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藤原の巻 第七章

  一
  
 壬は自分の目に映るものが信じられなかった。
 ――桔梗が、紫苑を刺した? まさか。そんなこと、あり得ない……。
 桔梗は地面に伏したまま動かない。癸が駆け寄り、抱き起こす。大声で呼びかけているにも関わらず、彼女は反応しなかった。壬はまだ、動けない。体中の血が凍り付いてしまったようで、指一本自分の意思で動かせはしなかった。
「兄さん!」
 癸が振り向く。その頬も蒼白だった。
「紫苑さんを、早く!!」
 ――そうだ。壬ははっとした。紫苑を早く介抱しなければ、あの失血量では本当に死んでしまう。紫苑が――死ぬ。そのことを考えただけで、壬の胸はぎゅっと縮んだ。
「……くっ」
 歯を食いしばりようやく一歩を踏み出したところで、何者かが彼と紫苑との間に割って入った。
「そこをどけ!」
 押しのけようとして、逆に突き飛ばされる。
「思わぬ邪魔が入ったな」
 聞き覚えのない、低い声。体中土にまみれながらも、壬はすぐに立ち上がる。早くしなければ。急がなければ。紫苑が死んでしまう――!!
「水龍の小童(こわっぱ)か」
 夜闇にぼうっと浮かぶ、その姿。男だ。壬はぎっとにらみつけた。
「お前が……やったのか。桔梗を使って、紫苑を」
「…………」
 にやりと笑う口元。その髪も目も、紅蓮の色を宿していた。
「案外あっけないものだったな。水龍族の御子というから、どれほどのものかと思ったが」
「…………」
 壬の奥歯がぎり、と鳴る。
「所詮は女。嫉妬の炎を掻き立ててやれば――簡単なものだ」
 男の視線がちらりと動いた。家の間口で、ひとりの女が腰を抜かしている。小柄な愛くるしい少女。先ほど悲鳴を上げたのは彼女だろうか。
「逃げろ、馬鹿!」
 壬の怒声に、彼女は這うようにして逃げ出した。
「嫉妬、だと……?」
 癸が足止めを食っている兄に気づき、紫苑のほうに駆け寄ろうとした。だがそれよりも早く、男がはっと振り向く。
「邪魔をするな、儒子(こぞう)!」
 男が吼えると同時に、その掌底から生まれる炎の大蛇。
「ぐっ」
 癸はかろうじて避け、地面を転がった。
「お前、まさか……」
 壬は茫然とつぶやいた。その髪の色。瞳。そしてどこか紫苑の持つものと似た妖力――思い当たる存在は、ひとつしかない。
「鳳凰族……?」
 男は笑ったまま答えない。壬は叫ぶ。
「何故だ。紫苑は、鳳凰族の直系の血を引く最後の……!」
「汚らわしいことを言うな」
 男はぴしゃりと言い放った。
「こやつは鳳凰族ではない。半人半妖の人妖が鳳凰族の守り神である朱雀の力を奮っていたなど……厭わしい!」
「あなたは、一体……?」
 癸の問いに、男はぎらぎらとその赤い瞳を光らせた。
「私は迦月(かづき)。鳳凰族の御子」
「……御子?」
 壬は眉をひそめる。
「鳳凰族は滅びたはずだろう」
「まだ滅びてはいない!」
 男は激昂する。その圧倒的な瘴気に、壬はわずかに退いた。
「私がいる限り、決して滅びぬ!」
 男が、動く。
「?!」
 頬に鈍い衝撃を受け、壬は宙を舞った。――男に殴られたのだと気付いたのは、地面に激突した後だった。即座に立ち上がったところをさらに叩き伏せられる。爪先で鳩尾を抉られ、胃液が逆流して喉を焼いた。涙で視界がかすむ。癸とふたりがかりだというのに、男の強さは圧倒的だった。
 這いつくばりながらも顔を上げると、ちょうど目の前に紫苑が倒れていた。血は地面が吸ってしまったのか、もう流れ出してはいない。手を伸ばして彼の体に触れる。――ぞっとするほど冷たかった。
「……そんな」
 痛みのせいではなく、涙がこみ上げる。紫苑は本当に死んでしまったのか。桔梗に殺されてしまったのか。
「……そんな、まさか」
 癸の呻きが聞こえる。だが、立ち上がれない。男の笑い声だけが、不気味に反響していた――。
 
