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藤原の巻 第十二章

  一

 藤原雅哉の非業の死は、都びとに大きな衝撃を与えた。特に宮中では、これを機に藤原家の勢力が衰えるのではないかと考えるむきもあったようだし、実際それを目指す動きもあったのだが、時雅や伴雅らによって未然に防がれた。伴雅が雅哉の地位に取って替わるのは、誰の目にも明らかだった。──以前の伴雅ならば奢りや隙を見せたかもしれないが、しかし今の彼はそのような素振りを全く見せなかった。この一年の間に、彼は大きく変わった……。
 藤原家の末妹、花蕾の姫君は仏門に入った。その美貌は惜しまれたし、父である時雅も止めはしたのだが、彼女の意志は固かったのだという。──それを聞いたとき、桔梗は少し辛そうな顔をした。
「どうした?」
「……いえ」
 たぶん……彼女は本当に紫苑を好きになっていたのだろう。仏門に帰依したきっかけは兄の死かもしれない。だが、きっとそれだけではない。
「雅哉殿が本当に守りたかったものたちが、一番傷ついてしまうとはな……」
 紫苑はつぶやく。わずかなこころの隙につけ込まれてしまった藤原雅哉。紫苑はそんな彼を責める気にはなれない。自分が彼と同じ立場だったなら、彼と同じ過ちを犯したかもしれないのだから。
 ――もし、自分の大切なものが喪われてしまいそうになったなら……この手から遠く離れたところにいってしまいそうになったら、どうしますか……?
 自分はあのとき、「すべてを犠牲にしても守る」と答えた。自分の命を犠牲にしても、それでも譲れない、と。あの答えは正しかったのだろうか……雅哉が怨霊にこころを明け渡す一因を作ってしまったのではないか……。
「なあ、桔梗」
「なんですか?」
 振り向く彼女の、真っ直ぐな視線に気圧されそうになる。紫苑は躊躇いがちに尋ねた。
「もし私が命を捨てるような真似をしてお前を守ろうとしたなら……お前は嫌か」
「……喜ぶと思いますか?」
 桔梗の声は静かだった。
「逆に紫苑のために私が死んだら、紫苑はどう思います?」
「…………」
 紫苑はしばらく口を噤み、やがて小さくため息をついた。
「燐に叱られるな……」
 愛するものに先立たれた悲しみ――間近で見ていた紫苑も良く知っていたはずなのに。
 ――それでも……。紫苑は口には出さずに思う。もし、自分か桔梗のどちらかが命を落とすかもしれないほどの危機に瀕したならば、きっと自分は躊躇せずにすべてをなげうつだろう。たとえそれが桔梗に悲しみを与えることになっても、彼女の命が奪われてしまうよりはいい。
「…………」
 紫苑の横顔を見つめていた桔梗は、やがて視線を逸らした。脳裏に浮かぶのは紫苑の死体――正確には紫苑の姿かたちをした式神の死体だ。本物ではない、これは紫苑ではない、生命ですらない……わかっていても、あのとき桔梗を襲ったのはどうしようもないほどの恐怖と悲しみだった。
 紫苑を喪うなど、耐えられない。どんな危険な状況が訪れようとも、必ずふたりで切り抜けてみせる。きっと、ふたりでなければ意味がないのだ。紫苑と、桔梗。どちらが欠けてもいけない。互いの側に寄り添っていなければ、生きている意味すら……。
 震えた肩を、紫苑がそっと抱く。その温もりに、桔梗の目頭がつんとした。
 
