ。だが、そう答えれば紫苑は心配するから……急いで帰ろうと無理をするから……。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 もうすっかり慣れたやりとり。紫苑はもう一度桔梗の唇を啄ばみ、そして式神の待つ牛車へと向かった。