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藤原の巻 第九章

  一

 正気を失った異形のもののけたちは、その鋭い牙と爪を奮う相手を求め吼え猛った。いびつに盛り上がった肉、切り裂いたような眦。口元からはよだれが滴っている。血に飢えたぎらつく(まなこ)を、水晶色の視線が静かに見据えた。
「壬、癸は昴さんたちを支援して!」
 桔梗は鋭く叫ぶと、高く跳躍する。空中で一転して高木の枝に着地し、地上を平睨した。──その動きに従い、薄闇の中に血の華がぱっ、ぱっ、と咲く。水の刃がもののけたちの太い首を立て続けに跳ねていったのだ。桔梗は再びくるりと地上に降り立つ。振り向きざまに放った水の弾は、こわい毛に覆われている黒々とした腹に、大きな風穴を開けた。
「とら!」
 白虎は朔と昴を載せたまま頭を低くし、前を睨んだ。唸りが空気を震わせ、鋭い風がひらめく。昴はその背中で印を結んだ──彼女の体をよりしろとして、玄武の力が引きずり出される。風の刃に切り伏せられ、地面に叩きつけられたもののけは悲鳴をあげた。
「支援なんか、いらないんじゃねえか?」
 壬は彼らの戦いぶりを横目で見ながら、腕を奮った。水を束ねた長剣が、もののけの毛皮を血で染める。癸は氷のつぶてを放ち、分厚い胸板やねじくれた四肢を射抜いた。
 敵の数は多い。しかし個々の力は彼らと雲泥の差がある。少しずつでも確実に減らしていけば、必ず勝てるはずだ。
「紫苑……」
 桔梗がふと不安げにつぶやいた。紫苑と、そしてあの迦月という男、ふたりの姿が見当たらない。焦ったようにぐるりを見渡す。あわせて腕を一閃。辺りの草木が血しぶきに染まった。

