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藤原の巻 第五章

  一

 ゆっくりと歩みを進めていた牛車が、ようやく止まった。紫苑は帳を開けて地面へと降り立つ。辺りを見渡すが、見覚えのない場所だった。都の中心部からは離れているのだろう。辺りは鬱蒼とした竹林に覆われている。
「こちらにございます」
 式神の先導に従い、彼は歩みを進めた。民家は目前にある一軒以外に見当たらない。わざわざ陰陽博士である自分を呼びつけた相手が、こんな質素な家屋に棲んでいるものだろうか。蘇芳を通して、ということは彼の知り合いだろう。いったいどういう繋がりなのか。
 ──どうも不自然だ。警戒の念を抱く紫苑をよそに、式神は家の中に入っていった。紫苑も後に続く。家屋の中は意外に小綺麗だった。もしかすると、かつて貴人の寵愛を受けた女が隠れ棲んでいるのかもしれない。名を明かさぬのはそういう理由かも──まさか、蘇芳の?
「それでは、よろしくお願い致します──」
 式神はある一室の前ですう、と消えた。ひとり廊下に残された紫苑は、帳の向こう側へと声を投げる。
「そちらにいらっしゃるのは、私を呼んだ方ですか」
「御門紫苑さまですか」
 かえってきた声は細く、若い女のものだった。
「はい」
「お待ちしておりました。どうぞ、中へ」
「…………」
 戸惑う紫苑を、声はもう一度招く。
「もう一枚几帳を下ろしておりますれば、顔をあわせる心配はありませぬ」
「……では、失礼」
 帳をめくった紫苑を、かすかな香の薫りが迎えた。部屋の中は暗い。
「わたくし──お祓いをしていただきとうございます」
 女の声は静かで、か細くさえあった。
「…………」
 紫苑は眉を寄せた。女が何を望んでいるのか、よくわからない。彼女に何かが憑いている気配はないし、呪いをかけられているわけでもなさそうだ。また声を聞く限りでは、祈祷が必要なほど体の具合が悪いとも思えない。
「申し訳ありませんが、一体何を祓えばいいのかわかりかねます」
 丁寧にそう告げると、帳の奥から動揺の気配が伝わってきた。
「え――」
「理由もないのに、祈祷を執り行うことはできません」
「や、やまいが」
「病が?」
 紫苑は眉を寄せた。
「ずっと、体が弱くて」
「そういうものは、いかんともしがたいのですが」
 紫苑は髪を掻いた。一体何を思って蘇芳は彼女を自分に紹介したのか、まったくわからない。
「陰陽師にもできることとできないことがありますから」
「……そうなのですか」
 声は少し元気を失ったようだった。
「紫苑さまなら――何でもおできになるのではないかと思っていました」
「買いかぶりすぎですよ」
 苦笑を浮かべた口元から、そっけない言葉が吐き出される。そう――誰もが過大評価している。あやかしの血が流れているという理由で、紫苑を自分たちとはとんでもなく違う生き物であるかのように思っているものの、何と多いことか。
 だが、彼女の反応は紫苑の予想とは少し違っていた。
「そうでしょうか。都の方々は、もっと紫苑さまに感謝すべきだと思います」
 きっぱりと言い切られた言葉に、紫苑は目を瞬く。
「都を妖異から守ってくださっているのは紫苑さまなのですから」
「……それが仕事ですから」
「仕事だからといって」
 女の声は優しい。
「命を懸けてもののけと戦うなど、ふつうのひとにはできませんわ」
「…………」
 何だろう。背筋がぞわぞわとして居心地が悪い。紫苑は落ち着かない様子で無駄に天井を見上げた。帳の奥の女の影が、ぼんやりと映し出されている。それはひどく小さく、華奢であった。
「……わたくし、寂しかったのです」
 女は、ぽつりとつぶやいた。
「ですから、理由をつけてお会いしたかった――」
「……なぜ、私に?」
 問い掛けた紫苑に、答えはすぐに返ってきた。
「紫苑さまにお会いしたかった。ただ、それだけです。いけませんか?」
「……嘘はいけないと思いますよ」
「ああ、そうですね。ごめんなさい」
 素直な声音。紫苑は帳から目を逸らす。――不思議な女だ。そう思った。
「用事がないのなら帰ります」
 長居は無用と立ち上がった紫苑に、女は声をかける。
「お待ち下さい。今はまだ、お送りする用意ができておりませんから」
「送ってもらわなくても構いません。自分で帰りますので」
「でも……」
 ――ぞくり。不意に、紫苑は身震いした。何か、鋭い殺気が走り抜けたような気がしたのだが……。
「…………」
 辺りを見回してみるが、特に異変はない。しかし決して気のせいではなかった。今もまだ、肌がぴりぴりと緊張している。
「失礼」
 紫苑はつぶやき、庭に面した帳を引き上げた。深い闇。その中に潜むものの気配――妖気。それも強大で、悪意に満ちている。危険だ、と思った。この庵の近くに、何か得体の知れないものが巣食っているに違いない。
「紫苑さま……?」
 不審そうな女の声。
「気が変わりました」
 紫苑は短く告げ、床に腰を下ろした。今はまだ、闇に動き出す気配はない。だがあれは徐々に凝り固まって形を成し、もののけとなることだろう。あれがもののけに変化する直前、そして形を取り始めたときが仕掛ける好機。それがいつ訪れるかわからない。今夜か。明晩か。その次か――少なくとも夜であることは間違いないだろうが。
「準備ができるのを待たせていただく」
「……はい!」
 女は嬉しそうに答える。――今はまだ、そのことは言わないでおこう、と紫苑は思った。いたずらに怯えさせるだけで、益はない。ひとまずこっそりと護符を張り置き、夜毎に様子を見に来るしかないか……。
 からりと帳が開き、彼を案内してきたのとは別の式神が白湯を運んできた。見た目はひとの形をしていても、紫苑にはそれが何であるかすぐにわかる。さらに、それが蘇芳が術をかけたものであることもわかった。
「そういえば」
 紫苑は器には手をつけぬまま、帳の奥の女に質問を投げる。
「蘇芳とはどのようなご関係で?」
「蘇芳さま、ですか?」
 義父を呼び捨てにした紫苑に違和感を感じたようだが、それでも女は素直に答えた。
「わたくしの兄と懇意にして下さっているのです」
「兄、と?」
「はい」
「…………」
 紫苑は首をひねる。義父の交友関係など知らないが、この女の兄であればまだ年若いことだろう。年齢が不釣合いすぎる。
 ざわり、と風が音を立てた。庭の闇がわずかにうごめく気配。
 ――ああ、早く帰らねばならないのに。紫苑は焦りを含んだ眼差しで、都の方角を見つめた。桔梗はまだ起きているのだろうか。まだ、自分を待っているのだろうか。懐から取り出した紙を鳥の形に折り、ふう、と息を吹きかける。羽ばたきながら滞空するそれの嘴に、紫苑は小さな手紙を挟んだ。――意外に遅くなりそうだから、先に寝ていろ。
 きっと彼女は悲しそうな顔をするのだろう。それを思うと胸が痛むが、ただじっと待たせているよりはましだ。紫苑の掌を離れた鳥は、一目散に屋敷へと飛び帰った。
 
