instagram

藤原の巻 第二章

  一

 御門蘇芳の屋敷を訪れるのは、随分と久しぶりだった。燐は牛車から降り立ち、あたりを見回す。蘇芳が蟄居する館は都の西にあり、燐の屋敷が面した東大路からは随分離れている。紫苑の引き継いだ御門邸もまた、御所からみた鬼門──北東に居を構えているから、まるで蘇芳は義理の息子から逃れたかったかのようだ。燐は小さくため息をつき、歩を進めた。目の前には蘇芳の弟子だろうか、年若い青年が頭を下げて待っている。
「ようこそいらっしゃいました、橘さま」
「わざわざ出迎えありがとう。……蘇芳どのは?」
「奥でお待ちです」
 青年に先導されながら、燐はぼんやりと思う。彼にとって蘇芳はどのような師なのだろうか。優しいのだろうか。厳しいのだろうか。冷たいのだろうか。――紫苑に対する様子と、どれほど違うのだろうか。
 長い廊下を何度か曲がり、燐は奥の一室に通された。帳が降ろされていて、薄暗い。
「ご足労いただきありがとうございます」
 蘇芳の声が響く。
「いえ……」
 以前から思っていたのだが、どうやら自分は蘇芳にとって紫苑への橋渡しのような存在であるらしい。直接相対するのが嫌なのか、それとも怖いのか。利用されるのは好きではないが旧友のためだ、仕方がない。覚悟を決め、燐は蘇芳の正面に腰を下ろした。
 張り詰めたような沈黙が続く。――燐は怪訝に思った。蘇芳が自分を呼んだのは紫苑に関係することで間違いはないだろうが、一体何故彼はこんなにも迷っているのだろうか。困惑したような表情は固く、眉はひそめられている。埒が明かない。待ちきれなくなった燐は、蘇芳に先んじて口を開いた。
「今日は、一体何の御用でしょうか?」
「…………」
 蘇芳の眉間に刻まれた皺は、深い。
「紫苑のことなのですが……」
 ――やはり。燐は黙ったまま、視線でうながす。蘇芳は意を決したのか、まっすぐに顔をあげた。
「あのあやかしは、まだあやつの元におりますか」
 燐の脳裏には桔梗と、そして彼女と同じ一族である双子の兄弟が浮かんだ。だが蘇芳は後者の存在を知らぬはず。おそらくは桔梗のことを指しているのだろう。
「ええ」
「……そうですか」
 蘇芳はため息混じりにつぶやく。燐は逆に問い掛けた。
「一体何があったのです。何故突然そんなことを」
「あれは」
 蘇芳は燐の言葉を遮るように、口を開いた。
「女でしたな」
「『あれ』……?」
 それが桔梗を指すのだということを理解するのに、短くはない時間が必要だった。こみ上げる怒気を抑え、物静かに答える。
「そうですよ」
「お願いがあるのです」
 蘇芳はじり、と膝をわずかに進ませた。
「実は、紫苑に――縁談がある」
「は?」
 燐は思わず口をぽかんと開けた。しかし、蘇芳の眼差しは真剣だ。
「決して悪い相手ではない。子を作る心配――必要もない。形だけで良いのだ」
「一体何を言って」
「あやつが承知しないのはわかっています。しかし私には断れない」
「僕だって困ります。そんな話、紫苑に持っていきたくない。それに子を作る必要がないって――」
 つぶやいたところで、燐ははっと息をのむ。――花蕾(はなつぼみ)の姫君の噂を思い出したのだ。誰もが絶賛する美貌の持ち主でありながら、どこへも嫁ぐことのない藤原家の姫君。彼女は子が産めないのだという。彼女は血を流さないのだ、とも。だからこそ、彼女は帝の后になることができなかった。代わりに中宮となったのが、彼女の姉。血の交わりにより複雑化していく権力構造の中に、花蕾の姫君の居場所はない。確か、現在は都の外れに隠れ棲んでいるとか……。
「貴方にしか頼めぬ。どうか紫苑を説得してくれないか」
「そんな……」
 燐は舌打ちしたいのをかろうじて堪えた。
「相手の女性は、話に応じておられるのですか」
 紫苑が都びとにどう思われているのか、知らない燐ではない。特に深窓の姫君ともなれば、彼のことをひとを喰らう化け物のように怖れていても不思議はないのだ。
「その心配は要らない」
 意外にも蘇芳はうなずいた。
「あとは紫苑の気持ち次第――」
「……しかし」
「相手は藤原時雅どののご息女」
 蘇芳は再びにじり寄って来る。――それではやはり、花蕾の姫君か。燐は苦々しく自分の予想が当たったことを認めた。
「彼女を北の方に迎えれば、口さがない者どもが表立って紫苑を忌諱することはなくなる」
 ――それはどうだろう。燐は皮肉っぽく考えた。紫苑が美しい姫を手に入れれば、そのことがまた醜い嫉妬と羨望を巻き起こすのではないか。確かにそれを表立って口にする者はなくとも、紫苑はその気配を敏感に感じ取るだろう。そしてまた、彼は傷つく。燐は親友のそんな姿を見たくはない。
「お受けできません。失礼致します」
「燐殿!」
 蘇芳の鋭い声が飛んだ。立ち上がり、背中を向けていた燐がびくりと足を止める。
「この話を断れば――藤原家を敵に回すことになりかねませぬぞ」
「…………」
 燐は無表情に振り返った。
「たとえ橘家が再び取り潰されることになろうとも」
 ぐっと拳を握る。爪が皮膚に食い込んだ。
「僕は紫苑を裏切らない。絶対に」
「…………」
 燐は袴の裾を翻し、蘇芳の屋敷を辞した。もう二度とここに来ることはないかもしれないが、それでもいい。彼の覚悟は、固かった
 
