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藤原の巻 第三章

  一

 夜半頃から降り始めた雪は、一晩掛かって都を白く染めた。
「…………」
 伴雅は足を止め、小さくため息をつく。口元を覆った白いもやは、まるで彼の心中を表しているようだ。
 異母妹、小夜子が体調を崩したと聞いた彼は、彼女の住まう家を見舞っていた。娘と同じように病弱だった彼女の母は早く亡くなっており、乳母であった女が我が子のように育てている。家人に案内されたとおりに廊下を進み、伴雅は帳のかかった部屋に入った。とたん、空気が揺れてぱちりと火鉢が音を立てる。
「ともにいさま……?」
 記帳をへだて、か細い声が部屋に響いた。伴雅は表情を緩める。彼のことをそう呼ぶのは彼女を置いて他にない。
「ああ、私だ」
「来てくださったのですね。ありがとう」
 無邪気な声にほだされるように、彼は床に腰を下ろした。
「熱はとれたか」
「……まだ、少し。でも大丈夫です。食事も摂りました」
「そうか」
 伴雅はうなずいた。そのまましばし、沈黙が落ちる。
「……ねえ、にいさま」
 先に口を開いたのは、小夜子だった。伴雅ははっと顔を上げる。
「何だ?」
「にいさまは、お聞きになっているのでしょう?」
「…………」
 伴雅は視線を落とす。
「お前の縁談のことか」
「ええ」
「聞いているよ」
「どう思っておられまして?」
「…………」
 伴雅は口ごもった。個人的に、御門紫苑には恩義を感じている。鬼に取り付かれ、もののけに身を落としかけていた自分を救ってくれた。結果的には兄のことも守ってくれたのだ。感謝しないはずがない。そして同時に――伴雅は彼の秘密をも知っている。彼の屋敷に棲む一匹の美しい獣の存在を。あのあやかしは紫苑を慕っていた。そしておそらくは紫苑も……。
「あの方に妻はおられないのですわね?」
「……そうと聞いている」
 伴雅は妹のいる帳の奥から視線を外した。
「どんな方なのでしょう」
 その声に不安の色はない。伴雅は額を手で覆った。
「どんな……というと」
「小夜はお逢いしてみとうございます」
「小夜子」
 無邪気な様子の妹に、伴雅は声を掛けた。
「それはまことのこころか」
「…………」
「無理をせずとも良いのだぞ」
 小夜の答えを待たず、伴雅は畳み掛ける。
「父上の望みをむげにはできぬと思いつめておるのではないか――私はそう危惧しているのだが」
「無理は、しておりません」
 小夜子の声が揺れた。
「でも……私には他に何もないのです。少しでもお父さまのお役に立ちとうございます」
「小夜子!」
「お噂によれば、寡黙ではあるけれど音楽に長けた方とか」
 一転して小夜子は明るく言葉を紡いだ。
「私も音楽は好きですもの。きっとうまくいきます」
「しかし」
 伴雅ははっと口をつぐむ。もしかするとあのあやかしは彼にとって妻も同然なのではないかという考えが、ふっと思い浮かんだのである。
「ともにいさま?」
「……何でもないよ」
 小夜子はそれ以上追求しようとはしなかった。
「……ひとつ、にいさまにお願いがございます」
「何だ?」
「話が決まる前に、先方にお逢いしてみたいのです」
「どうやって」
 困惑する伴雅に、小夜子は言った。
「方法はあります。ともにいさまが協力して下さるならば――」
「……わかった」
 伴雅は意を決する。
「私にできることなら、何でもしよう」
 この薄幸の妹が少しでもしあわせに近づけるのなら、自分は協力を惜しまない。――しかし……。
「兄上はこのこと、一体どう思っておられるのだ……?」
 最近顔をあわせることの少なくなった兄、雅哉を思い、伴雅は訝しげに眉をひそめた。
 
