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藤原の巻 第八章

  一
  
 轟々と燃え盛っていた炎――それがある一点へと収束する。夜は元の闇を取り戻して冷ややかに澄み渡った。
 壬はそうっと瞼を開け、驚愕に大きく目を見開いた。
「しおん?!」
 背後に朱雀を従え、悠然とたたずむ姿。それは確かに御門紫苑そのひとだった。しかし、先ほどまで彼はぴくりともせずに冷たい体を地に横たえていたはず……。
「兄さん、あれ」
 癸の指し示す方角を見て、壬は唖然とした。紫苑の死体があったはずの場所、そこにはただ黒く焦げた灰が一掴み残っている。まさかひとの体があの炎でぼろぼろの灰になるまで焼けるはずがない。つまり……。
「驚かせてしまったようだな。すまない」
 少し困ったような顔で謝る紫苑は、憎らしいほどに彼自身だった。壬は震えそうになる声を抑えて毒づく。
「まったくだ。お前ってやつは本当、ひとの迷惑考えろ」
「兄さんは素直じゃないね」
 癸は嘆息する。彼の表情もすっかり緩んでいた。
「良かった。紫苑さんが無事で」
「まさか追いかけてくると思わなくって……」
 その声に、ふたりははじかれたように振り返る。
「怪我は大丈夫ですか?」
「き――桔梗……」
 そこにはいつものように微笑む桔梗。その顔に狂気のあとはない。――紫苑は死んでいない。つまり、桔梗は紫苑を刺してなどいないということだ。
 桔梗はぺこりと頭を下げた。
「ふたりを結果的に騙すことになっちゃいました。ごめんなさい」
「どういう……ことだ……」
 のろのろと体を起こし、男は呻いた。衣はあちこち焦げているが、彼自身に怪我はないようだ。朱雀の攻撃を防ぎきるとは、恐るべき力の持ち主である。
 紫苑は眼差しを鋭くした。
「それはこちらが聞きたいことだ。お前……」
 じっとその顔を見つめ、
「何故、藤原雅哉の姿をしている」
 そう――男は藤原雅哉のかたちをしていた。ただし、その髪も目も、彼本来の色を失って赤く染め上げられてはいるが。
「…………」
「その体――彼の意識を乗っ取ったものか」
「…………」
 男は答えない。ぎらつくまなこで紫苑を睨みすえている。視線の強さで呪い殺そうとでもしているかのように、底知れない憎悪が燃えていた。
「お前」
 男が発した声は、紫苑にではなく桔梗に向けられていた。
「すべては演技だった……というわけか」
「私を甘く見ないで下さい」
 桔梗は静かに微笑んでみせる。
「確かに……お前は、水龍の御子……。お前の力を、侮っていたようだな」
「違います」
 壬は地面に座り込んだまま、桔梗の顔を振り仰いだ。その表情は凛として、静かな威厳に満ち溢れている。
「私は……紫苑を信じている。誰よりも、信じているのです。貴方にはそれがわからなかった」
「……つまり」
 壬はつぶやいた。
「最初からお前たちふたりにはわかっていたということか」
「わかっていたというか……想像がついていたというか」
「一緒だ」
 わざわざ言い直そうとする紫苑をさえぎる。
「それから」
 紫苑は雅哉の姿をした男に向き直った。
「雅哉どの――貴方の弟、蓮は救出しておいた」
 ――ぴくり、と男が反応する。
「ご安心を」
 一体誰に向かって言ったのか。目の前の男か、それともそれに姿を奪われた雅哉にか。紫苑の声音はひどく、優しかった。
 
