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藤原の巻 第十章

  一

「にいさま、もうやめて――」
 辺りに響き渡った声。紫苑ははっと振り向いた。
「小夜子どの……桔梗?!」
 泥にまみれた小夜子を、桔梗が支えている。一体何故小夜子がここにいるのか。そして何故彼女の側に桔梗がいるのだろうか。わずかの間ながら思考が停止する。桔梗がはっと顔を上げた。
「紫苑!」
 その声に一瞬、紫苑は反応できなかった。慌てて迦月に向き直るが――遅い。眼前に膨れ上がる炎。
「ぐあっ!!」
 とっさに避けはしたものの、熱風に煽られた紫苑は地面に倒れ伏した。冷たい土の上を転がり、距離をかせぐ。
「紫苑」
 駆け寄る足音に、紫苑は顔を上げた。自分を抱き起こす桔梗の細い腕に、思わず安堵の吐息がこぼれる。
「無事か」
「無茶を、しないで下さい」
 見つめる視線にひとつ頷き返してから、紫苑は息を呑んだ。
「小夜子どのは……?」
「あっ」
 桔梗は焦ったように立ち上がった。その瞳が小夜子の姿をとらえ、大きく見開かれる。視線の先を追った紫苑もまた、驚いて瞬きを繰り返した。
 小夜子は――迦月にしがみついていた。迦月は無表情に彼女を見下ろしている。その右手には一振りの刀。先ほどまで紫苑と刃を交えていたものだ。
「どけ、女。お前に用はない」
 低く唸る迦月の声に、小夜子はいやいやをするように首を左右に振った。その身体は紫苑らの目から見ても明らかなほど震えている。
「どきません」
「どけ。殺すぞ」
「どきません!」
「この……!」
 迦月が左手を振り上げた。雅哉のものではあり得ない、鋭利な爪が闇に光る。
「小夜子どの!」
 逃げてくれと、そんなわずかな期待と共に紫苑は叫ぶ。しかし――手は、小夜子の上へと、振り下ろされた。
 ――ぶしゅっ、
 肉の裂ける嫌な音。辺りに立ち込める濃い血臭。紫苑はぐっと顔をしかめる。
「あああああああああああああっ!!」
 だが、あがった悲鳴は迦月のものだった。
「何……?」
 紫苑の足元に、何かが転がってくる。視線を落とした紫苑は絶句した――それは迦月の左腕だった。肘から先がすっぱりと切断されている。
「兄さま?!」
 小夜子はその場にうずくまった迦月を抱き起こそうとするが、迦月はそれを拒むように肩で彼女を突き飛ばした。小夜子の小さな体が土の上を跳ねる。
「自分で、腕を……?」
 桔梗が茫然と呟く。――そう。確かに今、迦月の左腕を落としたのは彼自身の右腕だった。白刃の軌跡は、紫苑の目にもしっかりと焼きついている。
 迦月はゆらりと立ち上がった。おびただしい量の血がぼたぼたと流れ落ちる。
「じゃ……邪魔をするな!!」
 咆哮。
「魂のひとかけらまで喰らい尽されたいか?!」
 紫苑ははっと息を呑んだ。――雅哉はまだ、生きている?
「兄さま……」
 地面に転がった小夜子を、駆け寄った桔梗が抱き起こした。
「兄さまが、……怪我を!」
 小夜子は桔梗にとりすがった。
「お願い、助けて……兄さまを助けて!」
「…………」
 桔梗は無言で小夜子を抱きしめた。
「……ごめんなさい」
「え?」
 見上げてくる漆黒の瞳は、涙の粒を次々に溢れ出させている。
「私、さっき貴方にひどいことを言ってしまった……」
「…………」
「貴方は私に紫苑を返してくれた」
 桔梗は小夜子を立ち上がらせ、土を優しくはらってやった。
「だから、今度は――貴方にお兄さまを返せるように」
「……あの」
 身を翻そうとした桔梗の袖を、小さな手がつかむ。
「貴方の、お名前は?」
 少しだけ逡巡した後、桔梗は答えた。
「ききょう――」