 
  二
  
 ――この話、桔梗ちゃんには知られちゃいけないよ。知られる前に断ってしまうことだ。燐はそう言っていたし、自分もそうするつもりだった。それなのに今この状況はどういうことなのか。燐とその会話を交わした二三日後、宮中から戻った紫苑は生命の危機を感じていた。
「紫苑?」
 にっこり微笑むのは愛しい妻である。しかし今はその笑顔が何よりも怖ろしい。
「どういうことですか?」
「な、何のことだ」
 平然とした様子を装うとする紫苑だが、声がうわずってしまっている。桔梗の眉がきっとつりあがった。
「とぼけないで下さい!」
 中庭の池が爆発した。彼女の持つ力に呼応したのだろうか。紫苑は横目で冷たい飛沫に打たれて震える草木を見遣った。――可哀相に。
「とぼけているつもりはないのだが」
「雪柳さんが教えてくれましたよ!」
「…………」
 ゆきやなぎ。燐と話を交わしたあの日、宮中に連れて行った式神の名前だ。何故契約を交わした自分を裏切り、桔梗に密告するのか。白い衣をまとう飄々とした無表情を思い出し、紫苑は苦虫を噛み潰したような表情になった。
「あのことか」
 隠しおおすのは無理だと判断した紫苑は、咄嗟に方針を切り替える。元々自分にやましいところなどないのだから、正直に話してしまうのが一番いいだろう。
「それ、本当なんですか?!」
 傷ついた目をして彼に詰め寄る桔梗の両肩にそっと手を置き、紫苑は口を開いた。
「私のあずかり知らぬところで、先方と義父が勝手に話を進めていたらしい。私も先日知ったばかりなのだ」
「先方……って」
「ああ。向こうは摂政どのの娘御だとか」
「……せっしょう」
 つぶやいた桔梗は、何か考え込むように口を閉ざした。
「…………」
 先ほどまでの威勢はどこへやら、桔梗が少しずつ頭を垂れていく。紫苑は不思議に思い尋ねた。
「どうした?」
「いいお話……なんですよね」
「何が?」
「その、縁談です」
 桔梗の表情は見えない。
「この前聞きました――男のひとはいろんな女のひとの元に出掛けていくんだってって。それがふつうなんだって」
「誰に聞いたんだ」
「式神さんたちに都での結婚の風習を教えてくださいって、お願いしたんです。紫苑と私の場合は、特別みたいだったから……」
 紫苑は眉をひそめる。式神たちに余計なことを言うなと釘を刺しておく必要がありそうだ。どうも彼らは桔梗を構いすぎる。もしかすると、それも契約者である紫苑の意思を反映しているのかもしれないが……。
 桔梗はのろのろと言葉を続けた。
「だから、もし紫苑がそのひととも結婚したいのなら……」
 ――紫苑の頭に、血が上った。
「本気で言っているのか」
 紫苑は桔梗の手首を掴み上げる。一瞬、加減ができなかった。
「痛っ……!」
 桔梗の悲鳴に、慌てて力を緩める。しかし、紫苑の眼差しは赤みを帯びて燃えていた。
「私がそのような男に見えるのか、桔梗」
 ――私、紫苑を怒らせてしまった……? 桔梗はますます下を向いてしまう。紫苑はそんな彼女をもどかしげに抱きしめた。その瞳は既に常と同じ、暖かな紫色をしている。
「隠そうとした私がいけなかったのかもしれないな。すまない……」
 一端体を離してしゃがみこみ、桔梗の顔を見上げた。蒼白な頬を優しく撫でる。
「お前がこの話を聞けば苦しむと思った。だから、お前の知らないうちに断ってしまいたかったんだ」
「断るんですか……?」
 目を見開く桔梗に、紫苑は苦笑した。
「断らないと思ったのか。馬鹿だな」
「だ、だって、摂政ってすごく位の高いひとでしょう?」
「それがどうした。私には権力など必要ない」
「でも、紫苑の立場が悪くなるのは……」
「立場などより」
 紫苑は桔梗の言葉をさえぎった。
「お前の方が大事だよ」
「…………!!」
 桔梗が体を震わせる。紫苑は小さな子供に言い聞かせるように、ゆっくりと話した。
「どんな財宝も、権力も――お前に涙を流させて手に入れるくらいなら、全部捨てる」
「……紫苑」
「それに」
 紫苑はふ、と表情を緩めた。
「お前に泣かれたら、私は壬らに八つ裂きにされてしまうのだぞ」
「え?」
 桔梗はきょとんとした。
「祝言をあげる前に、言われたんだ」
 紫苑はくすりと笑う。
「『御子を泣かせたらただじゃ済まないぞ』とな」
「壬が……」
 桔梗はぽつりとつぶやく。彼らはまだ、自分を御子として慕ってくれている。そのことを、今なら喜びとともに受け入れられるような気がした。以前は御子と呼ばれることもあれほど嫌だったのに……。そんなわだかまりはもう、必要ない。彼らにとって彼女は御子であり、そして桔梗なのだ。どちらも間違いではない。
「どうか――」
 紫苑は立ち上がり、その腕の中に桔梗を強く抱きしめた。
「私を信じてくれ」
 どんな時でも、どんなことがあっても、自分が桔梗を悲しませるようなことをするはずがないのだから。
「紫苑」
 桔梗の手がぎゅっと彼の背中をつかんだ。
「本当は……!」
 ――縁談なんて、嫌だった……!!
「わかっているよ」
 紫苑は穏やかに答える。桔梗は強く強く紫苑の胸に顔を埋めた。
「紫苑――」
 苦しくてたまらない。自分の中にある醜い独占欲、嫉妬、そういったものをどうすればいいのか、桔梗にはわからなかった。救いを求めるように、彼女は紫苑を見上げる。
「あ……」
 体が、震えた。紫苑は微笑んでいる。桔梗のすべてを受け入れると言った、あの優しい笑み。全身から強張りがほどけていく。
「大丈夫だ」
 紫苑はそっとささやいた。
「これから先、いろんなことがあるだろう。私を疑いたくなるときがあるかもしれない。その時は必ず私に直接聞け。私は決してお前に嘘をつかない。この世の誰がお前を欺いても、私だけは欺かない。そのことは、信じていて欲しい」
「……はい」
 桔梗はうなずく。
「信じることは簡単なようで難しいぞ。できるか?」
「できます!」
 桔梗は力強く言い切った。紫苑は微笑む。
「……そうか。それならいい」
「紫苑は? 私のことを紫苑も信じていてくれますか?」
 勢い込んで尋ねる桔梗を、紫苑はひょいと抱き上げた。
「信じているさ。出会った時からな――」
 目を細めた紫苑があまりにも愛しげに彼女を見つめるものだから――桔梗は顔を赤らめ、彼の肩に顔を伏した。