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藤原の巻 第十一章

  一
  
 ――さらり。頬を掠めた風に、燐は慌てて顔を上げた。どうやらいつの間にか寝入ってしまっていたらしい。頬が火照っているのは文机に押し付けていたせいだろうか。赤くなってしまっているかもしれない。
 からりと帳が開き、息子が姿を見せた。
「父さん……」
 朔の表情が優れないことに胸騒ぎを覚えながら、燐は立ち上がる。
「みんな無事かい?」
「ええ……、でも雅哉さんが」
 朔は目を伏せた。
「今、御門のお屋敷にいらっしゃいますが……かなり、危なくて」
「雅哉どのが危ない? え、どういうこと?」
 事態の飲み込めない燐に、朔は告げる。
「とにかく、御門のお屋敷に向かって欲しいんです。紫苑さんの力になれるのは父さんしかいないと思うから」
「僕が……?」
「簡単に言うとね」
 朔の背後から昴が姿を見せた。怪我はないようだが、疲れきった表情を見せている。それでもともかく無事だ――透流はさぞ安心することだろう。
「もしかすると、全ての罪を紫苑がかぶることになるかもしれない、ってこと」
「え?」
 ぎくりと身を強張らせた燐に、昴の叱咤が飛んだ。
「さっさと行く!」
「わ、わかった」
 急いで牛車の用意をさせようとした燐を、朔が止めた。
「とらに運ばせるよ」
 その琥珀色の瞳は真剣そのものである。燐の身体を緊張感が包み、彼は頷くと同時にごくりとつばを飲み下した。