 
  二
  
「お世話になりました」
 蓮はぺこりと頭を下げる。結局彼は十日ほど橘邸に逗留していた。最初の三日ほどを除けば、体調というより精神的な疲労が元で床についていたようなものだったから、もっと早く戻ろうと思えば戻れたのだろうが、そうする気にはなれなかった。――屋敷に戻っても、そこに兄はいない……。
「いいえ」
 見送りに出た燐は、蓮の頭を優しく撫でた。
「……お元気で」
「はい」
 蓮はわずかに微笑んだが、すぐにその表情は翳った。
「すみません……僕のせいで皆さんを巻き込んでしまって」
「え?」
 燐は不思議そうに聞き返す。
「どういうこと?」
 蓮は深く俯いていた。
「僕が、相談を持ちかけてしまったせいで……」
 ――そういうことか。ようやく合点のいった燐は、蓮に悟られないようにため息をついた。蓮は知らないのだ。雅哉に憑いた怨霊が、最初から紫苑を狙っていたことを。むしろ雅哉こそが、迦月が謀った紫苑への復讐に巻き込まれた被害者なのだということを……。
 だが、燐にそれを口にすることはできなかった。
「君のせいじゃない」
「……でも」
「君のせいじゃないよ」
 俯いた頭をそうっと撫でる。びくり、と蓮の体が震えた。
「それに――君がそんな風に気に病むことを、お兄さまはきっと望んでおられないと思う」
 燐は目を細める。自分でも、勝手な言い分だと思った。亡き者を使って気休めを言っている、そのことは十分わかっていた。それでも、少しでも蓮のこころの負担が楽になるのなら。
「君のお兄さまは、最期まで君たち兄弟のことをとても心配なさっていたから……だから……」
 それが、燐の伝えられるたったひとつの真実。蓮は顔を上げない。その足元に、数滴の雫がきらきらとこぼれ落ちた。何度か洟をすすり、蓮はようやく顔を上げる。
「あの――それから」
「ん?」
「僕を、その、世話してくれた方のことなんですけど」
「ああ」
 燐はうなずいた。
「加乃ちゃんのこと?」
「加乃さん――とおっしゃるのですね」
 蓮はその響きを覚えておこうというように、何度か唇の上に載せる。
「蓮が礼を申していたと、お伝えいただけますか」
「うん、わかったよ」
「ありがとうございます!」
 ほっとしたようにかすかな微笑みを浮かべる蓮。その頬がわずかに紅潮しているのを、見逃す燐ではなかった。
 
