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藤原の巻 第六章

  一

 伴雅が橘邸を訪れたのは、燐が蓮に声を掛けられてから数日が経った頃だった。まだあどけなさを残した少女に導かれ、伴雅は燐の部屋に通される。
「橘の屋敷は、久しぶりでしょう?」
 燐の微笑にうなずきながら、伴雅は少女を不思議そうに眺める。退出していく彼女の背中を見送りながら、燐は説明した。
「加乃と言って、身寄りのない子供なのですよ。たまたま知っていたので僕が引き取ったのです」
「そうですか」
 伴雅はやや視線を下げる。
「貴方には、お子はおられませんでしたな……」
「…………」
 燐は黙って微笑した。彼の子である朔は今生きている。しかし、それを口にするわけにはいかない。
「失礼ですが、貴方はご再婚されないのですか?」
「……ああ」
 燐は首を傾げた。
「それは、考えたことがありませんでしたね……」
 さくらのことがあったからというよりも、同居人が増え、また家をあやかしが出入りする今の状況ではその余裕がない、というのが実際のところだろう。家も賑やかになり、特に寂しいとも感じていない。
「ところで、今日は一体どうなさったのです?」
 燐の問いに、伴雅はうつむいた。噛み締めた唇の間から押し出すように、ゆっくりと告げる。
「実は……蓮がいなくなってしまったのです」
「え……?」
 燐はぽかんと口を開けた。
「いなくなった?」
「兄は……雅哉は『流行り病で臥せっている』と言っているのです。しかし……」
「……何か、不審な点でも?」
「兄の家の者に聞いても、誰も蓮の姿を見ていないというのです」
「…………」
 燐はごくりと唾を飲んだ。伴雅が膝でにじりよる。
「姿が見当たらなくなる直前、蓮が言っておりました。貴方に兄のことでご相談申し上げたと」
「ええ……」
 ――兄の様子がおかしい。切羽詰まった様子でそう告げた蓮の様子を、燐はまだ鮮やかに記憶している。蓮の言葉を紫苑に告げてから、まだそう日にちが経っていない。紫苑も何か思うところがあるようで、直接話を聞きたがっていたのだが……。
 燐はふと気が付き、伴雅に尋ねた。
「貴方は何故、僕のところに? 紫苑の方が良かったのではありませんか」
「あ……」
 伴雅が少し動揺した様子を見せた。
「そ、それもそうなのですが……その、縁談の件が……」
「……なるほど」
 燐は苦笑を浮かべた。それが気まずくて直接顔をあわせるのを避けたというわけか、と納得する。
 ――実際のところは違った。伴雅は今、紫苑が小夜子の元へ通っているのを知っている。ただ毎晩話を交わすだけだというが、小夜子はとても嬉しそうに笑っていた。――寡黙だけれど、とても繊細な方なの。私、好きになれそうよ。だが、紫苑は女が小夜子であることを知らない。伴雅の胸中に、まるで彼を騙しているかのような罪悪感がある。一方で、このままうまくいってくれるのではないかと、ことを楽観している自分がいるのもまた事実であった。とはいえ――それらは燐の知らないことである。
「すみません」
 伴雅は頭を下げた。
「蓮は大事な義弟です。ですが、小夜子もそれと同じように大切な義妹……。しあわせになって欲しいのです」
「貴方は縁談に賛成なのですか?」
 伴雅は顔を上げ、きっぱりと告げた。
「……小夜子が望むのなら。そして望まれるのなら。私として異存はありません」
「そうですか……」
 燐は目を伏せた。紫苑には既に伴侶がある。生涯を共にすると決めた伴侶が。――しかし世間的に言えば、伴侶がひとりでなければならないわけではない。だが、妻のひとりがあやかしであると知ったとき、伴雅の答えはどのように変化するのだろうか。そして桔梗は――それを許すだろうか。透き通った瞳の奥の、凄惨な光を燐は知っている。何者もを切り裂くような、鋭利な眼差し。「水の殺戮者」とまで呼ばれた水龍の、その(さが)は時として思わぬ残忍性を発揮する。紫苑との約束によって桔梗はそれを封じてはいるが、ひとたび解き放たれればたとえ紫苑でもねじ伏せることはできないだろう。美しくしなやかで、危険なけもの。桔梗はそれをその身に飼っている。
 伴雅が口を開き、燐は思考を中断した。
「ある程度話が進んでいる以上、この話が破談になればきっと小夜子は傷つくでしょう。だから、私は紫苑どのに会わなかったのです。私に対して断りを述べられるのではないかと――怖かった。おんなとは、かなしいものですね……」
 そらを見上げる伴雅の顔は妹への愛惜に満ちている。燐は少し微笑んだ。
「でも……彼女には貴方がいる。彼女のことを思って涙してくれる、兄弟がいるのです。私はうらやましい」
「…………」
 伴雅はふ、と表情を緩めた。
「ありがとうございます――」
「蓮くんのこと、紫苑に話しておきます。まだ彼が本当に寝込んでいるという可能性がないわけではないし、雅哉どののことも気のせいかもしれません。ですが、紫苑はきっと調べてくれるでしょう」
「かたじけない。……私は」
 不意に、伴雅は泣きそうな顔をした。
「かつてあの方に仇をなしたというのに……」
 燐はただ黙っていた。それが紫苑という男なのだと。彼の甘さであり、強さなのだと、燐は誰よりも知っていたから。
 