  二
  
 部屋の中は清浄な気に満ちていた。中央に寝かされた雅哉の枕元には桔梗が、胴の真横に壬が、そして足元には癸が座している。気はその三人が発しているものだった。目を閉じ、集中している様子である。紫苑は壬の向かいに印を結び、とつとつと呪を唱え続けている。癒しの術――それを水龍の妖力によって増幅し、何とか雅哉の命を救おうとしているのだが、今のところ状況は芳しくなかった。
 先刻到着した燐は、部屋の隅でただじっと見守っていた。今の彼にはそれしかできない。口早に説明された事情は込み入っていて、まだ全てを把握したとはとても言い切れなかった。
「兄さま……」
 桔梗の向かいには小夜子が座り、兄の煤けた手をぎゅっと握りしめている。指の一部は炭化し、皮膚は白く、まるでなめした獣の皮のようにざらついていた。その固くなった皮膚の上に、小夜子の瞳の流す熱い滴が、ぽたりぽたりととめどなく落ちる。
 雅哉はかろうじてまだ生きていた。胸郭は大げさなほどに上下しているし、割れて血のにじむ唇も開閉している。その生命が風前の灯であることは誰の目にも明らかだった。
 ――決して暑くはない部屋で、紫苑の額には汗がにじんでいる。あれだけの炎に焼かれ、雅哉は良く一命を取り留めたものだと思う。おそらく、迦月の気配が消えた瞬間、とっさに桔梗がその力をもって守ったからだろう。
 不意に廊下が慌しくなり、男がひとり、部屋に飛び込んできた。紫苑らが構わず術を紡ぎ続ける中で、小夜子は振り向き息を呑んだ。
「ともにい……さま……」
「ど、どういうことだ?!」
 伴雅は気が動転した様子で部屋を見回し、雅哉の変わり果てた姿を視界にとらえると、がくりと膝をついた。
「兄上……?」
 伴雅を連れてきたのは羽櫻――紫苑の式神であり、その本態は烏だ。相変わらずの黒装束に身を包み、彼はひっそりと伴雅の背後に佇んでいた。
 三人のあやかしには気付いていないのか、それとも桔梗を見知っているから驚く気にもならないのか――伴雅は膝をついたままじりじりと雅哉の側ににじり寄る。
「さ、小夜子……これはどういう」
 言葉を切り、伴雅ははっと紫苑を見つめた。紫苑は目を合わせなかったが、おそらく伴雅の瞳は猜疑の色を湛えていることだろう。無理もないことだと唇をゆがめながら、それでも術は中断しない。
「ともにいさま」
 小夜子は小さくつぶやいた。
「紫苑さまは、悪くないのです――紫苑さまは兄さまを助けようとして……」
「お前は、見ていたのだな?」
「はい」
 小夜子は伴雅にじっと顔を覗き込まれながら、こくりと頷いた。涙に汚れたその顔を、伴雅は優しく拭ってやる。
「ひとまず、お前に怪我がないだけでも良かった……」
 小夜子は泣き笑いのような表情を見せた。
「紫苑さまと、桔梗さまが守ってくださったのです」
 その言葉に、紫苑の声が一瞬途切れた。だがすぐに彼は術を再開する。桔梗は伏せていた目を上げ、小夜子を見つめた。燐もまた、息を呑む。
「兄さまは……何かひとが違っていたようになっていました。髪も目も真っ赤で。恐ろしかった」
「赤……?」
 ちょうどそのとき、紫苑の術がやんだ。低い声が余韻を残しながらそらに溶けていく。
「紫苑どの。兄は……!」
 詰め寄る伴雅から、紫苑は顔を背けた。
「雅哉どのは……怨霊にとり憑かれていらしゃったのです」
「何ですと?!」
 伴雅は叫び、やがて思い当たる節があったのかはっと息を呑む。
「そういえば蓮……、蓮は」
「雅哉どののお屋敷の地下牢に。今は私の屋敷におります」
 燐の言葉に伴雅はがくがくと、まるで震えているかのように頷いた。
「……そ、それも、紫苑どのが助けて下さったのか」
「信じて、いただけるのですか」
 紫苑の言葉に、伴雅は目を瞬いた。
「それはどういう……」
「私などの言葉を、信じていただけるのか」
「…………」
 伴雅は無言で兄を見遣った。宮中一の貴公子と謳われたその面影は、今はどこにもない。その体をほんのりと包む青白い光――あれが水龍の力なのだろうか。神聖で、こうして見ているだけで魂の奥底まで清められるような、そんな心地がした。
 かつて、水龍族は朝敵とされ一族は滅亡に追い込まれた。人間は敵のはずだ。それなのに、こうして三人ものあやかしが兄を癒そうとしている。父は――時雅は、水龍討伐に一役買っていたというのに……。
 伴雅はやがて向き直った。紫苑の瞳は伏せられ、その色を見ることはできない。
「私も、かつて貴方に救われた身ですから」
「ともにいさま……?」
 見上げる小夜子の頭を撫で、伴雅はうなずいた。
「現に貴方は今、兄を助けようとしてくれている。それが全てではありませんか」
 もし紫苑が雅哉を害したいと思ったのならば、証人となる小夜子もろとも葬り去ってしまえばよいだけのことだ。当代一の陰陽師であり、さらに水龍を味方につけている彼に敵う人間などいるはずがない。こうしてわざわざ自分を呼んでいる時点で、紫苑を疑う理由は存在しなかった。――それでも、もしかつて自分が紫苑によって助けられていなかったら……自分はやはり紫苑を疑ったのかもしれない。
「う……」
 部屋に落ちた沈黙を破ったのは、小さなうめき声だった。
「兄上?!」
「兄さま?!」
 伴雅と小夜子が雅哉の枕元に駆けつける。
「さよ……ともまさ……」
 雅哉のかさついた唇が、うわごとのようにつぶやいた。瞼の間から覗く澄んだ瞳は、その視線をそらにさまよわせている。
「そこに、いるのか」
「はい……おります……!」
 小夜子の小さな手を、雅哉は弱々しく握り返す。
「れん、は」
「大丈夫です、ご心配には及びません」
 その答えを発したのが燐だということに気付いているかどうか。雅哉は安心したようにうなずいた。
「しおんどの――」
 雅哉の声に、紫苑はぴくりと体を震わせる。

「すまなかった……」
 
 ――ありがとう。
 
 深い、深い吐息。
「兄上……?」
「兄さま!!」
 桔梗の手が伸び、雅哉の額に触れた。……暫しの沈黙の後、ゆっくりと首を横に振る。そうしてその白い指は、半開きのままであった瞼をそっと押し下げた。
 藤原雅哉。二度と、彼がその目を開くことはなかった。
 