 
  二
  
 日差しにわずかながら春の気配が感じられる。燐は軽い足取りで宮中を歩んでいた。
 もう少ししたら梅が見頃になるだろう。比叡のやまの辺りには美しい梅林がある。今年は朔も連れて見に行けるはずだ。紫苑らも誘おう。昴は、来るだろうか。最近透流との仲がぎくしゃくしているようだけれど……昴はまだ、気が付いていないのかもしれない。透流の優しい瞳の奥にひそむ、深く激しい愛情に。
「橘さま!」
 年若い少年の声。取り留めのない思考を打ち破られた燐は立ち止まり、振り返った。
「蓮くん」
 蔵人として宮中に上がっている、藤原家の末弟だ。燐は大学寮に文章博士として務めていて、蓮にも教授したことがある。ひと懐こい蓮に、燐は親しみを持っていた。その彼が、どこか不安げな表情で佇んでいる。
「……どうかした?」
 燐は近づき、蓮の肩に手を置いた。びくり、と蓮の体が震える。
「今日は……その、御門さまは……」
「ああ、紫苑? そういえば見ていないね」
 ――厄介なものを見つけた。そう言っていたのは二日ほど前だっただろうか。桔梗にも聞いたが、どうやらここ数日毎晩遅くまで仕事に出ているらしい。蘇芳からまわされた仕事だと言っていたから、義理上きちんと果たさねばならないのだろう。
「何か、用事があるのかな?」
 小柄な蓮にあわせるように、腰をかがめる。
「あ……あの」
 蓮は躊躇するように何度か目を瞬いていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「御門さまに、お伝え願えませんか」
「うん。構わないけれど」
「兄が……」
「お兄さん? えっと」
 蓮には異母兄を含めて兄が数名いる。困惑する燐に、蓮は言い換えた。
「雅哉のことです」
「……雅哉どのが、何か?」
「様子がおかしいんです……」
「…………?」
 燐は眉を寄せ、首をかしげた。
「それは、どういう――」
「ごめんなさい、僕、今時間がなくて」
 蓮は燐の腕をぎゅっとつかんだ。痛いほどに強い力。それだけ切羽詰まっているということだろうか。燐は思わずごくりと喉を鳴らす。
「伴雅も、同じことを思っています。どうか、一度話を聞いてやってほしいのです」
「……わかった。紫苑に伝えておく」
「お願いします」
 蓮は廊下を滑るように駆けていく。その後姿を見送り、燐はふと空を見上げた。
「急に、翳ってきたな――」
 一雨あるのかもしれない。冷たい、冬の雨が。
 