  二

 紫苑はただひとり、迦月と相対していた。向き合っているだけで圧倒されそうになるほどの殺気──紫苑はしかし目をそらさない。自分の叔父にあたるらしい男、迦月。彼は自分を殺したいほど憎んでいる。一族を滅ぼし、姉を狂わせた男の息子として。
 闇の中で薄ぼんやりと浮かび上がる姿は、色こそ常とは違えど顔立ちは藤原雅哉のままだ。紫苑は眉を寄せた。
「……雅哉どの」
 ひとに取り憑いた怨霊を祓った経験は数多いが、これほどまでに強い自我を持つ霊は初めてのことだ。上手くいくか、どうか──。
 迦月がにやりと笑った。自分の手で胸元を指し示す。
「お前、この体を助けたいのか」
「…………」
 紫苑は黙って迦月を見返した。
「殊勝な心がけだ。お前は人間どもの走狗(いぬ)だものな」
 挑発的な言葉にも、紫苑は眉ひとつ動かさない。
「この男はな、お前に妹をやりたくなかったのだそうだ。どんな手段を使っても、妹を守りたかったのだと。……望みに手を貸してやると言った俺に、こいつは自分から体を貸したのだ」
 迦月は言い募った。
「妹を人妖の嫁にはしたくないんだとよ! それでもお前はこいつを助けたいというのか」
「仕事だからな」
 紫苑はあっさりとそれだけを告げた。迦月は眉を寄せる。
「従順な走狗めが」
「…………」
 紫苑はただ静かに迦月を見据えている。
 ――もし、自分の大切なものが喪われてしまいそうになったなら、この手から遠く離れたところにいってしまいそうになったら……どうしますか……? かつて雅哉が自分に投げかけた問い。紫苑は答えた――全てを犠牲にしても守る、と。
 自ら体を明け渡したという雅哉の本心がどこにあるのか、迦月の言葉からは読み取れない。しかし、雅哉はただ守りたかったのだろう。小さくて非力な妹、そのしあわせを守ってやりたかったのだろう。雅哉が紫苑のことをどう評価していたにせよ、都人から半妖と忌諱される紫苑が、妹をしあわせにしてやれるとは思えなかったに違いない。兄としては当然の想いだ。ただ、そこにつけこまれただけ――相手が、悪すぎた。
 紫苑はすらりと宝剣を抜いた。細身の刀に刻み込まれた呪。夜明けの薄ぼんやりとした光をまとっている。迦月はその赤い眼を細めた。
「俺を、切るか」
「かつて」
 紫苑は少しずつ間合いを詰めながら、まるで独り言のようにつぶやいた。
「貴方の弟君をお祓い申し上げたとき――貴方は死をも厭わない覚悟をしておられた」
 母への罪悪感、兄への嫉妬から、体内にもののけを巣食わせた義弟、藤原伴雅。ひとともののけの狭間に身を置いた彼を、雅哉は見捨てなかった。その鋭い爪と牙の前に、自ら身を投げ出した。紫苑はそれをつぶさに見ていた。伴雅を救ったのは紫苑ではなかった。雅哉の情が、伴雅のこころを正気に立ち返らせたのだ。藤原家の長男として、数多の弟、妹を見守ってきた雅哉。伴雅への想いは、そのまま小夜子への想いに等しいだろう。
「しかし、このたびのことでは――貴方を想って、伴雅どのも蓮どのも、私や燐に相談を持ちかけてきた。兄の様子がおかしい、もし何かに巻き込まれているのならどうか助けてやってほしい、と。そのせいで、蓮どのは囚われてしまったようだが……今は橘の屋敷にいます。どうぞご安心を」
 紫苑の言葉に、迦月は眦を裂く。
「お前、誰と話している! 無駄だぞ。こやつのこころはもはやここにはない! 死んだのだ!」
「それは、どうだろうな」
 紫苑は跳躍した。迦月は手をかざし、炎の槍を突き上げる。
「ひとのこころは、それほど弱いものではない」
 宝剣の一振りでそれを吹き散らし、紫苑は地上につぶてを放った。迦月を取り囲んだそれは、五紡星の頂点をなす。
「何っ?!」
 迦月が異変に気付いたときには遅かった。二本の指を唇の前に翳し、紫苑の低い声が呪を詠みあげる。つぶての間を炎が走り抜け、輝きを放った。
「ぐ……」
 迦月は体を屈める。そらに向かって吹き上げる白い炎。それは体には傷ひとつつけることなく、ただ迦月の精神にのみ強い波動を送り込む。ここで力を削り取ってやれば、怨霊は身体への支配権を失うはずなのだが……。まぶしさに眼を細めながら、紫苑は祈った――しかし。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
 雄叫びとともに、五紡星の印は砕け散った。
「なっ……!」
 飛散する土砂から身を庇いながら、紫苑は驚愕に目を見開く。――防ぎきった。怨霊という不安定な存在でありながら、迦月は紫苑の術に打ち勝ったのだ。
「舐めるなよ、この餓鬼が」
 まるで奈落の底から響いてくるかのように、迦月の呪詛が耳に届く。紫苑は慌てて距離を取った。次の策を講じなければならない。わかってはいるが、浮かばない。ただ焦りだけが紫苑の頭を埋め尽くしていく。――どうすればいい。どうすれば雅哉を助けられる。迦月を彼の身体から追い出せる……?!
 迦月は舌なめずりをしながら、一歩一歩紫苑に近付いてくる。
「愛するものの手で死にゆく――最高の(はなむけ)だと思ったのだがな……。まあいい。お前が俺の趣向を台無しにしたんだ。この手で殺してやるとしよう」
「ちっ」
 紫苑は小さく舌打ちした。迦月との力は、ほぼ互角――生前の彼ならば純血の鳳凰族であるから、半妖の紫苑を圧倒していたはずだ。しかし既に迦月は自分自身の身体を失い、現在はあくまでひとである雅哉に寄生しているに過ぎない。奮える力も随分と制限されていることだろう。同じ条件で戦うのなら、勝てるかもしれない。だが、向こうは紫苑を殺すつもりであり、紫苑は彼を救うつもりで戦わなければならない。紫苑は歯を食いしばった。――何か。何かひとつ、手立てがあれば……。
 迦月の手の中に剣が生まれた。刀身は赤く輝いている。彼の妖力を具現化したものか、あるいは既存の刀に力を込めたものか。紫苑は宝剣を手に身構えた。
「行くぞ!」
 迦月が吼えた、そのとき。
「にいさま、もうやめて――」
 甲高い叫び声が、闇をつらぬいて響き渡った。
 