 
  二
  
 ――ふ。男は笑った。唇を嘲笑のかたちに歪め、紫苑を睨みすえる。
「なるほど――奸智は父親譲りか。侮れぬわ」
「……お前。母の」
「母などと呼ぶな!!」
 男の声に打たれ、紫苑は思わず言葉を切る。
「姉は……お前を孕まされて狂った。そしてお前は、その姉を殺したのだ!! 自分の母親を!!」
 紫苑は唇を噛む。事実は違う――母を手にかけたのは自分ではない。しかし、母は紫苑を守るために自ら命を絶った。確かに、母を狂わせたのも死に追いやったのも、紫苑の存在であることに間違いはない……。
「鳳凰族は絶えたと思っていましたが……」
「絶えていますよ」
 桔梗のつぶやきに応えたのは意外な声だった。一陣の風が舞うのと同時に、音もなく地面に着地する白い獣。白虎だ。その背に跨るのは朔と、そして昴――。
「す、昴さん」
 桔梗が慌てたように名前を呼んだ。彼女はまるで寝床からたたき起こされて出てきたかのような格好をしている。駆け寄った桔梗が自分の衣を一枚脱いで渡すと、昴は困惑の表情で礼を述べた。
「ありがと。……で、何が一体どうなっているのかしら?」
「なるほど」
 紫苑はつぶやいた。
「迦月、と言ったか。お主……既にこの世のものではないな」
「…………」
「それゆえ、雅哉どのの体を奪ったか」
「煉獄から蘇ってきたのだ。……お前を殺すために」
「もしかして」
 昴がはっと息を呑んだ。
「あのとき――『封印』が開いたとき?」
 出雲で「封印」が開いたとき、一瞬ではあるが異界と通じたことは確かだ。もしかしてあの時、死の世界から一緒に紛れ込んできたのか……。
「そんなことはどうでもいい!」
 男は吼えた。
「俺を殺すか。既に命を持たぬ俺を殺せると思うのなら、やってみるがいい。この体が木っ端微塵に砕けるだけだろうがな」
 紫苑は舌打ちをした。――男の言うとおりだ。雅哉の体に傷をつけず、怨霊である迦月を追い出すにはどうしたら良いのだろうか。しかも、彼は鳳凰族の直系の血を引くもの。並大抵のことではどうにもならない。
「俺は俺の憎しみがある限り、決して滅びることはない。……御門紫苑」
 赤い瞳が、紫苑をねめつけた。
「必ず、お前は俺が殺す……!!」
 ――くす、とその場にそぐわぬ笑い声が響いた。
「どうやって?」
 紫苑の強張った背中に、歩み寄ってきた桔梗の手がそっと触れる。
「ここにあるのは四聖獣に選ばれし者――所詮亡霊に過ぎない貴方が勝てるとでも?」
「四対一」
 男はにやりと笑った。
「確かにこのまま戦ったのでは勝ち目はないな。……しかし」
 ――ざわり。森の空気がざわめいた。冷たい空気の中を、枯葉がはらはらと舞う。不穏な空気に、白虎が低くうなった。朔は険しい視線で男を睨んでいる。
「地獄から蘇ってきたのは、何も俺ひとりではないのだ。お前たちも見ていただろう?」
 男の目がかっと見開いた。ぬらぬらとした血の色が不吉に輝く――。
「さあ――狂宴を始めようか」
 両手を広げた男の背後で、夜闇が雄叫びを上げる。無数のぎらつく瞳が茂みの間に浮かぶのに気付いて、昴は思わずあとずさった。
「何よ……これ」
「まさか、これは……」
 紫苑は息を呑んだ。桔梗が隣で眼差しを険しくする。
「どうやら……森の動物をよりしろに、亡霊たちを呼び寄せたようですね」
「私を、殺すだけのために……?」
 罪のない命を乗っ取り、もののけへと変化させたというのか。紫苑の耳の奥で、正気を失った獣たちの唸り声がこだまする。まるで彼への呪詛のように――。
「…………っ」
「紫苑」
 桔梗の声は、ただ静かだった。
「紫苑は悪くない。誰が紫苑を責めに来ても、私が追い返すから……だから」
 薄水色の瞳は、まるで星のように瞬いている。
「どうか――戦って。生き抜いて」
「…………」
 紫苑はややおいてから、小さく頷いた。
「ああ」
 桔梗の小さな手を握る。
「大丈夫だ」
 まるでそれが荘厳な誓いであるかのように、紫苑はつぶやいた。
「私は生きる。そして――誰も死なせない」
 次第に狭まる包囲網。壬や癸も跳ね起き、朔や昴を庇うようにしながら紫苑の元に集う。紫苑は壬らに目配せした。体の小さな朔、そしてあくまでひとである昴には、もののけたちとの戦闘はつらいものになるだろう。桔梗とともに、彼らを助けてやって欲しい……と。
 そして、
「雅哉どの……貴方もだ」
 ――必ず、貴方を助けてみせる……!
 自分の相手はあの男。紫苑は地を蹴った。
 