 
  三
  
「はあ……」
「ふう……」
 ため息がふたつ、部屋に大きく響いた。
 外は雨。朝はあんなにも暖かかったのに、午後も遅い今は底冷えのする寒さが都を包んでいる。
「さっきからため息ばかりね」
 昴が話し掛けると、桔梗は赤い目元をこすった。寝不足なのだろうか。
「昴さんだって、そうじゃないですか」
「……まあ、そうだけど」
「何かあったんですか?」
「え?」
 昴は顔を上げる。その耳が、朱色に染まっていた。
「べ、別に――」
「そんなわけないでしょう」
 桔梗は唇をとがらせる。
「だって、うちに来るのに透流さんを連れて来ないなんて……」
「いいじゃない、そんなこと」
「透流さんと、何かあったんですか?」
「――――!!」
 今度こそ顔中を真っ赤にして、昴は飛び上がった。――わかりやすい。桔梗は思わず笑みをこぼした。昴は顔をうつむけて床に指先で意味のない模様をなぞり始める。可愛いひとだ。
「……何もないわよ」
「意外に嘘が下手ですよね、昴さんって」
「うるさいわね! ……そっちだって、何かあったんでしょ」
「…………」
 何の気なしに言った言葉。それを機に、桔梗の顔からすうっと表情が消えた。
「……どうしたの?」
 心配そうに尋ねる昴。桔梗はすぐに笑みを取り戻す。だが、それはどこか無理をしているようだった。
「別に、何でもないんです。最近紫苑が忙しいから、寂しくて」
「そう」
 昴はあっさりとうなずいたものの、不審そうに桔梗の表情を伺っている。
「私は、紫苑を信じているから。だから……」
 桔梗は独り言のように何度も「信じている」とつぶやいた。まるで自分に言い聞かせようとしているかのようだ。
 昴はため息をついた。
「信じているからって。ただ待つだけが能じゃないと思うけど?」
「え?」
 桔梗は顔を上げた。昴が微笑んでいる。
「不安に思っていることとか、不満なこととか、さびしい気持ちとか。そういうのをぶつけるのも、信じているからできることだと思うわよ」
「でも……言われても困らせるだけかもしれない。仕事だったら、どうしようもないのかも」
「それは自分がそう思っているだけでしょ。本当はどうだかわからないわよ?」
「……でも」
「いいじゃない、困らせたって。いくら困らせても、あのひとは貴方を嫌いにはならないわ」
「そんなこと、わからないじゃないですか」
「わかるわよ。だって、信じているんでしょう? あのひとの貴方への気持ち」
「…………!!」
 桔梗は顔を上げた。昴と目が合う。深い深い青の色。
「だから、ちゃんと真正面からぶつからなきゃ駄目よ。あなたがひとりで悩んでいたことを後から知ったら、その方がきっと紫苑さんも辛いと思うから」
「……ありがとう、昴さん」
 ようやく彼女の表情が和らいだのを見て、昴は内心でほっと安堵する。
「そういえばいつの間にか紫苑のこと、『紫苑さん』って呼ぶようになったんですね」
「……そうね。いつの間にか、ね」
 桔梗がじり、と昴に近づいた。
「ところで」
「ん?」
「昴さんは、何があったんです?」
「いいじゃない、そのことはもう!」
「良くないですっ、こっちが話したんだからそっちも話してくれないと!」
「うるさーい!!」
 女同士の楽しい掛け合い。和やかな時間。だが、その間にも桔梗がふっと強張った横顔を見せることに、昴はまだ気付いていなかった。