 
  二
  
 宮中の長い廊下。冷たく澄み切った、冬の空気が辺りを満たしている。
 ふと、紫苑は足を止めた。前から歩いてくるのは見知った顔――藤原雅哉だ。彼の気配を感じた途端、何となくぞくりと胸がざわめいた。まるで、強大なもののけに相対したときのような……。
「これはこれは、御門紫苑どの」
 雅哉は静かな微笑を浮かべる。いつもと何も変わらぬおだやかな表情だ。紫苑はほっと体の力を抜いた。気のせいかもしれない。
 黙って礼をしてその場を去ろうとした紫苑の背中に、雅哉の声が飛んだ。
「紫苑どの!」
 切羽詰ったような――まるで悲鳴のように聞こえる。紫苑は振り返った。雅哉はそこに佇み、紫苑をじっと見ている。そういえば、少し顔色が悪いようにも見えた。
「いかがなさいましたか?」
 廊下を行くものはふたり以外に誰もいない。ふたつの影だけが、床に長く伸びている。
「紫苑どのは……」
 次に雅哉から発せられた声は、落ち着きを取り戻していた。
「もし、自分の大切なものが喪われてしまいそうになったなら――この手から遠く離れたところにいってしまいそうになったら」
 雅哉は真剣だった。紫苑はその視線を真っ直ぐに受け止める。
「どうしますか……?」
「…………」
 雅哉は自分の答えを待っている。そのことに気付き、紫苑は口を開いた。
「守ります」
 答えは、短いものだった。
「すべてを犠牲にしても?」
 そしてまた、淡々とした問いかけ。
「ええ」
 再び、紫苑は即答する。
「貴方自身の命さえも?」
「…………」
 少し、言葉につまった。彼の「大切なもの」たちは、彼が命を落とすことを望まないだろう。たとえそれが彼らを守るためであったとしても……。けれど、もしその方法しかないのだとしたら。自分はきっと躊躇しない。差し出せるものすべてを差し出して、彼らを守ろうとする。守ってみせる。
「それは、最悪の手段ですが……」
 紫苑は言葉を選ぶ。
「他にどうしようもないのなら、私は自らをなげうってでも、守り通してみせます」
「…………」
 雅哉が自分を見つめている。その瞳はどこか茫洋ととらえどころがない。紫苑は眉を寄せた。どうしたのだろう――何か、魂が抜けてしまったような、そんな目をしている。
「まさ――」
「お呼び止めして、申し訳なかった」
 紫苑の声をさえぎり、雅哉は軽く会釈するとその場を立ち去った。紫苑はただその後姿をじっと見送る。
「…………」
 何かが、おかしい。だがその違和感はその正体を明らかにすることなく、彼の胸に溶け広がり……消えた。
「紫苑!」
 暫しその場に立ち尽くしていた紫苑を呼び止めたのは、燐だった。
「藤原雅哉と話していたね。何の話?」
 駆けて来たのか、少し息を切らせている。そんなに急いでどうしたのだろう。
「いや……」
「もしかして、その」
 燐は彼の表情をうかがうように、上目遣いに彼を見上げた。
「何だ?」
「……何でもないよ」
 ごまかそうとした燐の襟を、紫苑はぐいとつかむ。
「こ、こら紫苑! 苦しいじゃないか」