 
  三
 
 燐はそっと部屋の中を窺った。先ほど朔の運んだ重湯を口にした蓮は、今もまだ眠っているらしい。音を立てぬように立ち上がり、廊下を歩んだ。
「それにしても、どうして雅哉どのが――」
 燐はつぶやく。先刻、前触れもなく突然紫苑がやってきた。ぐったりと力ない蓮を抱え、とにかく面倒を見てやってくれという。自分はこれから行かなければならないところがある、とも。
「最近、夜はずっと仕事だったんじゃないの?」
 驚いて尋ねる燐に、紫苑は少しだけ得意げに笑った。
「私は陰陽師だぞ。式神を身代わりに仕立てることくらい容易だ」
「あ……!」
 燐は唖然と口を開ける。
「き、桔梗ちゃんはそれ……」
「ああ。数日前、相談して決めた。今日出かけて行ったのも私ではない」
「……なんだ。昴さんがふたりのことを心配していたものだから」
「そうか。……それは、後で謝っておかなければな」
 余裕すらたたえるその様子に、燐は小さく舌打ちをした。
「全く、君って男は……いつからそんな悪知恵が働くようになったんだい?」
「すまない」
「僕は別にいいけどね……」
「今回は少々事情が特殊だった」
 紫苑は顔を引き締めた。
「蓮を監禁していたのは――雅哉どのだ」
「え……?」
 燐は思わず声を上げる。紫苑は独り言のように続けた。
「本人なのか偽者なのかは良くわからないが……しかし偽者だとしたら、本物は一体どこに……」
「君の縁談話の相手って、確か」
「ああ、雅哉どのの妹君だよ。それから……」
 紫苑は視線を下げてつぶやく。
「最近、私が仕事で訪れているのは……たぶん、その本人のところだ」
「え? 君、縁談は断るんじゃなかったの?」
 紫苑は困ったように眉を下げた。
「縁談としてきた話ではなかったんだ。蘇芳め、仕事と嘘をついて……いや、それに彼女の周囲には実際よくない気配がある」
「もしかしたら、その気配っていうのも……?」
「その、雅哉どのの姿をしている者のやっていることかもしれない」
「一体そいつ、何が望みなんだろう? いや、そもそもどうして雅哉どのに……」
「わからない……雅哉どのが何か、隙を見せたのか……」
「…………」
 紫苑は小さくため息をついた。
「だが、たぶん本当の目的は私だろう。桔梗にもちょっかいを掛けていたようだし……な」
「桔梗ちゃんにも?!」
「ああ。……だが、彼女は私を信じていてくれたから」
 紫苑は微笑む。
「こちらとしても先手を打つことができたのだ」
「一体桔梗ちゃんに何を……」
 首を傾げる燐に、紫苑は苦笑してみせた。
「どうやら、私を桔梗に殺させたかったらしい」
「ええ?! まさか、そんなことあるわけ」
「そうか? もし私がその花蕾の君の元に仕事ではなく、夫として通っていると思い込まされたら? 桔梗はひどく傷つくだろう。そのこころの隙に付け込むのは、さほど難しいとは思えんな」
「…………」
「ひとも――あやかしも」
 紫苑はつぶやいた。
「こころというものは、ひどく弱く脆くできているのだよ」
「……でも」
 燐は紫苑を見上げた。
「こころより強いものはないと――僕はそう思う」
 桔梗が紫苑を信じたこころ。それはきっと、何よりも強いものだから。
 
 
 夜が少しずつ白み始めている。
「朔……」
 燐はため息をつく。どうか、皆が無事で帰るように。
 紫苑が屋敷を離れてからしばらくした後、白虎は朔と昴を連れて彼を追った。何かきっと思うところがあったのだろう。四聖獣が集う必要のある、何かが。――それほど事態がやっかいだということか。燐の体を緊張がぶるりと震わせた。
「燐さん」
 ずるり、と帳が開いた。姿を見せた透流の目の下には、くっきりと隈ができている。今夜は一睡もしないつもりだろうか。燐は彼を安心させるように微笑む。
「大丈夫だよ」
 彼の愛する昴は、玄武がきっと守ってくれる。
「それに、紫苑もいる。桔梗ちゃんも」
「ええ……」
「信じていよう。僕たちにできるのは、ただそれだけだから」
 何も特別なところのない、無力な人間である彼ら。歯がゆくないわけではないけれど、それでもただ待つという役目もあるのだと信じているから。
「燐さん」
「何?」
「おれ、待ちますよ。昴さんは俺の側に帰ってきてくれるって……約束したから」
「……そう」
 燐の口元がほころんだ。あの気の強い少女は、どんな風に透流の気持ちを聞き、そして受け入れたのだろう。――どうか、しあわせに。かつて自分が掴みかけながらも逃してしまった、淡い桜色をしたしあわせを思い……燐は静かに目を閉じた。