 
  二
  
 蓮は目を開いた。薄暗い部屋に、自分は寝かされているらしい。
「気が付かれましたか」
 ぼんやりと声の主を見上げる。桜色の髪をした少年が、じっと彼を覗き込んでいた。
「貴方が、助けてくれたのですか……」
 蓮はつぶやく。喉が焼けつくようにひりひりと痛んでいた。少年の髪の色は、ひとには決してあり得ぬ色だ。しかし、蓮がそのことを不審に思うことはなかった。気付いてさえいなかったかもしれない。
 ――あれは本当に兄だったのだろうか。蓮は寝具の中で体を縮める。今更のように恐怖が込み上げて、彼はがくがくと震えた。
 彼は数日前から地下の座敷牢に引きずり込まれ、監禁されていた。――兄、雅哉の手によって。燐に相談したことを一体どこで聞いていたのか、そのことを詰問されたのが始まりだった。やがて兄は徐々に激昂して、蓮を裏切り者と罵り、殴った上に閉じ込めた。良く餓死しなかったものだと思う。
「重湯です。どうぞ」
 弱った胃でも受け付けられるようにと、温かそうに湯気を立てる椀が差し出される。
「……ありがとうございます」
 蓮は起き上がり、それをゆっくりと口に運んだ。一口含むごとに体中を生気が満たしていく。蓮は夢中でそれをすすった。やがて空になった椀を、少年の手がそっと取り上げる。
「今しばらく、お休みください」
「あ、あの」
 ――ここはどこですか? 蓮の言葉が聞こえているのかいないのか、少年は深々と一礼したかと思うと、すたすたと部屋を出て行く。部屋の隅でにゃあ、と白い猫が鳴いた。おや、と思う間もなくそれは闇に溶けるように消えてしまい、蓮は目を瞬かせた。――僕は夢を見ているのだろうか。
「……いっそ夢なら」
 兄の豹変も、暴行も、全部全部夢ならいいのに……。ふと、痛みに気付いて蓮は自分の手首を見遣った。赤黒く変色した痣。それはくっきりと指の形を示していた。兄の指だ。
「……兄……さま」
 夢などではない。あれは全て事実なのだ。急にどっと悲しみが押し寄せて、蓮は床に伏せて泣いた。――どうして。一体何があったの。兄さま……!! 兄がおかしくなったのはいつ頃からだっただろう。少しずつの変化ではなかった。ある日突然、何かが狂い始めたのだ。一体どうして……。
 結局自分がどこにいるのか、先ほどの少年は誰なのか。何ひとつ考えることができないまま、蓮は再び泥のような眠りに落ちていった。
 
 
  三
  
 男は高らかに哄笑する。
「紫苑は死んだ――忌まわしい男の子供は死んだ! 罪深き母殺しの息子は死んだのだ!!」
 強風が枯葉を吹き上げる。それはまるで男のために勝利の舞を踊っているように見えた。男は既に壬らを相手にしていない。辺りで気を失っているであろう桔梗も、紫苑の遺体も。既にどうだっていいのだろう。
「朱雀よ!」
 両手を天に突き上げる。
「真の御子の下へ! 鳳凰族最後の御子の下へ! 来るがいい――」
 男が周りの地面に描いた陣に、炎が走った。五紡星のかたちをなぞったそれは、夜空を煌々と照らし出す。熱気に煽られ、男の笑みが揺らめいた。――そうだ。ようやく俺は仇をとることができた。苦悶と狂気のうちに死んでいった姉さん……貴女を狂わせた、そして貴女を殺した紫苑は、もういない。俺はようやく目的を果たした。そして俺のもうひとつの復讐劇が、ここから幕を上げるのだ……。
「待っていろ人間ども」
 男はぎらつく眼差しで宙を睨む。炎に照らし出されたそれは、一層凄絶な色に輝いていた。
「お前たち全員、皆殺しにしてやる……!」
 ――ぴくり、と壬の手が動く。誰かがそっと、その手を引いた。
「さあ今、我が前に姿を現せ……!!」
 声ならぬ咆哮。男の頭上、炎を纏う神鳥がゆっくりと円弧を描きながら空をたゆとうている。神々しいその姿を視界にとらえ、男は会心の笑みを浮かべた。朱雀は彼に応えて姿を見せた。つまり、前の契約者の死亡は確実だということ。
 ――紫苑は死んだ。死んだのだ……! 暗い愉悦に唇を歪ませて、男は歓喜の声を上げる。
「朱雀よ、その業火で総てを焼き尽くすがいい!!」
 朱雀が彼の呼び声に従い急降下した。――そう、そのまま焼き尽くしてしまえばいい。汚らしい人妖の死体も、馬鹿な水龍の御子も、あやかしとしての矜持を忘れた水龍の小童どもも……!
 男は炎に包まれながらつぶやいた。
「次は、都だ」
 朱雀の羽が、地を撫でる。轟音。
「ぐああああああああああああっ!!」
 男は信じられないほどの激痛の中、絶叫した。