 
  三
  
 傷口に水が染みる独特の痛みに、昴は首をすくめた。
「あ、動いちゃ駄目です」
 透流が慌てて彼女の頭を左腕で固定した。右手は彼女の頬を薬液に浸した布きれでぬぐっている。あの森の中での戦闘で、昴は気付かないうちにあちこちを擦りむいていた。
「まだ完全に塞がっていないんですから、気をつけて」
「わかっているわよ。でも動いちゃったんだから仕方がないでしょ」
「治りが遅くなると傷跡残っちゃいますよ」
 脅すようでもあり、宥めすかすようでもある透流の口調。昴はできるだけ頬を動かさないようにくすりと笑った。
「別に構わないわよ、これくらいの傷。小さいし」
「よ、良くないでしょう」
「あら」
 昴は間近にある透流の顔を真正面からじっと見つめる。
「貴方が気にしなければいいだけじゃないかしら?」
「え」
 透流はぽかんと口を開ける。昴はさらに笑みを深めた。
「あ、だから動かしちゃ駄目ですってば」
 慌てたように透流は彼女の頬を両手で挟みこむ。昴は大人しくされるがままになりながら胸中につぶやく。――鈍い男。
 しばらくして、手当てを終えた透流は昴を腕から解放した。とはいえ透流は昴の側を離れようとはしない。あの日、帰って以来ほとんどの時間を彼らはともに過ごしている。それでも大分落ち着いてきた方だった。戻ってきた昴を、透流はしばらくの間きつく抱きしめて離さなかったのだから。――そんなに心配してくれていたのだろうか。面映くはあったが、決して嫌な気持ちはしなかった。
 透流だけではない。「おかえりなさい」と微笑んでくれた燐。急いで湯浴みの用意をしてくれた加乃。もちろん朔のことも待っていたのだろうけれど、それでも彼らが昴を受け入れてくれるひとたちであることに変わりはない。嬉しかった。
「それで、結局、どういうことだったんですか」
「……そうね」
 昴は頬の傷を意識しながら、注意深く口を動かす。痕が残るのはともかく、また傷が開くのはさすがに嫌だった。
「紫苑さんのご両親については知っている?」
「いえ」
 無理もない。昴自身、事態を把握したのはすべてが終わってからだったのだから。
「彼が半妖――ひととあやかしの血を引くものであることは、わかっているわね?」
「はい」
 透流は真剣な顔でうなずいた。
「ただし、どちらもふつうのひとやあやかしじゃない。彼の父親は先の帝。そして、母親は――鳳凰族の姫御子だったの。鳳凰族は先帝の命によって滅ぼされたから、彼の母親にとって先帝は一族の仇だった……」
 ごくり、と透流が息を呑む音が聞こえた。
「一体そのふたりがどうして子供をもうけることになったのか、それは私にもわからないわ。ただ、母親の気持ちは複雑だったでしょうね――やがて先帝が亡くなり、母親もまた死んでしまった。ふたりの忘れ形見である紫苑さんは、その素性を隠したまま御門家の養子になった……」
 昴はいったん口を切る。やがてゆっくりとした口調で再開した。
「そこから先は良くわからないのだけど……母親の魂がもののけと化してしまったらしいの。息子への情を強く残していたせいかしら。そしてその母親を……紫苑さんが……、いえ、紫苑さんの目の前で母親は命を絶った……」
「…………」
 透流は痛ましげに目を伏せる。
「そんなことがあったんですか……」
「今回暴れた怨霊は、紫苑さんの母親の兄弟だそうよ。弟、と言っていたかしら」
「ということは」
「そう。……紫苑さんの叔父にあたる」
「…………」
 透流は絶句した。昴の声も自然と低くなる。
「つまり……紫苑さんは実の叔父に、殺されかけたというわけ……」
「で、でも、どうして……」
「紫苑さんに姉を殺されたと思ったのね。逆恨みもいいところだわ」
 吐き捨てるように言うが、昴のこころのどこかが疑問を投げかけていた――本当にそうだろうか? 本当に逆恨みだろうか? 紫苑の母親は仇である先帝の息子を産んだことを、本当に後悔していなかっただろうか? 彼女が命を落としたのも、もしかするとそれが原因で……。
「そうですよね」
 透流の声に、はっとした。
「だって紫苑さんはご両親を選べないし……それにそんな裏の事情なんか知りませんもん。関係ないですよ」
 当たり前のことのように、透流は言う。
「紫苑さんが生まれてきたのは紫苑さんの意思じゃない。でも生まれてきたからには、しあわせになる権利があると思う。どんな事情で生まれてきたって、変わりありません」
「……透流」
 今の言葉の「紫苑」を自分に置き換えても、全く違和感がない。そのことに気付いて、昴は胸がいっぱいになった。――そうだ。自分が異国の血を引いて生まれたのは自分の意思ではない。それでも自分は生まれてきた。そして自分には、しあわせになる権利がある……。
「あんた……すごいわ」
「え?」
「なんでもない」
 きょとんとする透流に向かって首を振り、そのまま彼の胸に顔をうずめる。
「す、昴さん」
 驚いたように肩に手を置く透流に、
「あんたがいてくれて……良かった」
 聞こえるか聞こえないかの小さな声で、昴はつぶやいた。
 ――そうだ。生まれてきたものにはみんな、しあわせになる権利がある。だがその権利を守るのは……自分以外にない。
 いや、違う。きっと透流は、昴のしあわせを守ろうとしてくれるだろう。透流だけではない。加乃も、癸も、その兄も、紫苑も、桔梗も、燐も、……みんなみんな、昴をしあわせにしてくれる。
「絶対に、守るわ」
 ――このしあわせを、絶対に守ってみせる……。透流の温もりに包まれながら、昴はその碧眼に強い決意を宿していた。