 
  二
  
 月の出ない晩だった。悪夢が、離れない。桔梗はずきずきと痛む頭を抱え、床に体を伸ばしていた。寝返りを打つたびに長い髪が体にまとわり付くのが鬱陶しい。いっそ切ってやろうかと思ったところで、ふと正気に返った。
 ――だいじょうぶ、私は紫苑を信じているから。だから、毎晩出かけていっても気にしない。だいじょうぶだから。もうすぐ仕事も一段落つくと言っていた。だから、だいじょうぶ。だいじょうぶ。
『ほんとうに?』
「誰?!」
 桔梗は飛び起きた。今のは、自分の心の声ではない。
『その目で確かめなくてもいいの?』
 彼女自身の声に――似ている。しかし決してそうではないのだと、桔梗は既に知っていた。これこそが悪夢。彼女を苛む、影。
『本当に紫苑は仕事に出かけているの? こんなに毎晩家を空けたことなど、今まで一度だってなかったのに。本当に仕事?』
「だって……、だって紫苑がそう言ったから。だから」
『紫苑だって嘘をつくことがあるかもしれない』
「ない! ……そんなこと、絶対にない」
 桔梗は体を丸め、耳を塞ぐ。だが声は容赦なく彼女を責めたてた。
『それなら何故、貴方はそんなに傷ついているの?』
「ち、ちがう……!」
『本当は疑っている。紫苑は嘘をついているのではないかと、疑っている』
「そんなこと……」
『確かめに行けばいい』
 不意に、声が変わった。低い、男の声だ。一瞬紫苑の声かとも思ったが、それよりも低く、もっと硬質だった。
『彼のいる場所なら私が教えてやる――』
「……紫苑に、会えるの?」
 桔梗はふらふらと立ち上がった。
『ああ。会わせてやるさ』
 ――そして真実をその目で確かめるがいい……。

 屋敷を出て行く桔梗を追う四つの瞳。
「……やっぱり様子がおかしいぜ、桔梗」
 壬はつぶやいた。癸は黙ってその背中を追っている。
「あんなに思いつめるなら、何で紫苑に打ち明けないんだ。俺たちだっているのに……」
「信じていたいから、だよ」
 癸はぽつりとつぶやいた。
「口に出せば想いは膨れ上がってしまう。それに、打ち明けるってことは、自分の中の疑いを認めるのも同じことだ」
「それにしたって何を疑ってるんだ? 紫苑が女のところにでも通ってるっていうのか? ……まさか」
 壬は笑い飛ばす。
「もしそうだとしたってどうせ仕事がらみだろうよ。決まってるじゃねえか」
「僕もそう思うんだけど……でも」
 癸は長いまつげを伏せた。
「たとえそうであったとしても、やっぱり辛いものかもしれないよ……。あるいは」
 兄に向き直り、癸は視線を険しくした。
「さっき、ひどい妖気――瘴気を感じたよね」
「あ、ああ」
 壬は思い出して顔をしかめる。――何故桔梗はそれに気が付かなかったのだろう。御子である彼女なら、誰よりも強く感じ取れそうなものなのに……。
「……まさか」
 壬は癸を見返した。
「まさか、操られてる? 水龍の御子を、操れるやつなんているか?」
「…………」
 癸は指の背を噛んだ。
「こころが弱っているときなら――わからないよ。特に誰かを強く想っているときは、それが弱点になってしまうから……」
「…………」
 壬は無言で立ち上がる。
「兄さん?」
「追っかけるんだよ。何だか嫌な予感がする」
「……そうだね」
 癸は緊張した面持ちでうなずいた。