 燐の抗議の声を聞き流し、紫苑は眉をつりあげた。
「燐。そういえばお前、ここ数日私を避けていないか」
「い、いいいや気のせいじゃない? うんそうだよ気のせいだよ」
「……お前の嘘はわかりやすいんだ」
「紫苑に言われたくないなあ」
 手を離し、紫苑は燐の目をじっと覗き込む。
「何か隠していることがあるのだろう。話せ」
「……藤原雅哉と、その話をしていたんじゃないの?」
 燐は首を軽く回しながら紫苑に尋ねた。紫苑は首を傾げる。
「その話?」
「だから……」
 燐は軽くため息をつき、その言葉を吐き出した。
「君の縁談の、だよ」
「…………」
 紫苑は目を瞬いた。
「は?」
「数日前、蘇芳さんから僕に話があってね――そんな話を取り次ぐのは嫌だって断ったんだけど。あのひとやっぱり直接紫苑には言い出せないんだねえ」
「何の話をしている? さっぱりわからない」
「だから」
 燐は紫苑の鼻先に指を突きつけた。辺りを見回し人気のないことを確認してから、声を押し殺して叫ぶ。
「君と! 藤原雅哉の妹、花蕾の姫君との間に縁談が持ち上がってるんだよ!」
「…………」
 紫苑はぽかんと口を開けた。
「な、な……」
「でも藤原雅哉が何も言わなかったってことは、立ち消えになったのかな? だったらいいけど」
 首をひねる燐を呆然と眺めながら、紫苑の脳裏に雅哉の言葉が浮かんだ。――もし、自分の大切なものが喪われてしまいそうになったなら……この手から遠く離れたところにいってしまいそうになったら……。
 やはり、あの雅哉はどこかおかしかった。一体何なのだろう……。
「ところで紫苑」
 燐の顔が眼前にせまり、紫苑はのけぞった。
「な、何だ」
「この話、桔梗ちゃんには知られちゃいけないよ。知られる前に断ってしまうことだ」
「……そうだな」
 紫苑はがくりと肩を落とした。
 
 
  三
  
「何のつもりだ?」
 雅哉はぶつぶつとつぶやいている。
「一体何故あいつにあんなことを聞いた? 聞いてどうするつもりだ?」
「…………」
 彼の唇がかすかに動き、何か言葉を発した。その後、雅哉の表情がにやりと歪む。
「ほう。お前も覚悟ができたのか。それは喜ばしいことだ」
 雅哉の口角から何か、鋭いものが覗いた。赤い、牙。
「今更後悔しても遅いさ。なあ?」
 雅哉は――雅哉の姿をしたものは、独り言を続ける。
「後悔とは、そういうものだ。気付いたときには取り戻すことも、やり直すこともできない。破滅が近付いてくるのをただ手をこまねいて見ているしかない――それが運命」
 不意にぎり、と牙が鳴った。目も牙と同じ、真っ赤に染まっている。
「俺は認めん! あれが……あれが運命だったなどと! 絶対に認めんぞ!」
 ――もう後悔はしたくない。だからこそ、俺は……。
 うめき声に混じって、小さなささやきが牙の間から零れ出た。
「違う……違う……」
 何が違うのかも言えぬまま、ささやきはただそれだけを繰り返す。だがそれも彼がばちんと口を閉じたことによって、余韻すら残すことなく断ち切られた。