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藤原の巻 第一章

  一
  
 都の南の果て、羅城門。御門家当主によりもののけが討伐されてから既に半年以上が経つが、未だ寄りつくものの姿はほどんどない。夜ともなれば寒々とした風に乗って野犬の遠吠えが響き、運悪く通りがかったものも薄気味悪さに背筋を凍りつかせるという。
 虫の音ひとつ聞こえない、深夜。静寂に包まれた闇にまぎれ、蠢く何かの姿があった。柱の朱は既に剥げかかっているが、その中に一際目立つ赤があった。それがまるで夜に浮き出るように、ゆらりゆらりと揺れている。
 手が、伸びた。がりがりと地面を掘り返す音――まるで死者の呪詛のようにも聞こえる。やがて、二本の手は白っぽい塊を掘り出した。髑髏(されこうべ)。それを手は、優しく撫でる。
「こんなところに――」
 低いつぶやきは深い闇に吸い込まれていく。
「貴方が果たせなかった願い、俺が実現してあげる」
 誰よりも愛しい裏切り者。そのための力を、自分は手に入れた。闇を纏い血を啜る力を……。
「貴方の子供は、俺が殺す」
 燭が吹き消されるように、すべてはかき消えた。そこに在るのはただただ暗い、底無しの夜――。
 
 
  二
  
「ん……」
 夜半過ぎ、桔梗は不意に目を開けた。寝返りを打とうと身動きするが、紫苑の腕にぶつかるだけの結果に終わる。
「どうした?」
 寝起きのせいか、いつもと少し違うかすれた声。
「ごめんなさい。起こしてしまいましたね」
 体を起こすと、長い銀の髪が紫苑の体をさらさらと覆った。それを紫苑は指先にからめ、もう片方の手で彼女の頭を抱き寄せる。彼女はなされるがままに体を倒した。
「眠れないのか?」
「いいえ」
 目を閉じた桔梗は、紫苑の胸元を指先で辿った。一見細身に見える紫苑だが、意外に胸は広い。押し付けた耳からは、規則正しい鼓動の音が聞こえた。
「こうやって、目を覚まして……紫苑が隣にいるって、しあわせです」
 心地良く髪をすく手は大きく、優しい。
「そうだな」
 目を開けると、紫苑が彼女を見つめていた。動悸が早まる。闇の中でもはっきりわかるほど、紫苑は微笑んでいた。柔らかな光を湛える紫電の瞳。吸い寄せられて、動けない。――その隙をつくように、紫苑は彼女を抱えたまま体を反転させた。
「な……に?」
 桔梗は驚いて彼を見上げた。床に銀糸が乱れ広がり、それに紫苑の黒い髪が混じる。紫苑はまだ、微笑んでいる。のしかかる彼の重みさえも、愛しいと思った。
「いつも私がお前を抱いて寝ているだろう」
「は……はい」
 桔梗は顔を赤らめた。もう何ヶ月も前から――祝言をあげるずっと前から、桔梗は毎晩紫苑の腕に守られて眠っている。今ではそうしなければ寝られないのではないだろうか、と思うほどだ。
「だから、今日は逆がいい」
「え?」
 桔梗の胸元に顔を寄せ、紫苑は彼女の背中に腕を回す。重いだろうと思ったのか、自分の頭の下から彼女の腕を外させた。
「紫苑……?」
「駄目か?」
 見上げる眼差しに、桔梗は息をのんだ。
「いいですけど……」
「そうか」
 紫苑は彼女の腕の中で目を閉じる。口元が少し緩んでいた。――まるで子供みたい。たいして子供を良く知るわけでもないのに、桔梗はそう思う。今、紫苑は自分の鼓動を聞いているのだろうか。そして、彼女の体温を全身で感じているのだろうか。いつも彼女がそうしているように。彼女が紫苑に抱かれたとき感じるのと同じくらいのしあわせを、紫苑も感じているのだろうか。
 そうっと、長い髪をなでる。
「紫苑」
「……ん?」
 既に眠りに落ち始めていたのか、紫苑の返事は少し遅れた。桔梗はくすくすと笑いながら、紫苑をさらに胸元へと引き寄せる。
「ずうっとずっと、夜ならいいのに。朝も昼もなくって、夜だけ」
 それならこの帳の中、ずっとふたりで過ごせる。紫苑とふたり、こんなにも近く肌を触れ合わせていられる。
「それは困るなあ」
 のんびりとした返事に、桔梗は少し表情を強張らせた。紫苑は自分と同じようには思ってくれないのだろうか――。しかし、その失望はすぐに打ち破られた。
「私はお前の顔を明るいところで見たい。こんな暗いところでは良くわからん」
「……老眼ですか?」
「私はお前ほど目が良くないからな」
 肌蹴た胸元に口付けられ、桔梗は小さく声をあげた。
「昼があるから、夜がある。離れて過ごす時間があるから、こうして寄り添う時間がある」
 紫苑の吐息が熱く、桔梗のうなじを火照らせる。
「それでも、私はいつでも――お前の一番近い場所にいる。そのつもりだ」
 日の光に、風のそよぎに、誰かの遠いさざめきに、紡がれる楽の音に。いつも桔梗を感じている。
「……紫苑」
 桔梗は溢れる想いをため息でごまかした。
「いつからそんなに情熱的になったんですか? 私、どきどきしちゃいます」
「知らなかったのか?」
 紫苑が彼女を見上げる。上目遣いの視線はいたずらっぽく微笑み、桔梗の鼓動を否応でも高めた。それも、紫苑には手に取るようにわかっていることだろう。彼は今、その律動に頬を触れさせているのだから……。
「私を変えたのは――変えるのは、いつだってお前だ」
「――――!!」
 桔梗はたまらなくなって、紫苑を強く強く抱きしめた。――絶対に離さない。誰が来ても、何と言おうと、このひとは離さない。
 すべてを引き換えにしても――紫苑は渡さない。
 