 
  三
  
「桔梗!」
 壬の声に、彼女は立ち止まった。白い手足は返り血でどろどろに汚れてしまっている。水龍がかつて恐れと一種の憧憬をも込めて呼ばれたふたつ名、「水の殺戮者」――まさにそれにふさわしい透明感と威圧感が、彼女にはあった。
「ここは俺たちで何とかできる。お前は紫苑を探せ!」
 壬もまた、赤く染まっていた。朔も昴も、彼らが思っていた以上に良く戦えている。それがたとえ神獣たちの力を借りているからだとしても、この多勢を同時に相手にする精神力は本人たちのものだ。
 桔梗は一瞬迷ったように辺りを見回したが、やがて頷いた。
「ありがとう!」
 駆け出そうとした先に立ちふさがった一頭のもののけ。――どん、という鈍い衝撃とともにその身体が左右に裂ける。断末魔の悲鳴すらあげることなく、それは倒れ伏した。ちぎれた体の間を、桔梗は足も止めずに駆けていく。
 ――紫苑。
 あの迦月とか言う男は強い。あやうく桔梗がこころをとらわれてしまいそうになったほどである。決して見くびれない相手だ。
 ――紫苑。どうか無事で……生きていて……!
 はっと立ち止まる。そらが白く輝いていた。紫苑の術だろう。そちらに足を向けようとした、そのとき。
「誰……?」
 か細い声が、桔梗を呼んだ。走り出そうとしていた足が止まる。彼女の視線の先には、うずくまって震えるひとりの少女の姿があった。長い黒髪は土で汚れ、大きな瞳には涙が溜まっている。
「貴方……藤原雅哉の、妹?」
 覚えていた名前をつぶやいてみると、少女は目を大きく見開いてうなずいた。
「兄を、知っているの?」
「そう――貴方が」
 桔梗は目を細める。紫苑の縁談の相手、小夜子だ。別に小夜子に恨みはない。だが、胸の中で何かがざわざわとざわめいた。少女は、そんな桔梗の想いには気付かない。
「貴方、さっき紫苑さまを刺した……殺したの?」
「殺していませんよ」
 桔梗の唇に笑みが浮かんだ。
「私が紫苑を殺すわけない。あれは紫苑の偽者だもの」
「え……?」
「貴方のところに来ていた紫苑は、本物の紫苑が作った式神だったんです。貴方の周りに潜む闇を、見張るための」
 少女の表情が、傷ついたように歪む。
「紫苑を殺そうとしているのは」
 桔梗の瞳は、同情のひとかけらも浮かべていなかった。
「貴方のお兄さん――藤原雅哉です」
「え?!」
 少女が顔を上げる。桔梗の視線に打たれ、怯えたようにあとずさった。――気に入らない。兄に守られ、紫苑に守られ、自分は何もせずにただ泣いている。気に入らない。
「貴方のお兄さんは、貴方を紫苑から守りたかったんだって」
「え……どういう……?」
 少女は戸惑いを隠せない。彼女は何も知らないのだろう。桔梗は言葉を重ねた。
「紫苑は渡さない。貴方に紫苑は要らないでしょう? だけど私には要るの。紫苑しか、いないの」
「……兄さまが、紫苑さまを」
 少女はつぶやき、ゆらりと立ち上がった。
「私のせい、なのね?」
「…………」
 沈黙を肯定と受け取ったのか、どうなのか。少女は桔梗に告げた。
「力を貸してください――兄さまを、止めたいんです」
 桔梗がわずかな逡巡の後頷くと、少女は少し悲しげに微笑む。
「だいじょうぶ、紫苑さまは貴方のものです。一度だって、あの方は私を見ては下さらなかったから――」
 桔梗ははっと息を呑んだ。戦闘の名残で頭に血が上っていたのが、すうっと引いたような心地がする。
「ご――ごめんなさい、私……」
「私、きっと貴方を傷つけたんですね」
 少女は眼を伏せる。桔梗はその手をとった。血で汚れた彼女の手。しかし少女は振り払わない。
「行きましょう」
 桔梗の言葉に、少女は力強く頷いた。