  三
  
 燭台の炎が揺らめく。昼に破いた袴の裾を縫っていた透流は、背後にひとの気配を感じて手を止めた。
「……透流」
 か細い声。昴だ。透流はすぐに振り向いた。
「昴さん? こんな深夜に、どうして――」
 言葉は最後まで発せられることなく途切れた。透流の胸に彼女の金髪が埋まる。
「……もう、嫌よ」
「え?」
「ずっとずっと考えて……朝から晩まで、ずっとあんたのこと考えてるの、もう嫌なのよ」
「…………」
「あれからずっと話し掛けてくれないし、眠るときだって声を掛けてくれなくなった……眠れないのよ」
「昴さん……」
「うそつき」
 昴は顔を伏せたままつぶやいた。
「ずっと見てるって言ったじゃない……」
 泣いているのだろうか。顔を上げさせようとするが、彼女は首を左右に激しく振って拒絶する。
「うそつき……!」
「昴さん」
 透流はぎゅっと彼女を抱きしめた。
「ごめん」
「…………」
「ごめんなさい」
「どうして。……どうしてなの? やっぱり、邑を滅ぼした私を恨んで――」
「それは違います!」
 透流は声を上げた。昴は小さく震えている。その肩を何度も撫でさすった。――まるで、悪夢を見て飛び起きたときの彼女をなだめたときのように。
「おれ、昴さんが怒ってるんじゃないかと思って……」
「どうして、私が怒るのよ」
「い……いきなり口付けちゃったから……」
「…………」
 昴は沈黙した。髪の間から除く耳が真っ赤に染まる。
「その……だから、とりあえず昴さんが許してくれるまで待とうって……」
「謝りもしないでどうやって許せって言うのよ。そもそも」
 昴は顔を上げた。上気した頬、潤んだ瞳。透流の視線は釘付けになる。
「私、そのことであんたに怒った……?」
「え、いや……」
「確かに怒ってたわよ。それはあんたがその後何も言わなかったから。何のつもりだか全然わからなかった。それは腹も立つわ。そう思わない?」
「お――思います」
「だったらどうして早く説明しないのよ。気の迷いなら迷いって言いなさいよ! 欲求不満でしたって言うなら一発殴って許してあげるわよ!」
「欲求不満?! ち、違いますよ!!」
「――だったら何なの?」
 すうっと昴の瞳が深みを帯びた。
「だったら、どうして……」
 ――とっ、とっ、とっ、とっ……。心の臓が早鐘を打つ。透流はごくりと唾を飲んだ。ここで一歩踏み出したら、もう戻れない。だが、あのときから――昴の唇を盗んだときから、自分は既に後戻りをするつもりなんてなかった……。
「昴さん」
 透流はそのごつごつとした腕で昴を抱きしめた。そっと、その柔らかな肢体を傷つけないように、けれど決して逃さないように。
「おれは、貴方を――」
 愛しているんです。
「とおる……」
 昴の両目から涙があふれる。その滴を透流は唇で受け止めた。――この役割が自分に与えられたことに、透流はこころから感謝した。いつだって、昴の涙は自分が受け止めよう。彼女の悪夢を祓うのは自分にしかできないのだ。
「愛しています」
 もう一度、繰り返す。昴の泣き顔、怒った顔、すねた顔、……そして華やかに微笑む顔。そのすべてを守れるように。
 ――愛しています。
 透流は祈るような心地で繰り返した。
 
 
  四
  
 桔梗の後を追うのは、さほど難しいことではなかった。禍々しい気が渦を巻きながら零れ落ちている。
「一体何なんだ……?」
 空に月はなく、辺りは真の闇である。黒い山へ分け入りながら、壬はつぶやいた。こんなところに紫苑はいるというのか。
「…………」
 癸は唇を引き結んでまっすぐ前を見据えていた。桔梗をかどわかした敵は――強い。自分たち兄弟の力をもってしても勝てるだろうか……。
 目の前の竹林の間から灯りが洩れている。足取りが自然速くなって、林の切れ目が見えた――そのとき。
「きゃああああああああああああ!!」
「?!」
 つんざくような、女の悲鳴。桔梗のものではない。はっと駆け出したふたりの足は、数歩進んだところで止まった。
「え……?」
 間抜けな声はどちらのものだっただろうか。
 背を向けて立つ桔梗の手に、ひとふりの刀。赤く染まっている。そして、地面にゆっくりと落ちていく長身――黒髪が流れて――。
「しおん……?」
 倒れた体はもう動かない。――かしゃん、と刀の落ちる音。彼女は膝から地面にくず折れた。