 
  三
  
 気を失った小夜子を次の間で寝かせ、伴雅は蒼白な顔で戻ってきた。部屋には燐だけが残り、雅哉の体を清めている。
「どうして……兄は、何故」
「…………」
 紫苑はしばらく視線を落としていたが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。
 ――雅哉の体を怨霊が乗っ取り、紫苑の命を狙うべく画策していたこと。小夜子もそれに利用されていたこと。目的が己の命だと悟った紫苑は、桔梗とはかりごとをめぐらし逆に怨霊を追いつめたこと。そして、怨霊が最後の力を振り絞り、自らの寄生する雅哉の体を燃やしたこと……。
「…………」
 伴雅は茫然と聞き入っていた。
「少し前から兄の様子がおかしかったのは……」
「ええ。おそらくその頃に怨霊がとり憑いたのでしょう」
「怨霊……」
 伴雅は腑に落ちないような表情を浮かべている。
「それは一体何なのですか。それに、何故兄にとり憑いたのです?」
「…………」
 紫苑は言葉につまった。実際の事情はひどく入り組んでいて、ある程度予備知識のあるはずの燐でさえ、なかなか飲み込めない様子だった。それをここで伴雅に説明するわけにはいかない。それに――雅哉を殺した怨霊が紫苑の叔父だと知られれば、非常にまずいことになる。
 紫苑の沈黙の意味をどう解釈したのか、伴雅は深くため息をついた。
「……すまない。貴方自身も命を狙われた立場なのでしたね……」
「…………」
 紫苑ははっと顔を上げる。
「伴雅どの――」
「……小夜子のこと。嘘をついて申し訳なかった」
 伴雅は頭を下げ、紫苑の言葉を遮った。
「蘇芳どのを巻き込み、嘘のご依頼をでっち上げたのは私です。知らなかったとはいえ、どうやら怨霊のやつにつけ込まれる隙を作ってしまったようだ……」
「……いえ、こちらこそ」
 紫苑は目を伏せる。
「雅哉どのをお助けできずに――申し訳ない……」
「……いや」
 伴雅は鼻をすすった。
「小夜子を守り……そして蓮のことも助け出して下さった。兄とて紫苑どのを責めることはありますまい」
「…………」
 迦月は最期に雅哉の姿と声で小夜子に告げた。――良く見ておくのだ。私を殺すのが、誰なのかを……。しかし、小夜子が欺かれることはなかった。彼女は言った――紫苑さまと、桔梗さまが守ってくださったのです、と。
 迦月はひとを侮っていた。見目に騙され、風聞に左右されるひとのこころ。それはひどく弱く、脆いものかもしれない。それでも、ひとは迦月の思うほど取るに足らない矮小な存在ではない。誰かのために怒り、悲しみ、嘆き、喜び、泣き――こころを動かす。その繊細なこころの襞を掻き分けて引き裂いた、迦月の所業に紫苑は今更のように怒りを覚えた。
 そして、ふと気付く。迦月が見くびっていたのと同じように、自分も都びとを――いや、ひとという存在をこころのどこかで見下していたのかもしれない。自分を受け入れるはずなどないと、自分からこころを閉ざしていたのかもしれない。
 雅哉が最期のときを迎えた瞬間、紫苑に表したのは素直な感謝と謝罪だった。そして、小夜子も伴雅も――紫苑を信じた。自分はきっと詰られるのだろうと、覚悟を決めていたのに。
「お清めが済みましたよ」
 燐の声に、伴雅は兄の遺体の傍らへとにじり寄った。白く色をなくした頬にそっと触れる。ひどく冷たかった。伴雅は嗚咽を漏らす。紫苑も燐も、ただじっとその背中を見守ることしかできなかった。――やがて、
「紫苑どの」
 伴雅は未だ声を震わせつつ、それでも何とか口を開いた。
「兄は妹の見舞いに行く最中に、もののけに襲われて命を落としたのだ」
「……は」
「紫苑どのはそれを察知し、妹を救った――しかし兄のことは救いきれなかった。せめてもと亡骸を守り都に持ち帰った。そういうことにさせて下さい」
 それは、ひとつには藤原家の体面のためだった。雅哉の妹のうちひとりは今上の妃である。その兄が怨霊に憑かれたとあっては、今後に差し支えるのだ。摂政、藤原時雅の嫡子である雅哉が喪われた今、妾腹とはいえ次男である伴雅が、次の藤原家の要となる。
「わかりました」
 ――ふ、と部屋の空気が動いた。紫苑ははっと息を呑む。おぼろな影が伴雅の側に寄り添い、その頭をそっと撫でていった。そして、影は名残惜しげに消えていく……。
「何だ?」
 伴雅には見えぬのだろう。不審そうに辺りを見回している。
 ――雅哉どの、すまない……。紫苑の頬を、涙が伝い落ちていった。