  二
  
 迦月の左肘から、血は流れ続けている。これ以上長引けば雅哉の身体は耐えられないだろう。先ほど見えた一瞬の隙――そこに全てを賭けるしかない。雅哉を救うことができるか、どうか。分の悪い賭けではあるが、あるいは……。
「紫苑」
 そっと彼の側に寄り添い、桔梗はきっと迦月を見据えた。
「私も手伝います」
「……ああ」
 紫苑は今一度、宝刀を構えなおす。
「藤原雅哉!」
 その声は、白み始めた空に朗々と響いた。
「今一度――目を醒まされよ!!」
 紫苑は奔る。
「この餓鬼が!!」
 迦月は吠え、紫苑を迎え撃つように炎の陣を展開した。空高く吠え猛る煉獄――紫苑は構わずその中へと突っ込んでいく。――じゅっ。紫苑が炎の上を踏んだ瞬間、迦月を囲む陣は音を立てて消失した。
「何?!」
 驚く迦月の目に映ったのは、銀の髪の水龍――手をかざし、こちらを真っ直ぐに見据えている。
「くっ!」
 身を引こうとしたときには既に遅かった。至近距離に迫った紫苑が刀を翻す。ぱっ、ぱっ、と散る赤。しかし、その量はわずかだった。
「一体何を……」
 自分の身体を見下ろした迦月は小さく息を呑んだ。喉元、両肩、そして両足の付け根――その身に直接刻まれたのは五紡星の印。
「この……!!」
 再び自分の支配下へと取り戻した右腕に刀を携え、闇雲に振り回してみるものの、紫苑は既に手の届かないところまで退いていた。その長い指先で印を結び、唇からは低く呪が流れ出す。
「ぐ、ぐぐ…・・・」
 次の瞬間――全身を襲った灼熱感に耐えかね、迦月は刀を取り落とした。
「ぐお、おう」
 うずくまり土をかきむしる。まるで体内の血液が沸騰しているかのようだった。熱い。熱くてたまらない。
 ――出て行け。
「な、何を」
 迦月は呻く。その声は確かに聞こえた――彼自身の中に大きく響き渡った。
 ――私の中から、出て行くのだ。
「馬鹿め」
 迦月は嘲笑を浮かべる。だがその額は脂汗でびっしょりと濡れていた。
「お前が私を望んだのだ――私の力を手に入れることを」
 ――違う。
「違わぬ。勝手なことを言うな。お前は妹を人妖にやりたくなかったのだ。ただ、それだけのことだ!!」
 ――違う。
「違わぬ!!」
 ――違う。ただ、私は……。
「兄さま!」
 か細い叫び声に、迦月ははっと振り向いた。確かこの身体の持ち主の妹――小夜子とか言ったか。小柄な少女はその瞳に恐怖と焦燥を湛え、それでも目を逸らさない。迦月は苦痛にまみれた表情のまま、唇の端だけにやんわりと笑みを湛えた。
「小夜子」
 その声に、小夜子ははっと目を見開く。
「に――兄さま」
「良く見ておくのだ」
 まるで睦言のように、迦月は囁きかけた。
「私を殺すのが、誰なのかを……」
 どうせ一度は死んだ身ならば、せめて――せめて、憎いあの小僧に自分の味わった絶望と狂気を。もうすぐ紫苑の呪が完成する。ならば、その前に。
「あっ!!」
 桔梗の鋭い悲鳴に、紫苑は閉じていた瞼を開けた。
「?!」
 迦月の身体が――燃えていた。外側からではない、炎は内側から噴き出している。身体を手放すことを拒み、自らを燃やし尽くしてしまうつもりか。一瞬途切れそうになった呪。だが桔梗は先を促した。
「紫苑は術を完成させてください!」
 手をかざし、水を操る。迦月を包む炎に襲い掛かる無数の水の蛇――火の勢いはやや弱まったものの、消し止めるには至らない。桔梗の表情に焦りが浮かんだ。
「兄さま! 兄さま!!」
 小夜子の泣き叫ぶ声。それを打ち消すように、
「は……はは……」
 笑っているのは、迦月。
「はははははは!!」
 紫苑はただ一心不乱に呪を唱える。やがて――術が完成した。
「は――」
 空を焼く光。それは迦月の身体を包み込み、まばゆく輝いた。あまりのまぶしさに、小夜子も、そしてまた桔梗も、目を閉じずにはいられない。瞼の内側さえも白く塗り潰す光、徐々にそれが力を失っていく……。
 とさり、と。何かが落ちる音がした。
「兄様!!」
 地面に倒れ伏している迦月――いや、その髪は、黒い。
「……勝っ……た?」
 桔梗はぽつりとつぶやき、すとんと地面に腰を落とした。
 
 
  三
  
 不意に、森を包んでいた瘴気が消え失せた。興奮して猛り狂っていたもののけたちも、戸惑った様子で混乱している。
「兄さん」
 癸の声に、壬はうなずいた。――残るは後処理のみ。酷いようだが、一度もののけに変化した動物たちを救う術はなく、ただ倒すことでしか解放してやれない。
「紫苑、やったみてえだな!」
「……朔」
 明るい表情の壬とは対照的に、昴の表情は優れなかった。
「これで……終わるはずがないわね」
「……ええ」
 朔もまた、沈痛な面持ちで頷く。
「あの男が言ったとおり」
「…………」
 朔はすっと上を見上げた。既に夜は明け、木々の葉の隙間からは白々とした光が差し込んでいる。まぶしげに細められた瞳は一体何を見ているのか……。
「すべては、これからです……」