 
  三
  
 昼下がり、藤原邸。父、時雅の言葉を聞いた雅哉は耳を疑った。
「今、なんとおっしゃいましたか」
「二度も繰り返すようなことか?」
 時雅は扇を振る。神無月の近付く今は、もうそれほど暑くはない。父上は表情を隠したいのではないだろうか――うがった見方かもしれないが、あながち外れているとも思えなかった。
「小夜子は我が妹ですぞ」
「そうだ。そして私の娘だ」
 間髪入れず戻ってきた返答に、雅哉は言葉に詰まった。
「悪い話ではないと思うし、本人の了解も取り付けてある。あとは先方の思惑次第――」
「小夜子が了解したのですか」
「ああ、そうだ」
「……少納言どのは」
 かつて小夜子の元に通おうという意思を見せた男の名を挙げるが、父はやはり首を縦にはふらなかった。
「あの男では婿として不足だ。藤原家にはつりあわぬ。お前もそう思うであろう?」
「…………」
「今回の縁談がまとまれば、我ら藤原家には強大な味方がつくことになる。相手は何も心根の悪い男ではないのだし……お前も知っている通りな」
 それはわかっている。わかってはいるのだが、雅哉はどうしても承知できない。
「しかし……」
「まあ良い」
 時雅は立ち上がった。
「お前の承諾は要らぬ。とりあえず私が話を進めておく。わかったな」
「……はい」
 雅哉は低く返事をする。体中の血が沸き立つような思いだったが――彼にはどうすることもできないのも、また事実だった。
 
 藤原小夜子。彼や伴雅の異母妹であり、蓮の異母姉。齢は十八、たしかに婚期ではある――むしろ少し遅過ぎたくらいであろう。
「そういえば……」
 ふと雅哉は思う。伴雅はこのことを知っているのだろうか。長男である自分が知らされたばかりなのだから、伴雅はまだ知らない可能性が強い。雅哉とともに父を説得してはくれないだろうか。――いや、小夜子自身が承諾しているのだ。今更何ともなるまい。唯一の望みは先方が断ってくれることだが、しかしそれはそれで藤原家の名に傷がつくことになり、小夜子が哀れでもある。
「一体何のつもりでいらっしゃるのですか、父上……」
 食いしばった歯の間から漏れるうめき。それを聞くものは誰もいない――そのはず、だった。